永遠な春 立春 筆者 : レート

「こるぁ進藤!なーにモタモタやっとるかぁ!」
「へ」
「へじゃねぇよへじゃ!ボーっとしてねぇできびきび動け!」
「あっ、す、すいません!」

岡野さんに怒鳴られて我に帰った。考え事をしていたと思う、なにを考えていたかは忘れた。

今日は実に運が悪い。店に来れば美しすぎる笑顔で迎えてくれる川澄さんがいる…はずだったのに、そこには夜叉面でボクの出勤をを待ち構えていた岡野さんが仁王立ちしていた。川澄さんの体調不良で店に出れず、代理教育係として何故か岡野さんが選ばれた。店長命令だった。逆らえなかった。

新顔だからあれこれと指導されるのは当然であり、ボクの指導をしてくれるのは基本的には川澄さんだ。わからない事は丁寧に教えてくれるし、もちろん怒鳴ったりもしない。それにひきかえ岡野さんは怒鳴り散らすタイプで、疲れて少しスローペースでやっていようものなら例え離れていようとも喝が飛んでくるし、教え方もぶっきら棒でわかりにくい。拳を振るわないのが唯一の救いかもしれない。ちなみに、未婚の32歳。

「よぉ進藤、」
「はい?」

脚立の2段目に座った岡野さんが、倉庫から商品を出しているボクを見下ろしている。私語は慎めと言うくせに、自分は堂々と私語を言うのだ。

「お前、彼女は?」
「え。いませんけど」
「おぉそうか、なら合コン行くぞ」
「…はい?」
「いやだから合コン。わかるだろ?」
「そ、そりゃわかりますけど…」
「それにお前よ、大学生ったらイコールで合コンだろうが」

行った事がない。それに、大学にまだ入って日も浅いというのに。そもそも岡野さんとボクの歳の差を考えているのだろうか、単純計算で干支一周以上離れている。級友というよりは兄弟だ。

「え、遠慮しときます」
「はぁ?断る理由がどこにあんだよ」
「ボクそういうの苦手なんで」
「バカなに言ってんだ、あのな、子孫繁栄のためには恋愛というのは重大な要素であり―」

付け加えると、岡野さんはたまに突然語り出す。理論的なことを言っていて内容は決してスカスカではないけど、聞いてもなんの得にもならないし、第一興味がない。聞き流していても後で感想文を書かされるわけじゃないから問題はない。

「おーい晃太ぁ、早くしてくれー」
「あ、はーい、今行きまーす」

ボクを下の名前で呼んだ男、名を進藤明雄と言う。親戚でもなんでもない赤の他人。苗字が同じなのは単なる偶然だ。かといって苗字で呼び合うとすごく紛らわしいので、晃太と呼ばれ、明雄さんと呼ぶようにしている。温厚で長身のやさしい人、妻子持ちの40歳。

岡野さんが熱心に語っているが、それを無視してカートに載せた商品を運び出す。

「―つーわけだから、お前は必然として合コンに…って、進藤?」

倉庫のドアを押し開けて売り場に出る。周辺で遊んでいた子供にぶつかりそうになり緊急回避。今晩のおかずを決め兼ねている若奥さんにいらっしゃいませ。営業妨害スレスレの大声で会話しながら安いお菓子を買い漁る女子高生たちの、スカートの短い脚を見る。タイムセールを狙っているおばちゃんにもいらっしゃいませ。この仕事に就いてから数週間、慣れたものだと我ながら思う。

「おぉ晃太、こっちこっち」

牛乳棚(りんごジュースやプリンなども置かれている)の前で立っていた明雄さんが手招きをしていた。カートを押して駆け寄る。

「すいません遅れちゃって」
「はは、どうせ岡野に捕まってたんだろう?」

言いながら、明雄さんと一緒に3コパックのヨーグルトを補充する。

「えぇ、まぁ」
「根は悪い男じゃないんだがなぁ」
「ボクもそう思います。…たぶん」
「ここにはあいつと気の合う人間がいないんだ。だから浮いて見えてしまうんだな」
「ですね」

