だんだんと暑さを増してきた、5月の31日。明日から6月、暑い暑い夏の始まりだ。

…」

少し開いているカーテンのすき間から差し込む朝日で目を覚ました。ただ、まだ少し眠気が残っている。
布団に潜ったままゴロゴロし、くるっと寝返りを打つと、春の顔が目の前に…? 春の顔?

「春…」

いつものボクなら驚いて飛び起きていたはず。でも、今朝は何故だかそのまま春の顔を見つめていた。
かわいらしくて、自然で、純粋無垢で…。まるで天使のようなその寝顔を、いつまでも見ていたかった。

「……はぇ…? あ…こ~ちゃん、おはよ~」
「おはよ、春」

気配を感じたのか、春がゆっくりと目を覚ました。目を擦り、ゆらゆらと身体を起こしている。

「あれぇ?あたし、ど~してここでねてるのぉ?」
「ボクが聞きたいくらいだよ」
「はぇ?」
「とりあえずはさ。朝ゴハン、食べよっか」
「ふあ~い」

二人一緒に階段を降り、洗面所で顔を洗い、リビングへ向かう。朝食の良い香りが食欲をそそる。

「おはよう、二人とも」
「おはよ」
「おはよ~ございます、ママさん」

ボクがテーブルの椅子に座ると、春は必ずその反対側に座り、向かい合わせになる。

「こ~ちゃん」
「ん?」
「きょうもガッコウだよね?」
「うん、もちろん」
「そっかぁ…」
「どうかしたの?」
「…ううん、なんでもないよ~」

一瞬、春が今までに見た事のない表情を浮かべた。笑顔の奥底に見える深い悲しみ…そんな感じだった。

いつも通りに朝食を食べ終え、学校へ行く準備を整え、いつもと同じように学校へ登校する。

…学校に到着して席に着き、春に足し算を教えていた。前よりもだんだんと上達してきている。
十の位の足し算も簡単なモノならできるようになってきたし、飲み込みは良い方なのかもしれない。

ふと気が付くと、史哉がこっちを見て不思議そうな顔をしていた。

「史哉、どうかした?」
「いんやぁ…お二人さん、なんか変わったなぁ~と…」
「そう…かな?」
「明確に変わったわけじゃないんだよな。雰囲気っつーか、なんつーか…」

何かが変わった…それは自分でも自覚してた。雲を掴むような感覚だけど、何かが変わった。
前の一件以来。春を泣かせてしまったあの一件以来、何かが変わった。

いつもと同じように授業を受け、いつも通りに屋上で昼食をとり、また授業を受ける。

…放課後。なんら変哲もないまま、いつものように家に帰るはずだった。だけど…

「こ~ちゃん」
「ん?」
「ゆ~えんち、いきたい」
「遊園地?」
「うん」
「遊園地…か。よしっ。いつになるかわかんないけど、また連れてってあげるよ」
「はぇ?」

春はぽか~んとしながらボクを見つめていた。

「…な、なに?」
「つれてって~」
「だ、だから、時間がある時にね」
「じかんがあるとき?」
「休みの日って事だよ」
「…そっかぁ…、そうだよね…」

表情を曇らせ、俯いてしまう春。

「…ねぇ」
「はぇ…?」
「まさか、今日行きたいの?」
「……うん…」

さすがのボクも驚いた。もう17時になろうかというのに、遊園地に行きたいだなんて…。

「どうして今日なの?」
「いきたい…」
「理由は?」
「いきたいの…」
「…どうしても?」

春は何も言わず、こくっと頷いた。無理なお願いだということは分かっているみたいだ。

「春…今からじゃ無理だよ。時間もないし、明日も学校なんだよ?」
「…わかってる。わかってるけど…、いきたい…」
「……春…」

何故だろう。無理な事だって分かってても、連れていかないといけない気がする。そうしないと後悔する。そんな気がした。

「春」
「はぇ?」
「行こう」
「どこ~?」
「遊園地」
「…いいの?」
「春のお願いだから、聞かないわけにはいかないよ」

先程までの暗い表情から一転、とってもキレイな笑顔になる春。

「ありがと~、こ~ちゃん」

ペコッとお辞儀をした春は、嬉しそうにボクの腕に抱きついてきた。

「うわっ!ちょっ、春ッ!離れてってば!」
「こ~ちゃ~ん♪」

じゃれているのかなんなのか、まったくボクから離れようとしない。恥ずかしいなぁ…。

家に帰るまでの道を急きょ変更し、その足で駅まで直行。手持ちはなんとか足りるから大丈夫…だとは思う。
母さんには駅の公衆電話でそれとなく理由を話しておいた。察しのいい母さんなら分かると思うけど…。

