ブイイイイイイイイイ。

原付自転車の軽快なエンジン音を轟かせて、うねる山道を走っていた。

彼の名は江藤。名前はまだない。

少し長めの髪をはためかせ、半脱ぎのヘルメットを揺らしながら、まだまだ耐え難き晩夏の残暑を涼風で凌ぐ。

千内町の出生でもなければ出身でもない江藤は、千内町北西部から一山越えた隣町、角井町から原付自転車で通学している。

角井にこそ高校はないが、電車を使えば他にも進学先の選択肢はある上、千内町は駅にして一駅なのだが、江藤はあえて原付自転車で通学することにこだわっていた。

『バイク通学したかったから』。

部活動での一仕事を終えた江藤は、角井町に向かって一山越えようとしているところだった。

マシンパワー故に法定速度を守らざるを得なかった上りとは対照的に、頂を過ぎ、下りに入った江藤号は、水を得た魚の如く疾走を始める。

残暑には少し涼し過ぎるほどの風が全身に吹きすさび、強風を受け止めるヘルメットの紐は悲鳴を上げ、長髪がバタバタと暴れていた。

そして、江藤は叫ぶ。

「ひゃっほー」

言葉にし難い興奮に満ち満ちた江藤は、更に速度を上げ、上りの遅れを挽回するかの如く、一度も減速せず山を駆け下りていった。

日は落ちかけ、夕日が江藤の瞳を赤く照らしていた。

樋山オート。

原付自転車から耕耘機まで、各種車両の修理・改造・メンテナンスを担う、言わば“町の車屋さん”である。

ガレージには、軽トラックやら普通自動車やらが所狭しと置かれていた。

片田舎の不便な交通と、農業を営む世帯の比率を鑑みると、この繁盛ぶりは必定とも言えた。

夕日が店舗兼自宅を赤く照らし上げ、オーナーの樋山がナットを締める鉄の音と、妻が勤しむ夕食の準備の音が重なり、心地良い不協和音を奏でている。

そこへ、一台の原付自転車がやってきた。

もとい、原付自転車を転がす一人の長髪の青年がやってきた。

「ちーす」

騒音に掻き消されまいと大きな青年の挨拶に気付いた樋山が、潜り込んでいた軽トラックの下から這い出てきた。

「おう、遅かったじゃないか」

右手にスパナを持ち、汚れ切ったつなぎ姿の樋山が、ガレージの端に原付を停める江藤を見ながら言う。

「あっ。またやらかしたな?」

「いやー、こいつがもっとスピード出せって言うもんで…」

「そりゃあ50ccブン回したら普通死ぬだろー」

「いやー、暑くて…」

「今度は手伝わないからなー」

「えー」

「“ジゴジト”だ」

「ういーす」

話しながら、江藤はガレージの角にあるロッカーから取り出したつなぎに慣れた手付きで着替えていた。

「わかってると思うけど、野間さんトコの軽トラ、また来たから」

「ッスね。またバッテリーパンクさしたんですか?」

「いや、ラジエータ」

「えー、めんどいなぁ。これだから夏は」

「コラコラ、稼ぎ時様に文句言うんじゃない」

「ういーす」

話しながら、江藤はすでにジャッキアップしてある別のセダン車の下に、慣れた手付きで潜り込んだ。江藤が修理を担当している車両である。

「うわー、オイル空っぽじゃん」

一言呟いた江藤は、工具を手にして以降、黙々と作業に集中していた。

時折交わす樋山との仕事上での会話を除いて、ひたすら担当車両に従事する。

なお、樋山は耕耘機の修理を担当している。

一般車両とは規格が大きく異なるため、江藤には未だ扱える段階にないためだ。

いずれは習得せねばならないが、今は覚えたばかりの普通自動車の整備を定着させるのが優先だった。

「―っし。樋山さーん、確認お願いしまーす」

「んー」

最終確認を終えた江藤が、最後の最終確認のため、エンジンルームを懐中電灯で照らして覗き込んでいた樋山を呼び付けた。

晩夏の空は、すでに日が落ちていた。

「締め忘れはないよな?」