生返事を返し、ヨーグルトの補充を続ける。

「しっかしよく売れるなヨーグルト」
「母さんもいっぱい買ってましたよ、肌にいいだのなんだの」
「男には無縁の話か。俺は酸っぱいの苦手でな、プレーンは砂糖山盛りで食う」
「あの酸味がいいんじゃないですか、味も身体にも」
「そうか?」
「そうですよ」

少し間を置いて、

「実はウチの嫁も影響されて、買い物に行くと必ず買ってくるんだ。しかもプレーン。晩飯の食後に娘とうまそうに食ってるんだ、それもほぼ毎晩。砂糖もなんも入れずに。これでも食う気になるか?」
「…ならないです」
「そうだろうそうだろう」

手を動かしながらうんうんとうなずく明雄さん。

「ウチも似たようなもんですよ。ボクがヨーグルト嫌いじゃないだけで」
「うらやましいもんだ」

このヨーグルトブームの原因はテレビ番組だった。人気健康番組でヨーグルトが特集され、肌に良いと聞いた全国の女性がヨーグルトを買いにスーパーへ走ったのだ。対策を講じていた店はごく一部で、ウチの店も買い漁りに見舞われ一時ヨーグルトの在庫が底を尽きた事もあった程。放送されたのは約1週間前。今は在庫もたっぷりある。後は終息に向けた在庫の調整をするのみ。

ちなみに明雄さんとは同じ苗字ということもあり、川澄さんと同じくらいお世話になっている。男同士だから弾む話もあるし、分かり合える部分もある。良い先輩たちに恵まれたと思う。岡野さんを除いては。



18時、今日のバイトはこれにて終了。更衣室でエプロンを外し、従業員専用出入り口のドアを開ける。

「おつかれさまでしたー」

外へ出る。自然にドアが閉まる。岡野さんが待てと言った気がしたが、恐らく空耳だろう。

その場で伸びをして深呼吸。夕暮れの空の空気は思いの外澄んでいておいしい。そういえば日が伸びたなと思う。5時になると真っ暗になった頃がちょっと前に思える。4月になった、バイトも始めた、大学にも入った。これからが正念場、気合いを入れていこう。自分に喝を入れながら、我が家に向けて歩き出した。

ボクの家から店までの距離は遠からず近からず、徒歩で15分ほどの距離にある。住宅地をまっすぐ東に、途中2・3回曲がるだけの道。大学までの道のりの中間にあるので何かと便利ではある。休憩がてら買い物もできるし、コネで少し安くしてもらえる(消費税カットくらいだけど)。

10分ほど歩いた辺り、住宅地に入って7分ほどの所で立ち止まった。左手にある公園で誰かが遊んでいる。小学生が2人、何かを踏みつけているように見えた。何故かそれが気に掛かった。でも、ボクには全然関係のないことだった。無視して先に進み、目の前の十字路で1回目の曲がり道を曲がろうと―

ダメだ。気になる。

小走りに公園へ戻り中に入った。やや身体をかがめてうかがうように、なぜか忍び足で少年2人に近付いていく。そして、見つかった。

「うわヤベッ、逃げるぞ浩樹!」
「う、うん!」

少年2人は脱兎の如く猛スピードで逃げ去っていった。その様子を見て自分の少年時代を思う。自分が少しでも悪いと思う行いをしている最中は警戒心が強くて、咎めに来たわけでもない近所のお兄さんに話しかけられて逃げたものだった。少年2人の気持ちはよく分かる。でも逃げなくてもいいだろとは思う。

「ん…?」

ボクは何が気になってここに戻ったのだったか。ド忘れしてしまった。公園に差し掛かる前は今夜の夕食を予想していたけど全然違うし、少年に見覚えがあったわけでもないし、少年の行為に怒りを覚えたわけでもなく、少年の踏みつける靴に興味があったのでもなく―

