ピンポーン。

煎御谷家の呼び鈴が鳴り、のんびり朝ご飯を食べていた花火が、口内に咀嚼物を残したまま玄関を開けました。

「はよ」

花火は姿を確認せずに言いました。玄関の前にいたのは、やっぱり椿でした。

「おはよ」

二人はいつも通りの挨拶を交わしました。花火は はよはよ寒い寒いと言って椿を急かし、椿は慌てて中に入り玄関を閉め、そしてリビングに上がりました。

「おはよ、椿ちゃん」

花火の母親の挨拶に、椿は軽い会釈で返しました。慣れていない頃の椿だったらガチガチになってしっかりお辞儀をしておはようございますを言っていたかもしれませんが、大学に入学して以来ほぼ毎朝している事なのですから、さすがの椿も慣れっこです。

花火は朝ご飯の途中だったので食卓に戻り、椿は外で冷えた身体を温めるためコタツに入り、点いていたテレビを見ていました。

「花火くん」
「ん?」
「いい…?」

椿は、コタツの真ん中に置かれている、丸籠にドカドカと積まれたみかんを取ろうとするモーションで止まり、花火に一言訊ねました。花火は咀嚼中なので喋れず、顔を縦に動かしました。椿はこくっとうなずき、みかんを一つ取って皮を剥…くのかと思いきや、みかんを両手でぎゅうぎゅうと揉んだり、コタツの上で手の平でコロコロと転がしたりしていました。椿曰く、こうするとみかんの酸味が外部からの刺激で抜けて甘みが出るからだそうです。

みかんをおいしそうに食べながら椿が見ていたテレビは、朝の情報バラエティー番組でした。ニュースをメインに地方の名産や名物の特集をしたり、サッカーや野球のオフシーズンのインタビューをしたり、天気予報をやったり、その他色々な企画を放送している番組です。花火の家に来るといつもこのチャンネルのこの番組になっているため、自然と椿も見るようになっていました。

スポーツコーナーが終わり、天気予報が終わり、CMが入って、そのCM明けに始まったのは、曜日限定コーナー『偉人たちの展望』。世界で活躍する様々な職種のエリート・達人たちを紹介し、職業を持つという事への大切さを忘れつつある現代の若者への関心提起を目的としたものです。もちろん、テレビに出れるだけでも出演者側は嬉しいものですが。

椿にとってこのコーナーは、おもしろいでもなくつまらないでもなく、ただ普通に『花火を待つ間に』見ているというだけの、特に何の思いもないものでした。だから椿は特に何も考えず、ただブラウン管に映し出される映像を『花火を待つ間に』見ていただけで、どちらかといえばみかんを食べるのに集中していました。

テレビに映っていたのは、ビシッとしたリクルートスーツの着こなしがとても似合う見た目結構若そうな男の人で、後ろで小音量のBGMとナレーターが喋っている中、そのスーツの男の人が流れるような編集映像で頭にターバンを巻いてスーツを着た黒人の男性と会議室らしい所で握手したり、飛行機の座席で眠っている姿が一瞬映ったり、いかにも日差しが暑そうな街でYシャツ姿で走っていたり、オープンカフェでピザを食べていたり、どこかの会社で部下たちにテキパキと慌しそうに指示をしていたり。とにかくとても忙しそうなサラリーマンでした。

そして、ナレーターが『この"偉人"の名は、』と言ってナレーションが止まり、映像はスーツ男性の下斜めからの凛々しい角度からのアップで静止し、画面下に鋭角な字体で名前が表示されました。椿はそれを、みかんを食べながらぼんやりと見ていました。

『 煎御谷 剛 』

椿は思わず、みかんを噛まずにひと粒丸飲みしてしまいました。

だって、ものすごくビックリしたのですから。

『まさか』という気持ちが心の中を躍動して、『もしかして』という思いが頭をよぎって、しかし、『そんなはずはない』という否定が体中を駆け巡って、自分でも何が何だか訳が分からなくなりました。あまりに突然の事すぎて、あまりに自分の思考が混乱していて、まず最初にするべきであろう事に、最初に確認すべきであろう事に、その行動に移る事ができませんでした。

煎御谷なんて苗字、そうそういるはずがない。中学生の頃に自分の冬矢という苗字がどれだけ珍しいかをインターネットで調べた時に、煎御谷なんて苗字は見かけなかったのを覚えてる。だから、たぶん、可能性はあると思う。でも、違う可能性だってあるし、もしかしたらまた別の可能性も有り得るし…。でもでも、もしそうだとしてもテレビに映るなんてとんでもない事だし、あぁもうよくわかんない!