「いやいや、もうガキじゃないんスから」

江藤の苦笑に樋山は返さず、セダンの下に潜り込んで懐中電灯で照らし始めた。

いかに江藤が上達したとはいえ、看板を背負っているのは樋山である。

任せても大丈夫、と頭ではわかっているのだが、まるで息子の自立を悲しむ親心にも似た感情が、心がGOサインを出さなかった。

「よし、オッケー」

「あざーす」

何度も繰り返した流れだが、やはりこの瞬間は安堵を覚える江藤。

そっけない感謝の言葉は、照れ隠しでもあった。

「真希夫クーン、ご飯食べてくー?」

ガレージの奥、お勝手の方から女性の声が聞こえた。樋山の妻である。

作業完了の一報は伝えていないのだが、長い付き合いで、空気で伝わってしまうらしい。

「あっ、はーい」

「おいおい、旦那よりバイトが先かい」

「ハハ、拗ねないでくださいよー。あんなウマいのいつも食えるんだからいーじゃないスか」

「お。そうか」

あ。照れた。

江藤は内心笑っていた。

店舗と一体化した住居スペースは年季が入り、決して清潔さはないが、詰め込まれた多くの雑貨に囲まれたダイニングにはむしろ生活感に満ち溢れ、独特の味わいがあった。

「いやー、実智さんのチキンカツやっぱ最高ですね」

「じゃんじゃんあるからじゃんじゃん食べてねー」

「俺は?」

隣に座る樋山が妻に訊ねると、突如として脇腹をつねられた。

「イテェ!」

「メタボッ」

そんな仲むつまじい夫婦のやり取りを、向かいに座る江藤は笑って眺めていた。

その隣では、髪をポニーテールに結った小さな女の子が、慣れない箸捌きでチキンカツを頬張っている。

満五歳になる、樋山家の一人長女である。

「ウマい?」

江藤が訊ねると、女の子は目を伏せたままコクリと頷いた。

「しっかし、赤木のあんちゃんも腕上げたもんだね」

「あー。まぁ、あいつアレしか取り柄ないスからね」

「でも、一つ光るモンがあるってのはやっぱかっこいいもんだろ、男として」

「――そですね。確かに、光り方は半端ないと思いますよ」

女子ではないのだから仲良しこよしすることもないし、準部員であるが故に接点も正部員と比べて少ないが、単にパーソナリティとしての能力に関しては一目置いていた。

「真希夫クンがMCやったら意外にハマるかもね?」

「いやいや、俺にはムリっすよ、あんな名探偵ナンチャラみたいに声変えるの」

それもそうねアハハ、と妻が笑みを返し、――江藤はふと、熱い視線を感じてその方に向く。真横に座る、樋山家長女のものだった。俯いて目も合わせなかった先刻の照れ様は幻か、箸と茶碗を握り締め、大きく見開いた目で江藤を見つめ、否、睨んでいた。

「…ん?」

やや怖いくらいの熱視線に、ぎこちなさこの上ないやさしい表情と声色で訊ねる江藤だが、返答はなかった。

「ああ、ウチの子大ファンなんだよ、『千内ストーリーズ』」

「へー」

江藤にとっても暇潰し以上にはおもしろいと感じるあのラジオドラマを、まだ小学校にも上がらない女の子が楽しいと感じることにただ純粋に感心していた。

「でも、いんですか?」

「ん?」

「“あんな”の聴かしちゃって」

“あんな”の意味を一瞬で理解した樋山は、

「んぁあ、いんだよいんだよ、女ってのはおマセでナンボだ」

「ちょっとぉ、今のは聞き捨てならないわねぇ」

妻の素早い抗議に、しかし樋山はすぐさま切り返す。

「いや、そしたらお前、一緒に韓国ドラマ見てるのはどーなんだい?」

「えっ。いやー、アレはー、そのー、ね? そ、そう、情操教育よ、ジョウソウ」

「はいはい」

「なによ」「なんだよ」の“乳繰り合い”が勃発する様子を、引き金となった江藤は苦笑して放置し、その最中でも熱視線を送り続ける長女に気付いた。江藤は思う、大物になるな、と。