そうだ。少年が踏みつけていた『なにか』だ。

自分の足元を見た。暗がりでよく見えなかったが、目を凝らしてじっと見た。焦点がそこに合う。


ぬいぐるみだった。


女の子を模した二頭身。白くて長いまっすぐな髪と、白いドレスのようなワンピース。目はパッチリしていて大きい。一見すればUFOキャッチャーの景品に見えるそれは、全身が砂で汚れて茶色にまみれていた。タグや札は付いていないからやはり景品ではないようだった。丈夫な材質でできているのかもしれない、あれだけ踏まれてもどこも破れず綿も漏れていなかった。

その時のボクが正常な感覚だったかは分からない。ひどく汚れてしまったぬいぐるみが、すごく悲しそうに見えた。パッチリした目は潤んでいて、肩が震えているように見えた。まるで迷子になった子供のような、ひとりぼっちの少女のように見えた。

放っておけなかった。

自分でもよくわからない、衝動的に思った。このコを放っておいてはいけないと、助けてあげなければならないと。使命感や正義感とも違う、言葉では表せられない感覚が、感情があった。もしもこのぬいぐるみが本物の人間だったらボクは助けるだろうか。むしろ、ぬいぐるみが本物の人間に見えるからだろうか。同情心といえば近いかもしれないけど、やはりそれとも少し違う感覚だった。

考えるよりもまず先に行動に出た。ぬいぐるみを拾い、軽く叩いて砂を落とした。完全には落ちない。

「洗濯しないとダメか…」

家に持ち帰って母さんに洗ってもらおう。洗ってピカピカにしてもらおう。うん、そうしよう。

帰り着くまでの間、ボクは無性に嬉しかった。心が躍動していた。理由はわからない。人目があるから行動には出せなかったけど、今すぐにでもスキップしたい気分だった。表情にも出てしまったと思う、そぞろ笑んでいたと思う。抑え込む必要がなければその場で大声を出して叫びたいくらいだった。理由はわからない。



「ただいまー」

靴を脱いで玄関を上がりスリッパを履き、同時に母親がリビングから顔を出した。

「おかえりなさい。バイトはどうだった?」
「んー、ボチボチ」
「そう。がんばってね」
「うん」

ボクの母親、名を『みや子』という。やさしくて気が付いて物腰も良い、尊敬できる人だ。

「お腹空いてるでしょ?」
「もーペコペコ…」

テーブルの椅子に座り、突っ伏してぐったりする。

「待っててね、すぐ作るから」
「おいしいのお願いねー…」
「はいはい」

妙に疲れが出た。意味もなくやたらと嬉しがっていた反動だろうか。母さんの振る鍋の音を聞きながら、しばらく何もせずテーブルに顔を付けていた。

「…ねぇ、晃太」
「んー?」
「そのぬいぐるみ、どうしたの?」
「ぬいぐるみぃ…?」

あ。

「あ、あぁ、これ?」

忘れるところだった。

「ちょっと、公園で見つけて…」
「拾ってきちゃったの?」
「…うん…」
「あらま、ダメじゃない。もし落としたコが探しに来たら―」
「だってしょうがないじゃんか!子どもに踏まれて汚れてて、ほっとけなくて…、だから…」

どんどんと失速していくボクを見て、母さんは微笑みながら小さくため息を一つ。

「やさしいのね、晃太は」

この歳になって母親にほめられるとちょっと照れる。

「まだ少し掛かるから、その間に洗っちゃいなさい」
「ん」

ぬいぐるみを持って洗面台に向かう。栓をして水を溜め、石鹸で泡立ててゴシゴシと洗う。砂はみるみる内に落ちていき、ぬいぐるみは元の姿へと戻った。真っ白な長い髪とワンピース。石鹸のいいニオイがする。かわいそうだけど軽く絞り、ドライヤーを弱めに当てて乾かす。完璧には乾かないけど仕方がない。

「うん、いい感じだ」

両手で持ってじっくりと見る。思わず笑みがこぼれる。もしかしてボクはそういう趣味があったのだろうか。そう考えるのは卑屈なのかもしれないから考えないことにしてリビングに戻る。