電車に乗り、遊園地までゴトゴトと電車に揺られている。気付けば制服のまま。

「こ~ちゃん」
「うん?」
「メイワクじゃ…ないかなぁ?」
「なにが?」
「あたし、ワガママばっかりいってるから…」
「そんな事ないよ。春には恩返ししてもらってるから、ボクも恩返しをしてるだけだよ」
「はぇ~…。おんがえし、かぁ…」

ちょっとしたつっかえ棒が取れてまた無邪気な笑顔に戻る春。…かわいい。

…やがて目的地に到着。電車から降り、遊園地へ。

「またきたね~」
「そうだね」

ついこの前も来たばっかりの、同じ遊園地。春のお願いでやってきた、同じ遊園地。
辺りはすでに真っ暗、時刻はPM9:00。加えて平日。他のお客はチラホラとしか見当たらない。

「春、なにに乗りたい?」
「ん~っと…かんらんしゃ~」
「観覧車ね。よし、行こ」

観覧車に乗り、上へと上がっていく。だんだんと見えてくる遊園地の全景。星のように光り輝くネオン。
その光景を楽しそうに眺めている春の顔は…なんて言えばいいのか分からないけど……かわいかった。

そのあとも色々なアトラクションに乗った。ほとんど前に来た時と同じ。違うのは時間だけなのかもしれない。
でも…楽しかった。ついこの前に同じ事をしたばかりなのに、楽しかった。とっても楽しかった。

…休憩がてらベンチに座り、ジュースを飲みながら光り輝く遊園地を眺めていた。時刻はPM11:50。
若い男女がこんな時間にこんな所でジュースを飲みながら何をしているんだろう。ボクなんて制服だし…。

「こ~ちゃん。きょうはありがとね~」
「いいよ、気にしないで。ボクも楽しめたし、春も楽しんでくれたのならボクは嬉しいよ」
「……また…きたいなぁ…」
「春が来たくなったらまた連れてきてあげるよ」
「…いいの?」
「当たり前だよ。春のお願いだもん」
「…」

返事もないまま春はおもむろに立ち上がり、少し歩を進め、踵を返してボクの方へ振り向いた。

「こ~ちゃん」
「ん?」

ボクに歩み寄り、身体をかがめ、ボクに顔を近づけて…そして、突然のキス。

頭が真っ白になった。予想だにしない春の行動、初めて感じる唇の感触、間近で見る春の顔。

気が動転してしまいそうだった。でも…時間が経つにつれ、だんだんとその状況を受け入れていった。

…唇が離れると、春は2、3歩後ろに下がった。

「おわかれだね…こ~ちゃん」
「…へ?」

さっきした事と、今の春の発言。もう何がなんだか分からなくなっている。かなり混乱している。

「あたしね…こ~ちゃんにかくしてたことがあるの」
「隠してた…事…?」
「こ~ちゃんといっしょにいられるのは『はる』のあいだだけ…『なつ』になったらきえちゃうの」
「…消え…る……って…?」
「このセカイから…いなくなっちゃうの」
「いなくなるって…? もう…会えないってこと…?」

春はこくっと頷いた。

「ちょ、ちょっと、変な冗談はやめてよ。ウソなんでしょ?ボクを驚かせたいだけなんだよね?」
「…」

返答をくれない春。いつの間にかボクも立ち上がり、春に接近していた。

「…ウソ…なんでしょ…?ウソって言ってよ…。いつもみたいに…笑いながら…」
「ウソじゃ…ないよ…」

ボクはとっさに春の両肩を掴んだ。思わず力が入ってしまう。

「そんなのひどいよ!いきなりいなくなっちゃうだなんて!ボクは…ボクはどうすればいいのさ!?」
「…ごめん…」
「春のいない生活なんて…そんなの、そんなのヤだよ!」
「……ごめんね…こ~ちゃん…」

何を言っても春は笑ってくれない。いつもの笑顔でウソだって言ってほしい。

「…そうだ。今ぐらいの季節の国に行こう。それなら春だって…」
「ダメ…できない…」
「できないかどうかなんて、実際にやってみないと分からないよ!」
「……もう…『なつ』になっちゃう…」

すぐそこにある遊園地の時計を見た。PM11:58。12時になったら春が消えてしまう。もう二度と会えなくなってしまう。
そう思うとボクの中の想いが一気に沸き上がった。ボクは春を抱きしめた。やわらかな身体を…泣きながら。

「春、ダメだ!消えちゃダメだ!」
「こ~ちゃん…」
「好きだから…春のこと、大好きだから…だから、消えちゃダメだ!」
「あたしもスキだよ、こ~ちゃんのこと。ずっといっしょにいたい。ずっとそばにいたい。…ほしかったよ…えいえんのはる」
「…それでも…消えちゃうの…?」