そんな懊悩を椿は一瞬の内に頭の中で巡らせ、そうしてやっと椿は、最も初めに取るべきであった行動に移る事ができました。

「は、」

は。

「はな、」

はな。

「花火くんっ」

椿はまだちょっと混乱しつつも(というか、まだ真実がわかっていないのだから混乱していて当たり前ですが)、バタバタバタと手招きをしながら花火の名を呼びました。

一方の花火は、椿が急に身体をビクつかせたかと思えば今度は右手を大きくバタバタさせて自分を手招きし始めたので、みかんに腐っているのが混じってたのか何かかと思い振り向いて、

「なんや?」

しかし椿は、心なしか恐る恐る、左手でテレビを指差していました。さすがの鈍い花火でもそれはテレビを見ろと言っているのだと理解し、朝ご飯に集中していてちっとも見ていなかったテレビを見ました。そこに映っている映像を見て、花火の口から、一言。


「あれ。おとんや」


衝撃の一言でした。

可能性はゼロではない、と自分でもわかっていたけど、だって、事が事だから。全国放送の朝の番組だから。信じる方が難しいのです。今目に見えている事実と、たった今花火が口にした真実を、信じろと言われてもすぐに信じられるわけがありません。だから椿は、その信じられなさ故に、椿にしてはちょっと大きめの声でビックリの声が出

「えっ! ウソッ!?」

しかし、先にビックリしたのは椿ではなく、花火の母親でした。それも大声で。

「やぁ~ん♪ つーよーしーさぁ~ん♪」

それもまた、突然の事でした。花火に怒鳴りつける時とは全く正反対の、黒の反対は白であるように正反対の、鬼もまいってしまうような甘えた声を、花火の母親が発したのです。もとい、発しているのです。台所であれこれしていた母親ですが、途中だった作業を全て投げ捨て、濡れていた手はエプロンで乱暴に拭いて、スリッパをパタパタ言わせて走り出し、コタツのカーペットの上でもお構いなしにスリッパで上陸し、テレビの真ん前に飛ぶ込むように正座してブラウン管に食い付きました。

「あぁ~、いつ見てもステキだわぁ…」
「いい歳こいてミョーな声出すなや。椿に変人思われんで」
「ダメ息子は黙ってなさい」

強烈な剣幕の一声に花火は一発で萎縮して、朝ご飯の続きを食べ始めました。

以降しばらく、花火の母親が無言でテレビを凝視し続けました。花火は母親にバレないようにしながら椿に向かってチロっと舌を出し、しかし目線は母親に、顔はちょっとしかめっ面で。イヤミです。

でも、舌をチロっとされた椿は何が何だか訳が分からなくなっていて、舌の意味を理解するどころではありませんでした。先ほどよりもなお、大きく、余計に。今目の前にある状況は、どうにも信じられないものが揃いに揃っています。

頭目、最も気になるのは、花火の母親のものすごい喜び様です。一般的に考えて、身内がテレビに出ていればよほどの関係でもない限り普通は驚いて喜ぶはずです。母親も確かにそれの内なのはそうなのですが、どこか違っているのです。その、気になる一言が『いつ見ても』でした。

花火の話によれば花火の父親は海外赴任中で長期間家にはいないらしく、当の椿も会った事はありません。その海外赴任している父が、家族の与り知らぬ所でテレビのインタビューを受けて、そしてテレビに出演した。それを一般的に解釈すれば、もっと違うリアクションになると思う椿。自分の場合に置き換えて考えて、椿の父親をその状況に当てはめると、すごいだとかいつの間にだとか、もっと大騒ぎすると思う椿。

母親には、そこが欠けているように思えました。まるで、そう、初めてではないような―。

ふと、椿は思いました。あまりに当然らしい反応を示すので、特に疑問に思えなくなっていたのです。身近にいるからこそ、性格がわかっているからこそ、疑問に思えなかったのです。

どうして花火は平然としているのでしょう?

