| 冬の空と雪椿 第九節 筆者:レート まさか、こんなことになるなんて、花火はこれっぽっちも予想だにしませんでした。畳の上で、座布団の上で、椿も驚くほどに律儀に正座をして、甚兵衛を身に纏った男性と二人きり、向かい合うなんて…。目の前にいるのが椿の父親だなんて、考えただけで冷や汗が背筋を伝いました。 こんなことになるはずはなかったのです。椿が絶対に大丈夫だと言ったから、来ただけなのに…。でも、椿を恨むわけにもいきません。今この瞬間も、椿は花火と同じくらいの修羅場を迎えているのですから。危機一髪、もう逃げ場はありません。前門の虎、後門の龍―というよりも、単なる袋のネズミでしょうか。 何を言われるんだろう、考えただけで脳みそがドロドロに溶ける錯覚に見舞われました。あのタイミングやったら、どない善慮したって絞首刑は免れへんやろなぁ、と花火は半ば諦観の相でした。父親の微笑が、これから起こるであろう血ヘド祭の前触れにしか見えず、逸らした目線は何故か(本人は混乱していて意識していないだろうけれど)父親の股間を凝視していました。 「花火くん…と言ったかな」 耳元で大銅鑼を叩かれんばかりにビクリと驚いた花火。気分はまるで、多額の借金がバレて家族会議で槍玉に挙げられる直前の長男の気分です。もーえーわ、こーなったらキムでもニセコでもかかってこいや! 「いやはや―」 両家の命運を賭けた熱き戦いの火蓋が今、切られようとしています。 こんなことになったそもそものキッカケは、放課後の電車内の、椿の思いがけない一言でした。 「今日…。ウチ、来ない…?」 無会話の状態からいきなり切り出されたため、花火は色々な反応全てが遅れて出ました。 「―どうぇ? お、…う?」 花火は何故か自分を指差していました。まさか『ワイに言うとんの?』という意味ではないだろうと思った椿はふるふると首を横に振って、 「ウチ」 「や、あの。ワイが…、えと、椿んチ?」 自分を指差し、椿を指差して花火が言いました。椿はこくっとうなずきました。 「な、なんや、急に、ンな…。ワ、ワイかて、ハートの準備が…」 「…ケーキ、つくるだけだよ…?」 もじもじしながら両手の人差し指をツンツンさせていた花火は、今度は頬をポッと朱に染め、手をブンブン振りながら言うのです。 「ちゃちゃ、ちゃうて、ほらアレや、おとんとか弟とかに会うてまうやろ、それ心配しとんねんて!」 確かにそれも心配だろうけど、他に何を心配してたんだろう?と小首を傾げる椿でした。 「大丈夫」 「ほへ?」 「お父さんは出張で、太陽はお泊り社会科見学だから…」 「…えーっと?」 花火は目線を右上にやって、寸秒考えてから、 「よするに、今日椿んチには椿しかおらんと」 椿はこくっとうなずきました。 「そこにワイが乗り込んでくと」 椿はこくっとうなずきました。 「そんで二人っきりと」 椿は照れながら小さくこくっとうなずきました。 「…ホンマに、ケーキつくるだけなん?」 いじわるめかしく言うと、椿は目線を逸らしたまま照れ顔を何度もうなずかせました。その反応を見た花火は一つ微笑んで、 「そゆことなら、ええで。お邪魔するわ」 照れ顔から喜びに移った椿が言います。 「じゃあ、何時に…?」 「せやなぁー…。あんま早よ行ってもあれやし、六時頃行こかな」 椿はこくっとうなずいて、 「待ってる」 「おぅ。うみゃーもん用意しとってな」 さらにもう一回、力強くうなずきました。 そういうわけで、今、花火は冬矢宅の前に…はいません。所在がわからず迷子になっているのです。大まかな道順しか聞いていなかったので、せめて簡単な地図くらい書いてもらえばよかったと後悔後の祭です。最終手段は人に道を尋ねることですが、今夕は一段と冷え込んでいるし、ただでさえ夕食時、小さな住宅街とはいえ周囲にひと気は感じられません。これぞまさに孤立無援、このまま花火は誰にも看取られずに凍死してしまうのでしょうか…。 「どこや…。どこにおるんや…。椿ぃ〜…」 と、 「なに?」 「うほッ!?」 