「ねぇ」

訊ねられた長女は、子供らしい仕草で首を傾げた。

「先、知りたい?」

口角を吊り上げてニヤリと甘い蜜の詰まった爆弾を掲げる江藤に、長女はビクッと反応して、みるみる頬を赤くしていく。江藤にとっては軽いイタズラのつもりでも、年端も行かぬ少女にとってそれはあまりにも糖度の高い蜜で、それを舐めれば太ってしまうとわかっていても、それを抑える理性を彼女は未だ持っていない。

――はずだった。

長女はギュッと目を閉じ口をギュッとつぐんで、プルプルと顔を横に振った。

「……いい」

小さすぎて、夫婦の口論にかき消されてしまうほどの声だったが、口の動きで彼女が言葉を発したとわかった。同時に、江藤は驚いた。この年頃の自分だったら、こんなおいしい蜜は据え膳が如く皿まで頂いてしまうだろうに。

「そっか」

素っ気なく言うつもりだったが、意に反して嬉しげな声が出てしまったことに殊更驚く。

「ぶっちゃけ俺も知らないんだけどねー」

事実を知らされた途端、長女は小さく落胆し、にわかに怒っているようにも見えた。悪いことしちゃったかな、と江藤も苦笑いを返して反省する。

「……でもさ、」

突然変調してトーンの落ちた声に、長女のわずかに膨らせていた頬がしぼみ、口にチキンカツを運びかけていた箸を止めた。そして、茶碗にチキンカツを運ぶ江藤の目を見る。

「人生もそうだし、なんでもそうだけど、先がわかっちゃったらつまんないじゃん?」

長女は相槌を打つでもなく、ただ江藤の目を見ていた。

「わかんないから、ワクワクする。わかっちゃったら、ワクワクしない」

長女は聞き入ってしまって口が半分開いていることにも気付かないまま、小さく頷いた。

「いやー、俺と違って賢いね。偉い偉い」

江藤が箸を持ったままの右手で長女の頭をそっと撫でると、彼女は少し驚いて一瞬目を閉じたが、大人しく、そしてどこかくすぐったそうにしていた。

――と、突然。

「もういいっ!」

ガタタッ、と椅子の暴れる音がしたかと思えば、妻が箸を握り締めた右手を震わせて、肩も震わせて直立している。その顔はひどく膨れていて、誰が見ても夫婦喧嘩の果てと見えた。そして彼女は吼える、

「一週間エッチなしっ!」

ブッ。

江藤が吹いた。租借物ともども堪え切れず、長女の顔面に。

すでに日も落ち切った角井町、樋山オートのガレージの一角に照明が降っている。ナットを回す音が、ひっそりと夜空に響いていた。

夕食を終えた江藤は、夕食の片付けの手伝いを申し出たがしたたかに断られ、早々に愛車の修理を始めていた。アルバイトという立場のおかげでガレージを借りられることは非常にありがたいし、何より、修理せねば帰れない。部品交換となると一朝一夕では済まないが、この程度の故障なら軽い整備でなんとかなる。元より中古で多少のガタは来ている、ちょっと壊れるくらいが“ちょうどいい”のだ。

そんな修理作業真っ只中の光景を、やや距離を置いてしゃがみ込み、黙々と観察する長女がいた。危険だから、と父親から仕事中のガレージへの立ち入りを禁じられている長女だが、各種安全点検を済ませた終業後である上、作業自体も簡単なもののため、一言二言の戒め、ようするに「気を付けるんだぞ」と言われた程度で立ち入りを許可された。それも、江藤が誘ったのではなく、彼女から進んで見学を申し出たのだ。樋山は「将来はプロのメカニックだな」と豪語するが、そこでもまた妻と育成方針に関しての“乳繰り合い”が巻き起こるのは言わずもがな。むしろ大変だったのは、顔面チキンカツ塗れになった長女を泣き止ませることだった。