前述した通り、身内がテレビに出ていれば驚き喜ぶのが当然です。しかし、花火は全く正反対の"当然"を振舞ったのです。最初にテレビで父親の姿を確認した時も『あれ。おとんや』しか言わないし、今でさえ(母親に一喝されて)黙々と朝ご飯を食べているし、母親のようにテレビの目前に来て喜ぶような素振りは一切見せていません。恥ずかしいからでしょうか?否、花火がそんな性格とは思えません。むしろ花火の性格だと、母親のようにとはいかずともそれなりに大げさに喜ぶはずです。

あまつさえ舌をチロっとしてくるし、どうして花火は平然としていられるのでしょうか。母親のように逐一目に焼き付けたりしないのでしょうか。私だったらすると思う、と椿は思いました。

母親のちょっとした違和感と、花火の大きすぎる違和感が、椿に混乱を招いていました。

そんな椿の再なる懊悩を無視して、『偉人たちの展望』は進みます。短めのこのコーナーは中盤を過ぎ、メインのインタビューに入っていました。そこは外国のホテルの一室で、美しい絨毯の上にソファがやや斜めに対面に置かれ、それぞれに剛と女性インタビュアーが座っていました。余談ですが、剛はオープニングの時と同じビシっと決まったスーツ姿です。

「煎御谷さんのご趣味は、どういったものでしょう?」
「んー、そですね。僕ね、基本的にギャンブルとかダメなんですよ。もったいなくて。かといってインドアな趣味はなんかもーウジったくて、そういうのも苦手なんですよね。男はやっぱり外に出て釣りとかキャンプとかアウトドアが似合うと思うんですよ。…まぁ、家が北海道にあっちゃ釣りもキャンプもできませんけどね。強いて言うなら仕事が趣味かな?」

最後の方はスタッフ一同の笑いを誘いました。母親が何か唸ったけどあえて書きません。

「ご自宅が北海道にあるとおっしゃいましたが、ご家族の方と海外に引っ越されたりは?」
「いやいやいやいや、そんな事したら妻にぶっ飛ばされちゃいますよ」

と剛は笑いながら言いました。母親があぁ~ん剛さんのためならいくらでも何々と言っています。

「ちょうど僕が海外事業部に転属になって、ろくに家族サービスもできなくなっちゃうから、だったらせめて妻と息子の住みたい所に引っ越してあげようと思って。それで決まったのが北海道なんですよ。でも当時息子はまだちっちゃかったんで、主導権は妻が全部握ってたんですけど」

これまたスタッフ一同の笑いを誘いました。母親が思い出の地が何々と言っています。

「好きですよ、今の家。冬はむちゃくちゃ寒いけど、ずっと西に暮らしてたから温かい気候に慣れてるんですよね。だから極寒の地に暮らしてると見えてくる世界も変わってくるっていうか。…まぁ、ほとんど家にはいませんけど」

これまた(略)。母親があたしの身体で温めて何々と言っています。

「今、煎御谷さんが一番したい事はなんでしょう?」
「んー。色々あるけど、やっぱウチに帰りたいですね。ここ一年帰れてないんで、一日でもいいから暇を作って家に帰って。あ~、コタツでゴロ寝したいなぁ」
「では、そのご家族に向けなにかお一言どうぞ」

剛は身体ごとカメラ目線になって、

「美緒~、花火~、近い内に帰るからな~。塩辛用意して待っとけよ~」

剛は最後に軽く手を振りました。母親はテレビをがしりと抱きしめながら塩辛もいいけどあたしも何々と言っています。

「では最後に、煎御谷さんにとって"グローバルワーク"とはなんでしょう?」
「んー。自分の特技を活かして世界の人々のために仕事ができるって素晴らしいと思うんですよ。だから、そうですね…。ありきたりだけど、『生きがい』、かな」