いきなり背後から声を掛けられて、花火は不思議な舞を舞うように驚きました。慌てて振り返ってみると、エプロン姿の椿が花火を見上げていました。 「…お」 「びっくり…した?」 「おお」 「時間になっても来ないから、道わからないんじゃないかと思って…」 「おおお」 「でも良かった、見つかって」 「おおおおお」 「―花火、くん?」 「つぅばぁきぃ〜!」 突如、花火が情けない声を上げながら椿に抱きつきました。 「わっ!?」 「会いたかってんよぉ、寂しかってんよぉ、凍え死なんで済んだんや、おおきにな、ほんまおおきにな、椿は神さんや、一生離さへんからな、あぁ椿なんてあったかいんや」 「…へ?」 それからしばらく、椿は恥ずかしがりながら、更には周囲の人目を気にしながら、そして抱きつかれたまま、花火の妙に嬉しくすぐったい語りを聞かされたのでした。 「…ここが、鬼ヶ島やな…」 「え?」 「いや、なんでもあらへんよ」 冬矢宅前に到着した花火は、そんな風に独りごちました。 「結構綺麗やな」 「でも、中古だから…」 「椿のこと言うたんやけど」 ボン。 冬矢家は比較的新しめの中古物件で、二階建てが主な住宅街の中にポツンと目立つ白壁の平屋です。三人で暮らすにはちょっと狭いかなとも思いますが、広ければ広いで掃除も面倒だし、狭い方が家族が一ヶ所に集まりやすくなって、団らんの時間も増えるのです。あと、普通の物干し台と、小型のプレハブを一戸やっと置ける程度の小さな庭が、入り口とは反対の家の裏手にあります。 思い返してみると、花火が冬矢家を訪れるのは意外にもこれが初めてです。いつも椿が煎御谷家に訪れれば事足りていたし、冬矢家には因縁の弟さんがいて行きづらいという理由もあったので、なんやかんやで今日が初訪問となりました。 椿に促されて、花火は少し緊張気味に、初めて冬矢家に上陸しました。 「お邪魔しまっす」 玄関を上がるとまっすぐな廊下があって、突き当たりのドアは恐らくリビングに続いています。それより手前の左右にある複数のドアは、それぞれ個人の部屋や洗面所などにつながっているのだと思われます。 「どうぞ」 「お。おおきに」 椿に勧められたスリッパはあったかそうなモコモコのスリッパで、花火は喜んで履きました。 「椿の部屋は?」 「ん…、そこ」 右手にある三枚のドアの、真ん中のドアを指差しました。さらに、手前のドアが父親の部屋で、奥の部屋が太陽の部屋だそうです。 「後で見してな」 「えっ、あ…。あとで、ね…」 椿はポッと赤面してしまいました。 リビングに入った途端、食欲をそそりまくるニオイが花火の鼻を突きました。 「お? 夕飯作っとったん?」 「あ…、うん。花火くん、まだ食べてないよね…?」 「せやけど」 「よかったら、夕ご飯も食べてって」 「うぇ、ええの?」 椿はこくっとうなずきました。 「いやぁなんや悪いなぁ。ほな、せっかくやからゴチになるわ」 椿は嬉しそうにこくっとうなずきました。 「もう少しでできるから、座って待ってて」 「ええよ、なんか手伝うで」 「大丈夫。ホントにもう少しだから」 「そか? そんじゃ、大人しく待っとくわ」 リビングは概ね正四角形で、南側にあたる正面には大きな窓があり、右手三分の一ほどがキッチンになっています。左手奥の角にはリビングらしい大き目の平面ブラウン管テレビが、その脇にはソファとテーブルがありました。どこからどう見たってそこがメインの食卓だと思うので、花火はソファに座りました。もちろん、椿が料理をする姿が見える方向に。 カウンタータイプのキッチンなので、料理をする椿の姿をじっくりと観察することができます。エプロン姿がよく似合って、料理をするのがとても楽しそうで、より活き活きしているように見て取れます。あぁそれにしても凄まじい香り、嗅いでいるだけでお腹いっぱいになってしまいそうです。 「椿」 「?」 「似合っとるよ、エプロン」 椿は即座に自分のエプロンを確認して、それから赤面しました。いちいち反応がかわいくて、仕掛け人の花火は大満足です。 