長女はただひたすら、無言で、江藤の一挙手一投足を目で追っていた。スパナを回す腕を、油を注す指を、汗を拭うまた腕を、追っていた。

「原チャ……あー、バイク、好き?」

原付自転車と自動二輪車の違いなど五歳児に説く必要もないと判断して訂正した江藤が、しゃがむ膝を抱える長女に訊ねると、彼女は夕食時よりも心なしか大きめに頷いた。

「じゃあ、大人になったら一緒に走ろっか」

江藤の“ナンパ”に対して、長女は『先、知りたい事件』を髣髴とさせる頬の紅潮を見せた。その反応を返された江藤は、(純粋な意味で)かわいいなぁ、と思った。

「ちょっと、やってみる?」

ピクッ、と長女が反応する。それは、工具に触るどころか立ち入りすら禁じられている彼女にとって、これまたとてつもなく甘い蜜爆弾だった。天使が言う、お父さんの言いつけを破るのか。悪魔が言う、言いつけなど破るためにあるのだ。年齢に反して思慮深い彼女は幼いながらも懊悩を繰り返し、

「ヘーキヘーキ、ネジ締めるだけだから」

……人生、時には悪魔の話に乗ることも必要だ、と長女は学んだ。

「ドライバー使ったことある?」

しゃがみ歩きで接近してくる長女に訊ね、首肯を確認してヨシと意気込み、ドライバーを手渡す。経験はあっても数が少ないのだろう、手にしたドライバーをまじまじと見つめる彼女の期待と不安を隠した表情は、見ている江藤の方が楽しくなってしまうほどだった。

「じゃー、ここ」

ドライバーから目標に視線を移した長女は、緊張で確認の首肯も忘れ、思わず握り締めてしまうドライバーの矛先をターゲットに向ける。やがてプラスドライバーがネジと嵌合し、

「時計回りで、ゆっくりでいいから」

首肯する余裕もなく、長女はゆっくりとドライバーを右回転させていく。彼女のドライバー経験はおもちゃのそれ程度で、無骨なこのネジは思いの外重かったが、按配が掴めてきて徐々に回転速度を上げる。だが、ネジの抵抗は突如として襲ってきた。

「ん。回り切った?」

江藤に訊ねられ、一応二度ほど回して確認してみる長女だが、先ほどまでの軽さが嘘だと言わんばかりにビクともせず、返答として首肯した。

「うん、ありがと。じゃあ、最後はちとムズいから、オレがやるね」

そうなるだろう、と彼女はわかっていた。私みたいな幼い、しかも女の子が、こんな重厚長大な物をしかと扱えるわけがないと、わかっていた。だから、こうなるだろうと。

「あと、最後締める時に、気ィ付けなきゃいけないトコがあるんだ」

わかっていた。わかっていたのに、頭ではわかっていたのに。

「グッて回す時に、ドライバーがちゃんと奥まで入ってないと、ここ、“山”っていうんだけど、ここが削れちゃうことがあるんだ。そういうのを“ネジをなめる”とか“山が潰れる”とかいうんだけど――」

どんなに頭でわかっていても、心がわかってくれなかった。

「大の大人でも、押し込みながら回すのって、結構ッ、しんどいんッ、だよなぁ」

相手はもはや成人に近い男なのだ、相応の力があって当然である。性別も異なれば歳も離れているし、力量に差があって当然である。……そう、当然。頼らざるを得ないのは、当然のことだった。

「――じゃーせっかくだし、反対側もやろっか」

だから、時折向けてしまう羨望の眼差しと、残暑のせいではない胸のほのかな熱さは、恐らく気のせいだ。

「ゴチんなりましたー」

幸いにも全快を迎えた愛車に跨り、腕を組む樋山と手を振る妻と、どこか照れながらも小さく手を振る長女の三人に、江藤は振り返りながら大きく手を振り、そしてゆっくりと、労わるようにゆっくりとスロットルを回し、宵の中を駆け出した。

樋山オートから江藤家までは町内だけあって千内高校ほどの距離はないが、直線距離以上に地形の起伏があり、また田舎町のため街灯もなく、人通りも夕暮れ以降はあまりない。故に、実距離以上の遠さを感じさせるのだ。江藤曰く「信号も渋滞もなくて最高」という。

古民家が大多数を占める角井の中にあって、築十数年という“新築”の部類に入る二階一戸建ての江藤家は、田舎ならではの広い土地を有していた。父親の趣味である二台のジープ(一台は通勤用のため出ている)と、この辺の家ならどこにでもある耕耘機、母親の菜園兼花壇、それ以外はだだっ広い土庭である。帰着した江藤は、ジープが置かれているカーポートの隅の方に愛車を停めた。