食卓にはすでに夕食の準備ができていて、母さんが座って待っていてくれた。

「あら、かわいいじゃない」
「母さんもそう思う?」
「えぇ。でも晃太、ぬいぐるみにホの字はダメよ?」
「わ、わかってるよ!」

からかわれてしまった。母さんはふふと笑っている。今年で何歳だったか、忘れてしまった。ちなみに父さんは大阪に単身赴任中であり、年に2・3回ほど帰ってくる程度。さすがにこの歳になって寂しがったりはしない。

「明日の帰りにでもそれを持って公園に行ってみなさい。落とし主がいるかもしれないから」
「うん、そのつもり」
「じゃ、夕食にしましょ」

今夜のメインはマーボー春雨、母さんの得意料理の一つだ。



「ごちそうさまー…」

疲れた分を食べて補おうとしたらこの有り様。母さんも半分呆れ顔だ。

「胃薬飲む?」

顔を横に振る。

「そう」

まだ湿り気のあるぬいぐるみを片手に、2階にある自室へと向かった。階段の一段一段が腹に響く。ボクの部屋は階段を昇ってすぐ右手にある。和室でもないのに引き戸なのは謎だ。約6畳の平凡な大きさ、使いもしない勉強机とくたびれたパイプベッドと引っ越した時に買ったタンスが主なオブジェである。そのタンスの上にぬいぐるみを一つ、ちょっと不自然だけど置いてみた。悪くはない配置だとは思う。立たせるための支えにプラモデルの箱を何個か積んで、そこにぬいぐるみをもたれ掛からせた。

そして、あくびが出た。

「…寝るか」

布団に潜り込み、電気を消して目を閉じた。疲れてる時にバカ食いしたからすぐに眠れた。



朝が来た。

「ん〜」

伸びをして深呼吸。仕事終わりにするのも気持ちいいけど、朝の伸びが一番気持ちいい。窓から射し込む朝日が部屋を照らしている、今日はいい天気になりそうだ。そんなことを考えながら、朝のひとときを満喫し―

もぞ。

寝起きボケで一瞬、何が起きたかわからなかった。数秒してからやっと理解して、まさか、と思う。そんなはずない、と思う。でも間違いなく何がか動いた気がする。勇気を出して顔を左に向けた。

白くて長い髪があった。

驚きを通り越して固まってしまった。背を向けていて顔を見ることはできない。

どうしよう。

どうしたらいい。

起こすべきか。

起こさないべきか。

そして、そのコは寝返りを打つようにこっちに向いた。

「うわッ」

驚いた拍子にベッドから落ちた。ズドンと鈍い音がして痛い。少し痛がったあと、ハッと思い出して慌てて体勢を変え、覗き込むようにベッドの上を見た。何かいけない事をしているような気分になる。

女の子だった。なんとなく見覚えのある顔、でもやっぱり覚えはない。

「…」

なす術もなく、ただ女の子の寝顔を見つめることしかできなかった。

起こしたらまずいか。

起こさないとまずいか。

起こさなければいけないのか。

起こしてしまってはならないのか。

やがて女の子は目を覚まし、

目が合ってしまった。女の子は小さくあっと言って、

「こ〜ちゃん…、おはよ…」

衝撃。硬直。石化。

「はれぇ…、いっぱいねちゃったぁ…」

女の子は何の違和感もなさそうである。

「はぇ?」

女の子が石化しているボクを見つめる。その目はすごくつぶらだった。

「こ〜ちゃん、どしたの?」

女の子の顔が大接近する。驚いたボクの石化は解け、思わず緊急後退した。女の子は首を傾げ、パイプベッドの縁に腰掛けながらやはりボクを見つめていた。なぜかものすごく緊張する。

「こ〜ちゃん、ヘンだよ?」
「へ」
「おねつでもあるの?」
「っ、な、ない」

言っているのに女の子はパイプベッドから降りて、ひざ立ちのまま歩み寄ってくる。混乱しているボクの中途半端な抵抗の現れと見られる手は軽く払いのけられ、女の子の手のひらは見事ボクのおでこに触れた。おでことおでこのくっつけ合いをされなかっただけまだマシだと思える余裕は辛うじてあった。

「ん〜…、おねつはない」

言っているのに。

「あ、そっか」

なんだ?