「あ、あの、もう、できるから…」 「焦らんでええよ。納得いくまでじっくりやりぃな」 椿は微笑みながらこくっとうなずきました。 「テレビ、観ててもいいよ?」 「椿見とる方がええわ」 ボン。 椿の顔が、真っ赤になりました。 「まだ食べちゃダメだよ?」 「…一つぐらい…」 「ダメ」 「…うい」 テーブルに並べられた豪華すぎる料理たちを目の前にして、花火はありったけの理性を総動員して、伸びてしまう手を必死に膝を掴んで抑えています。少しでも気を緩めようものなら瞬く間に手が自らのそれでないような感覚に陥り、無意識の内にペロリと全てを平らげてしまうことでしょう。それによって得られる幸福の後にやってくるのは、椿による怒涛の、…想像したくありません。 「なぁなぁ」 「?」 「椿んチの夕飯って、いつもこない豪華なん?」 「そ、そんなわけないよぉ…。今日は、その、特別だし、花火くんに、おいしい物をと思って…」 「ワイのために?」 椿はこくっとうなずきました。 「―おおきに」 椿はやや赤面しながら微笑み、こくっとうなずきました。 箸やジュースなどを揃え終え、一仕事終えた椿もエプロンを外して対面のソファに座り、いざ準備は完了です。後はもう、食べるだけ。 「なっ、はよ食おーや」 「もぅ、デリカシーないんだから…」 「せやかて腹減ってんねんもん、はらせなくっ付いてまうわぁ…」 しょうがないなぁ、と椿はどこか楽しそうに一つ溜め息をつきました。 「じゃあ、食べよっか」 「ん」 「いただきます」「いただきまーす」 真っ先に花火が食い付いたのは、いきなり主賓のロールキャベツでした。三日間何も食べていなかったかのような勢いで食い散らす姿に、椿は驚きというか感嘆というか、ようするに驚嘆しているのです。 「あの…」 「むぁ?」 「おい、しい?」 「もらもーめったむまいめ」 そらもーめっちゃうまいで、と言っているようです。凄いことにちゃっかり聞き取れている椿は、ふふと微笑んでロールキャベツを一口かじりました。 「―おいし」 やっぱり何度味わっても、手料理をおいしく食べてもらえるのは嬉しいものです。 「ぶあー食った食った。ごちそーさんでした」 あれだけあった料理の三分の二、いや四分の三は花火の胃に入ってしまいました。まったくこの男の胃袋の大きさは計り知れません。ただ、大きさに比例して椿の喜びも増すので、これがなかなか憎めないヤツなのです。ちょっとの(かなりの)食いしん坊っぷりは見逃してあげて下さい。 「やっぱ椿の手料理は最高やな。おかんと替わって欲しいわ」 「そんなこと、ないよ…。花火くんのお母さんだって、お料理上手だよ」 「ンなん椿がおるからえぇカッコしとるだけやて。普段はミトナットーばっかなんやで」 花火の冗談に、椿はくすくすと笑いました。…たまに冗談ではなくなる時もありますが。 「生まれつきのセンスもあるんやろうけど、きっとセンセが良かったんやろなぁ椿は」 「―うん。少ししか教われなかったけど、お母さん、料理は大得意だったから」 「へぇー。どないなもんか、いっちょ食うてみたかったなぁ」 「…あ。花火くん、椿の天ぷらって知ってる?」 「なんやそれ? 椿オリジナルの天ぷら?」 「わ、私じゃなくて、花の椿っ」 「んぁあ。食うたことあらへんよ」 「落っこちちゃった椿をね。お母さんがもったいないからって、よく天ぷらにして食べてたの」 「うまいのん?」 「うん、すっごくおいしい」 「ほな今度、作ってぇな」 あれだけ食べておきながら、食い意地が張ってますねぇ。 「でも、椿は春にならないと咲かないし…。お母さんみたいにうまくできるか、わかんない…」 「ええやん、椿の作り方で。師弟は似て非なるものって言うやろ?」 花火が珍しく難しい言葉を使ったので、少し戸惑いながらも意味を理解して、 「そう…だね。私のやり方で、がんばってみる」 「がんばってな。楽しみにしとるで」 椿はこくっとうなずきました。 「もう、片付けても平気…?」 