春は小さく頷き、ボクの身体から離れ、数歩後ろに下がった。

大好きな春に触れていたかった。大好きな春の笑顔をもっと見ていたかった。

でも…時間はそれを許してくれないみたいだ。春の身体がだんだんと薄くなっていく。

「春…」
「あんまりおんがえしできなくて…ごめんね」
「そんな事ない…春はちゃんとに恩返ししてくれたよ…」
「ママさんにも…よろしくね」
「わかった、言っておくよ」
「…そろそろ、いくね」
「そっか…」
「……また…あえるかな…?」
「もちろんだよ。来年、再来年、その先もずっと…絶対に会えるんだ」
「じゃあ…らいねんの『はる』、またあおうね」
「うん」

「…さようなら、こ~ちゃん」

その直後、目の前が真っ白になり、ボクは意識を失った。そこから先は…良く覚えていない。





…ふと気が付くと、そこはボクの部屋。いつもと変わりのない、気持ちいい朝のベッドの上だった。

気のせいだろうか…とても長い夢を見ていた気がする。楽しい事、悲しい事、色々な事があった夢だった気がする。
大切な『なにか』が消えてしまったような気がする。ボクにとって一番大事な『なにか』が…消えてしまった気がする。
それも全ては夢だったんだ。そう思えば悲しみも軽くなる。けど…何故だか忘れられないんだ。

上半身を起こし、ぐぐ~っと背伸びをする。これをやらなきゃ朝じゃない、というのがボクのモットーだ。
背伸びをして上に挙げた手をペタッと下に降ろすと、左手がやわらかい何かに当たったような感触を覚えた。

「ん?」

左に向いてみると、明らかに人が横になっている。誰だろ…?史哉?母さん?それとも別の人?
おそるおそる顔を覗きたくても、その人はボクに背を向けて眠っていて見る事ができなかった。

…あれ?なんでだろ…このコの後ろ姿、見覚えがある。

白くて長い髪。

布団を被っていない部分だけ見える白いワンピース。

女のコ特有のちょっと白っぽい肌。

見覚えがある。漠然とした思いが、いつしか確信に変わっていた。このコ…知ってる。
こちらに振り向かせようと手をかけようとすると、そのコは寝返りを打ってこちらに向いた。

そのコの顔を見て、ボクは不思議な気持ちに駆られた。

今までず~っと側にいてくれた。側にいる事が当たり前だった。大切な人。

このコが好きだった。このコの事が大好きだった。誰よりも、誰よりも好きな女のコ。

恩返しをしてくれて、とっても優しくて、とってもかわいくて、ボクの家に居候していた女のコ。

それなのに…大切な人なのに、思い出せない。名前が出てこない。

「……はぇ…?」

女のコが目を覚ました。

「あれ…?こ~ちゃん?」

その名前で呼ばれた瞬間、ボクの頭のモヤモヤは全て吹き飛んだ。そう…全てを思い出した。

あれは夢なんかじゃなかった。実際にあった事だったんだ。今 目の前にいるこのコと、一緒に生活した日々だったんだ。

「春…?」
「はぇ?」
「春…だよね…?」
「うん…」
「本当に…春、だよね?」
「そうだよ…?」

春は消えていなかった。ボクの元にちゃんと帰ってきてくれたんだ。

「春…!」

ボクは春の身体を起こし、強く抱きしめた。帰ってきてくれた春を二度と離すまいと。…そう、泣きながら。

「良かった…帰ってきてくれて…。良かった…」
「こ~ちゃん…」

もう絶対に離さない。絶対に春を離さない。ボクの大好きな人だから…絶対に離さない。

「ねぇ、こ~ちゃん」
「ん…?」
「あたし…きえちゃったんだよねぇ?」
「…でも、春はここにいるよ」
「どうしてかなぁ?」
「そんな事はどうでもいい。春がいてくれるなら…どうだっていい」
「はぇ…そっかぁ、そうだよね」

疑問がなくなり、ボクの元に帰ってこれて嬉しそうな春。ぎゅっと抱き返してくれた。

「あっ。こ~ちゃん」
「うん?」
「じかん、だいじょ~ぶ?」
「…うわっ!? もう8時!?」
「いそげいそげ~、チコクするよ~」
「母さんも起こしてくれればいいのに…って、春も準備するの!」
「ふあ~い」


慌てていたけど、その時間がとっても嬉しかった。春とともに過ごせる時間…それは、どんな時も楽しいのかもしれない。


大好きな人と過ごせる時間、それを大切にしてほしい。長いけど、限られた時間だから…大切にしてほしい。


嬉しい事も、悲しい事も、辛い事も、楽しい事も…好きな人を分かち合える喜び。それを大切にしてほしい。



永遠の春は存在しない。でも…春と一緒に暮らせる日々。その日々が、ボクにとっての永遠の春なんだ。