「おなかすいてるでしょ? あさゴハンたべなきゃ」

何か返事をすべきか。普通はすべきだ。なんと言ったらいい。素直にうんと言えばいい。いや言える状況ではない。言う言葉があるはずだ。極度の混乱と緊張で忘れていたのだ。正常な人間の正常な反応通りに言えばいいだけなのだ。

キミは誰だ、と。

でも、何故だろう、言えない。言ってはいけない気がする。まるでNGワードのような、黒ヒゲ危機一髪ゲームのナイフを言葉に置き換えたような感覚。理由はわからない。

「ね〜ぇ、こ〜ちゃんってばぁ」

我に帰る。女の子が呼んでいる。思考能力はゼロだった、脳のオートメーションに一任した。

「な、なに」
「ゴハンたべてガッコーいこうよぉ」

ガッコー、がっこー、がっこう、学校。今は何時だ。8時29分。

「うわやっば!?」

慌てて立ち上がる。今日は一限から、開始は9時ジャスト。朝食の時間も含めて朝の準備は約15分かかる。大学までの道のりはおよそ30分、計45分の行程。今朝の制限時間は31分、14分もの時間を短縮しなければならない。ゲームのタイムアタックとは訳が違う、全てが本物で危機迫る緊迫した朝なのだ。こういう時、自分の生活サイクルが悔やまれる。ゆっくり寝ていたいからといつも朝はみっちり組まれたスケジュールで動いているから、こういったトラブルの対処が難しい。

部屋の引き戸を勢い良く開け、目下の階段を降り

ようとして、見えない手に後ろ髪を引かれた。振り向くと、女の子が寂しげな目でボクを見つめていた。頭が弾けそうになる。思考能力はゼロどころかマイナスとも思えた。何か考えようとすると、まるで水素爆弾のように大爆発しそうだ。落ち着け、敵は女の子1人だ。敵? なんの話だ、敵は迫り来るタイムリミットだ。急げ、もたついている暇はないぞ。いや待て、女の子はどうする。無関係か、放っておけばいいか、そんなことできっこないだろう、しかし構っていたら間違いなく遅刻する。無遅刻伝説にこんなところで終止符を打つわけにはいかない。

絶体絶命のピンチだった。女の子は未だ、ボクを寂しそうに見つめている。

「あ、ああのさ」

呂律が回らない。

「と、とりあえず、」

言葉が続かない。苦し紛れの一言を発する。

「おウチ、帰りなよ」

促すように言い、返答を待つ間もなく階段を駆け下りた。視点を階段に向ける刹那、女の子の表情は言葉に言い表せないような、すごく微妙な顔をしていた。強いて例えるなら、知り合いから全く筋違いの理解不能な話をされたような感じの、ポカーンとした状態。

転げ落ちそうになる足を無理やりに制御しながら階段を降り、ブチ壊さんとする勢いでリビングのドアを開けた。母さんはやや驚いた顔で、朝食の用意が済まされた食卓の椅子に座っていた。

「ちょっと晃太、ドアが壊れちゃうでしょ」
「今それどころじゃないって!」

パジャマ代わりのジャージを脱ぎ捨て、干してあった長袖のシャツとシャツジャケットとズボンをふんだくって急いで着た。ズボンの穴が詰まっていてなかなか足が入らず焦る、転びそうになる。ジャケットの袖口が見つからず慌てる。なんとか全てを着終えた頃、時計の針は無情にも8時33分を指していた。時間の経過が早く思えてしまう、急ぐことに慣れていないからなおさらだろうか。

朝食の代わりに注いであったコップ一杯の牛乳を飲み干す。歯を磨いている余裕はどこにもなかった。ソファーに座らせてあった肩掛けカバンを掴み取り、玄関で靴を履いて、

「行ってきます!」

ドアを肩で押すように開け、猛ダッシュで駆け出した。無意識の内に付けていた腕時計の針は8時34分、制限時間は残り26分だった。走れば間に合う範囲、そう信じてひたすらに走る。



その頃、女の子は一階へ降り、リビングのドアを開けようとしていた。

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