「あぁーええよええよ、ワイがやる」 「ううん、花火くんはお客さんなんだから…」 「タダ飯食らってゴロゴロしとったら罰当たってまうやろ? 少しくらいえぇカッコさせてぇな」 「…じゃあ、お願いします」 「任しとき」 あれだけの量を食べたというのに、せっせこせっせこ能動的に動ける花火。これはもう特技の一つですね。結局椿も片付けを手伝って、食卓にあったたくさんの皿々は綺麗サッパリ片付きました。 「さて、と」 片付け終わってやっとソファに座ったと思ったら、椿はおもむろに立ち上がって冷蔵庫に向かいました。 「お。来るか」 花火が言うと、椿は背中に笑顔をにじませました。冷蔵庫のドアを開け、ゆっくりと取り出したのは、純白の箱でした。 「…買うてきたん?」 「ううん。材料買った時に、箱だけサービスでもらったの」 「そか」 ゆっくりと慎重に運んで、そっと食卓の上に置きました。純白で無地でツヤがあって、誰が見たって開けなくとも中身がわかってしまう箱です。お互い妙に照れてしまう間を置いた後、椿が口火を切りました。 「開けるね?」 「よっしゃ」 何故か花火が意気込み、椿がそろりと箱のフタを外しました。 「おぉー…」 現れたのは、箱に負けないくらい真っ白な生クリームに、瑞々しい真っ赤なイチゴに彩られた、見ているだけでヨダレが出てしまいそうな、それはそれは美しいショートケーキでした。まるでお店で売られている物のようにも見えるそれは、クリームの塗りムラもなければイチゴの配置間隔も全て均一で、まさに非の打ち所がありません。強いて、強いて強いて強きまくって欠点を挙げるならば、椿の真面目な性格が災いして、王道中の王道たるショートケーキ然とし過ぎていることでしょうか。 「さっすが椿、もうプロの域やな」 「そ、そんな…」 「謙遜は損やで。こらホンマ、冗談抜きに表彰モンやわ」 「…ありがと」 もじもじ照れる椿を改めてかわえぇなぁと思いながら、花火はあっと何かを思い出して、 「ちょい、まだ切り分けんでな」 「?」 持参したトートバッグをごそごそと漁り始め、取り出したるはミニローソクの束と、キャンディのような形に結われた模様付きのセロハン袋でした。花火の手が邪魔で中身が見えません、あぁじれったい。 「なに…?」 「椿が料理がんばってんねんから、ワイもがんばろ思てな」 セロハン袋から出した何かを、慎重にケーキの中央に、斜めに立つように乗せました。 「ワイぶきっちょやから、ヘタクソなんは堪忍してな」 花火が乗せた物は、横に長い楕円のチョコレートプレートでした。椿に見えるように向けられたプレートの表面には、ホワイトチョコレートで作った文字で、こんな風に書かれていました。 つばき おめでとう 「…お気に召しまへんでしたか?」 花火の言葉にも反応せず、椿はじっと、チョコレートプレートを見つめるばかりでした。あんまりヘタクソで腰を抜かしているのか、いや椿がひらがなで気に入らないのか、おめでとうの後にございますが入ってないのが腹立たしいのか、などと色々な不安を巡らせていた矢先、 椿の頬を、一粒の涙が伝いました。 「うぇぇぇ!?」 花火はあたふたとまた不思議な舞を舞い出しました。自分は親切のつもりでしたことだけど椿にとっては涙を流すほどひどいことをしてしまったのかもしれないああどうしようここは男らしく舌を噛んで、などと危ない不安を巡らせていると、 「ぁ…」 流れた涙を拭う椿ですが、一度拭いたぐらいでは止まりそうもありません。 「ごめんね…」 一つ鼻をぐすんとすすり、手の甲で涙を拭いながら椿は言います。 「あんまり…、嬉しくて…」 「―あぁ、喜んでくれはったんか」 椿は笑顔でこくこくとうなずきました。 「ありがと…。ホントに、ありがと…」 「いやいや、ごちそうのお返しこないなもんしかやれんくて、こっちが謝りたいくらいやで」 「ううん…。私にとって、一番のお返しだから…」 「そか。椿が嬉しいんやったら、ワイも嬉しいで」 自然に二人の目が合うと、花火は微笑み、椿は泣き顔を直視されるのが恥ずかしくて目線を外しましたが、やはり微笑みました。 