鍵のかかっていない玄関を開けると、至って普通の洋式玄関に、見覚えのない、明らかに女性物のサンダルがあった。土仕事をして泥まみれになっても気にも留めない母親の物では絶対にない。外からカーテン越しに見た弟の部屋に灯りが点いていたところを見て、連れ込んでいると見て間違いない。

「フン」

どこもかしこもイチャイチャしよって、と、現在進行形で独り身の江藤はひそかに愚痴をこぼす。もとい、負け惜しむ。

俺だって別に彼女くらいすぐにつくれるけど、今は部活が忙しいし、今の彼女は原チャだし。っつーか中坊のくせに女を家に呼ぶとかどうなんだよ、もっと貞操観念っつーかそういうのがさ、あと世間体とかさ、

自室に辿り着いた頃には一巡して憂鬱に陥っていた江藤は、制服(ソファに放り投げた)から部屋着に着替え、ラジカセを起動してお気に入りの音楽チャンネルに回し、ベッドに寝転がってバイク関連の雑誌を読み始めた。

『ラジオが好きであること』。

ラジオ部の入部条件にもある通り、例に漏れず江藤もラジオを聴くことを趣味としているが、好んで励行していそうな『運転中のラジオ聴取』を江藤は一切しなかった。理由として、聴覚をある程度奪われるために集中力が低下し、また周囲の音も聞こえづらくなって危険だからだ、と。半脱ぎヘルメットでは説得力がないが、これにも理由があり、ヘルメットは自己防衛でしかないが、事故は他人も巻き込んでしまうから、という。加えて、風切り音で正確な聴取ができない状態で聴くのはラジオに対して失礼だ、との持論もある。さらに、集中力を奪われるという理由から、樋山オートに於いての仕事中に聴くこともしない。ガレージにラジカセはあるが、休み時間にしか立ち上げていない。

では、いつラジオを聴くのか。それは、今のようにくつろいでいる間と、愛車をいじっている時である。愛車はもちろん大事だが、さすがに仕事の時ほどの集中力は必要ない。

バイクを駆り回している時間も好きだが、こうしてラジオを聴きながらのんびりする時間も、江藤は好きだった。

バイクが好きなのは、昔からジープを乗り回している父の影響である。中古ではあるが、今の原付自転車を購入してくれたのも父だった。同じ血が流れている上に日頃から口酸っぱく言われてこそいるが、ジープも悪くはないと思うが、今はバイクにしか興が湧かなかった。ジープが二台あることの本当の理由を、明言されてはいないが、察せられてしまう自分が悲しい。

父親は隣どころでは済まない街まで仕事に出ていて帰りは遅い。二世帯住宅だが、新築時に入居した父方の両親は、数年前に(江藤から見た)祖母が亡くなり、祖父も病気と痴呆で病院に行きっぱなしである。そのため、両親の世話役を兼ねて主婦だった母親も今は仕事を持っていて遅い帰宅になる。夕食が用意されていることは稀で、常ならこの時間は腹をグーグー鳴らして母親の帰宅待ちとなるため、たまに樋山家でご馳走してもらえることは非常に助かっていた。

ラジオが好きになったのは、間接的だが祖父の影響である。相撲ダイジェスト用に祖父が使用していたラジカセを、耳が遠くなって聴かなくなり、不要になったところを譲ってもらったのが今の物になる。幼き日の江藤こそアニメばかりに見入っていたが、中学生に進級した辺りからラジオの魅力に気付き始めた。思えばあの頃はトーク番組ばかり聴いていたが、好みは変わるものだなと懐かしむ。

――軽い回想に耽っていたら、満腹の幸福感が睡魔を呼び寄せてしまったのか、瞼が重くなってきていた。やることも、やらねばならないこともないし、風呂も……、まぁ、いいか。仰向けになって読んでいた本を開いたまま手放して顔面に落とし、顔全体を覆い隠す様は目隠し代わりにも見て取れた。

そのまま江藤は、まどろみの中に落ちていった。

――。

隣室、弟の部屋から声が聞こえた。弟の声ではなかった。

「……フン」