「ほれほれ今日び泣いとらんと、椿は笑顔が似合うで」 花火は言いながら、ブスブスとミニローソクの束をケーキに突き立て始めました。イチゴが均等に並んでいるおかげで適当に立てているのが余計に目立ちますが、椿はその気持ちだけで胸がいっぱいです。十本あったミニローソクを立て、花火にしては珍しく準備がいい持参したチャッカマン(その実美緒ママが用意した)で全てのローソクに火を灯しました。 「電気は?」 「あ…、そこ」 椿の指した先にあるリビングのドア脇の電灯スイッチに向かい、どれがどこの電灯に対応しているかわからないのでとりあえず全部のスイッチを切りました。室内が真っ暗になると同時に、炎のやわらかな灯りがケーキと椿を照らし出しました。 「おぉ〜、結構うつくしーもんやね」 「う、うん…」 先ほどまで涙していた名残りが抜けず、まだ完全な平常心には戻っていない椿ですが、花火の懸命な元気付けがじんわり心に響いてまた少しずつ元気が湧いてきました。それでなくても涙でにじんだ視界が炎をぼかして幻想的に見せるので、椿の胸はトキトキ感で包まれていました。 ソファに戻った花火は、さぁ口上でも述べからんぞという意気込みで、もなく、 「あー…。まぁ、唄うんもはずいし、端折ってまうけど、ええか?」 そ、そこで訊いてくるんですか、とツッコミを入れたくなるけれど、これはこれで花火らしいなと思いながら椿はこくっとうなずきました。 「ほな…」 少し居直って、椿の目を見つめます。 「椿」 やさしい声色に、ドキッと反応してしまう椿。 「…十九歳の誕生日! おめっとさんッ!!」 いきなり叫びスタイルになったかと思えば、どこからともなく取り出したクラッカー(美緒ママ用意)をパンと一発、椿の頭上に向けて発射しました。突然のことにビックリして呆けている椿の頭に、ひらひらひらとクラッカーから飛び出した紙々が舞い落ちました。 「…あれ、椿、もしかして、脅かしてもーた…?」 花火が心配して訊ねると、 「…くすっ」 小さく笑みをこぼし―たかと思えば、今度は控えめながら声に出してあははと笑いました。どうやら吹っ切れたようで、花火も一安心です。 「ありがと、花火くん」 「へへ、どーいたしましー」 それから椿がふーと息を吹きかけてローソクの火を全て消し、花火が拍手を送った後、電気を点けに向かう途中に何かにつまづいてド派手にすっ転びました。しかも椿自身とその周りに飛び散ったクラッカーの紙くずに気付いてあぁ散らかしてもーてごめんなと謝りながら片付けていました。一月二十四日、おめでたい記念日だというのに、やたらと騒がしい日です。 椿がまだもったいないからと言うので切り分けずに満足するまでチョコプレートの乗ったケーキを見て、あまつさえ写真まで撮るか撮るまいかという話になった頃。 「はよ食わへんと、味悪ぅなってまうで?」 「あ…、そだね」 椿は立ち上がり、台所から包丁を持ってきました。脇にチョコプレートをどけて手早く綺麗に切り分けました。ここまで均一に八等分できるなんて、椿はやっぱりすごいです。持ってきた小皿に取り分けて、自分と花火の分を用意しました。後はもう、食べるだけ。 「椿」 「?」 「口開けてみ」 「え…?」 いきなり何を言うかと思えば、花火は小さく切ったケーキをフォークに乗せ、椿の口に向けて差し出しました。 「い、いいよっ」 「遠慮すんなや、誕生日くらい甘えぇな」 「そんな、恥ずかしい…」 「えーやんえーやん誰も見てへんて」 「…うぅ…」 差し出されたケーキをじっと見て、人の親切は素直に受けるものだと覚悟を決め、きゅっと目をつぶり、あ〜んと口を開けました。 「あ〜ん」 花火はそう言いながらケーキを椿の口の中に入れ、椿はパクリと勢い良く食べました。もくもく噛んでごっくんと飲み込んで、 「どや?」 「…おいしい」 「せやろー。椿が作ったんやもん、うまくて当然やで」 我ながら出来映えに満足しつつ、生クリームの程よい甘さが口の中にほんわか広がって、椿は幸せ気分です。あ〜んしてもらうのも意外に悪くないもので、してもらう前は恥ずかしかったけれど、してもらった後は何か達成感というか、くすぐったいような心地良さがありました。他人に、ましてや男の人にしてもらうことなど恐らく初めて(赤ちゃんの頃に父親にしてもらった可能性を考慮)なので、少しいけないことをしてしまったような、小さな冒険をしたかのような、不思議なわくわく感を感じるのです。 「ほなワイも戴こうかいな」 「花火くん」 「んぁ?」 「あ〜ん」 お返し、と言わんばかりにケーキを乗せたフォークを花火の口元に向けます。 「お。嬉しいことしてくれはんなぁ」 まぁ、わかってはいたんです、喜ばせてしまうお返しだということは。でも、喜んでくれるならくれるで、椿にとってはとても嬉しいことなのです。自分の作った料理を自分の手で食べさせてあげるだなんて、こんな素敵なことはありません。花火が先にしてくれなかったら、椿もきっとしませんでした。花火の凶行の後となった今では、感じたわくわく感の勢いもあって、こうして堂々としてあげられるのです。 子供みたいに身を乗り出してあんぐり大きな口を開ける花火をちょっとかわいいなと思いつつ、ケーキの乗ったフォークを花火の口目がけてずずいと差し出します。 「あ〜ん」 パクッ。 ガチャ。 「え?」 突然開かれたリビングのドアの向こうには、 「…これは、また…」 コートを腕に掛けたスーツ姿の壮年の男性と、 「あちゃ〜…」 顔に手を当てて天を仰いでいる、小学校上級生ほどの男の子が立っていました。 「えっ、な、なん―あっ!」 花火にあ〜んしている所をバッチリ見られていることに気付いた椿は慌ててフォークを抜こうとして手を滑らし、暴れたフォークの先端が花火の口蓋に思い切り突き刺さりました。 「むぐぉお!!」 ソファの上でゴロゴロと、悲壮に悶絶する花火でした。 というわけで、父親の意向で四人は二組に分かれ、花火と父親、椿と弟の太陽とで別々に話し合うことになりました。と言ってもメインはあくまで花火と父親であって、片方の会合は後の椿曰く『カツ丼のない事情聴取』だったそうです。 なお、二人が踵を返して帰ってきた理由ですが、父親の方は出張先が悪天候で飛行機が飛ばずで致し方ありませんが、太陽の方に至っては、じつはお泊りじゃなくて日帰りだったというなんとも致命的な勘違いでした。しかし、だからって二人同時に帰ってくることはないのに…。 この家唯一の和室である父親の自室に通された花火は、ガチガチになりながら用意してもらった座布団に正座しました。 「はは、そう硬くならなくてもいいんだよ。足を崩しなさい」 「い、いえッ…!」 緊張するなと言われても、こんな夢にも思っていなかった痛烈な展開に追い込まれて緊張しない方が不自然です。いつの間にか甚兵衛に着替え、対面で胡坐を組む父親に際限のない威厳を感じ、怖じ気づく花火。後光に見ゆる、何を模しているのかサッパリわからない掛け軸が一層圧迫感を煽ります。 「さて…」 そのたった一言で、花火は右耳から左耳に銃弾を撃ち抜かれたような気分になりました。 「花火くん…と言ったかな」 その素敵な笑顔で、きっと花火をぎったんぎったんのめったんめったんにするに違いありません。 「いやはや―」 掛け軸の裏から真剣を抜き出して、鉄でも切れると言わんばかりに瞬く間に十六回斬られるのです。 「いきなりあんな大胆な場面を見てしまって、私も少々困惑しているんだが…」 十六回なんて生ぬるい、きっと刃のない刀で切れる寸前の打撃を雨のように浴びせられるのです。 「まぁ、若い者同士、あれぐらいの方がちょうどいいのかもしれないね」 そして虫の息に瀕したところを大雪止まぬチョモランマの山頂に放り捨てるのです。 「しかし、椿もそういう年頃になったのかと思うと、父親としては寂しくて寂しくて…」 ああ、こんなことになるんやったらもっとうまいもん食ってもっと金使ってもっと遊んでもっと寝てもっと椿とあんなことやこんなことをしとくんやった…。 「でも、君のようなたくましい男になら、椿を任せてもいいと私は思う」 さようならワイのバラ色、さようならワイのグレートバリアリ― 「…へ?」 何か今、父親が(良い意味で)聞き捨てならないことを言いませんでしたでしょうか? 「あの、今、なんと…?」 「ん? だから、椿を君に任せてもいいと、」 「なっ、い、いきなり何言うとるんですか!」 花火は頬を紅潮させて、興奮しながら慌てていました。遺書を書けないことを母親に心中詫びていた真っ最中だったこともあって、頭の中は満員超特急です。 「何かおかしなことを言ったかな?」 「おかしも何も、初対面で、そな―」 「あぁ。確かに初対面ではあるが、君の話は椿からよく聞いていたものだからね」 それを聞いて、花火は少しドキッとしました。これだけ長い付き合いなのだから、双方の親には少なからずとも状況は伝わる、または伝えるでしょう。しかし、それも度合いによって異なります。父親は『よく聞いていた』と言いました。それが椿から積極的に話しているのか父親が執拗に聞き出しているのかは定かではありませんが、どちらにしろ、花火に関する情報は父親に幾ばくか伝わっているのです。椿は何度も煎御谷家に出入りしているので情報は丸っきり美緒ママに伝わっていて当然ですが、花火自身は冬矢パパにどのような情報が伝わっているかなど粉微塵も気にしたことがありませんでした。そう考えると、果たしてこの父親はどれほどの情報を以って花火に『任せられる』などと地軸が傾いてしまいそうな言葉を放ったのでしょうか? 「ワ… 僕の、ことを?」 「いかにも」 なんだかちょっと照れくさくなってきました。 「自分からは話そうとはしないんだが、訊ねれば積極的に話してくれるよ。もちろん、椿の性格だから、垢抜けない感じだがね」 積極的に自分のことを話す椿の姿を想像しただけで、どうしてか胸がきゅうっと熱くなる感じがしました。さんざん文句を漏らしているかもしれない、別れ話の相談をしているのかもしれない、そんな可能性は全て盲目になって、照れながらも楽しそうに話す椿の姿を思い浮かべました。だって、父親から聞いた話は全て、建前や気遣いや遠慮なんてない、最も身近にいる第三者からの正味の真実だからです。 「君には感謝している。あの子は内向的だから、周囲と打ち解けられるか不安だったんだ。それも、君のおかげで杞憂に終わったよ。椿曰く、方々に出かけていい思い出をたくさん作っているそうじゃないか。あの子が男子と遊びに出かけるなんて、昔は考えられなかったものだ。椿が変わったのは、君のおかげだよ。ありがとう。そしてこれからも、いい思い出を二人で作っていって欲しい」 よくよく聞いていると、披露宴の謝辞のようで余計に緊張感を煽られている気がしなくもないですが、鈍い花火は気付きません。 「そ、そんな、僕はただ…」 それから花火は何を言えばいいのかわからず、言葉に詰まってしまいました。 「ははは。まぁ、通りすがりの酔っ払いの戯言だと思って、気を病まないで欲しい。…さて、私の話は―」 「あ、あの!」 立ち上がりかけていた父親を、花火が言葉で制止しました。 「なにかな?」 「その、ぼ、僕、」 喋りづらそうな花火を気遣って、 「気取らなくていい。君の言葉で伝えてくれ」 「―ワイは…。任せるとか、任せられるとか、そこまでちゃんと考えたことないんで、何とも言えまへん。…けど、これだけは、絶対約束します」 正座の膝の上でぎゅっと拳を握って、父親の目をまっすぐ見据えて、 「椿はんを哀しませるようなことは、死んでもしまへん」 花火の誠意を受け取った父親は、フッと笑みをこぼして言いました。 「その言葉だけで、十分だよ」 和室を出ようとした花火は、足の痺れにやられて派手にすっ転びました。そして、四人で仲良く(一人ガチガチで)椿の手作りケーキを食べました。 後の椿曰く、会合で太陽にこんなことを訊かれたそうです。 「姉ちゃん、ホントにケーキつくっただけ!?」 [ 冬の空と雪椿 第十節 ] [ 戻る ] |