そこからテクノチックなBGMがフェードインし、画面もインタビューシーンからオープニングと同じようなVTRが流れ、さらにナレーターの声が入り、そして最後にコーナー定番のナレーターの決め台詞。

『彼もまた、世界を股にかけた偉人である』

画面は朝の情報番組のスタジオに戻りました。

「あぁ~ん! こんなオヤジいいから剛さんもっと出してもっと見せてぇ~!」

テレビの両端を持ってグラグラと揺する母親。

「ちょっ、コラ、テレビ壊れてまうて!」

花火に言われて揺するのはやめましたが、は~ぁと一つ溜め息が出ました。

「おとん好きなんはええけど、ちったぁ自分の歳考えぇな」
「愛に歳なんか関係ないの!」
「そろそろ帰ってくる言うとったんやし、気長に待てばええがな」
「…う~」

まるで駄々っ子が親にあやされるように、しかし実際は子が親をあやしていました。そして母親は、スリッパを履いたまま絨毯の上を歩いている事にも気付かず、さっきのハイテンションはどこへやら、しょんぼりがっくりして台所に戻って行きました。う~、と言っています。

花火は椿に向かってしかめっ面、しかし左手は母親を指差しています。イヤミです。

しかし、しかめっ面をされた椿は、未だに状況を把握できないでいました。インタビューの話を聞いて北海道に越してきた理由や剛の仕事の内容をある程度知る事はできましたが、やはり肝心の、母親のちょっとの違和感と花火の大きな違和感の原因はわかっていません。無理にわかろうとすると頭がこんがらがるので、椿は半分ヤケになってみかんをもぐもぐ食べていました。

「ん。そろそろ出んとアレか」

花火がカップに注いであったホットミルクを飲み干して立ち上がりました。これは出かけるぞという合図でもあり、椿は気付きながらも何故か慌てて立ち上がりました。花火は台所で軽く口をゆすいでから防寒用のコートを着て、

「行くで」

椿はこくっとうなずきました。二人はリビングを出て(椿は母親に軽く会釈をしましたが、反応がありませんでした)、玄関で靴を履いて外に出ました。外は相変わらずの銀世界。雪も降らず、風もなく、空には昇りかけの太陽光が満ちています。

二人は、駅に向かって歩いていました。

「…花火くん」
「ん?」
「あの…」

何だか言いにくそうな椿。

「なんや。言うてみ」

強迫ではなく、優しく促すように花火は言いました。

「えとね…」

少し間を置いて、

「花火くんのお父さんって…、有名人?」
「へ?」

いきなりの驚くような質問に、花火は思わずふ抜けた声が出てしまいました。親指で頭をポリポリと掻きながら、

「ま…、まぁ、有名じゃなくはないんちゃうかな。よぉ知らんけど」
「でも、さっき、テレビ…」
「出とったな」

そこから花火の言葉が続く事はなく、

「…うれしく、ないの?」
「去年も出とったし、別に嬉しないけど」

今、花火が言った一言を、椿は聞き逃しませんでした。

『去年も出とったし』?

ごくごく一般人である椿には、ものすごく衝撃の強い一言でした。どこかの地方の名物おじいさんとか名物おばあさんとかが別々の二局から大きく時間差を置いてインタビューをされたのならまだわかります。でも、花火の父親・剛はどう見たって名物でもなければちんどん屋でもなさそうだし、さっきのインタビューを見た限りでは生粋のエリート海外商社マンにしか見えません。そんな情報番組とは縁のなさそうな彼がこうして取り上げられるとあれば、彼の仕事の重要さは相当なものなのかもしれません。と、椿の推測です。

「去年も…?」
「んぁ」
「何に…?」
「番組と番組の間にやる五分くらいのヤツ」

そういえばそれぐらいの短さで剛が出そうな番組があった気がする、と椿は思い出していました。

ふと、椿は思いました。そして、先ほどまで胸の奥で残り続けていた二つの違和感が、綺麗サッパリ消えてなくなりました。母親のちょっとの違和感と、花火の大きな違和感。じつはどちらにも共通点があって、その共通点をさっき花火が明かしてくれたおかげで、謎が解けたのです。

花火も母親も、テレビで剛を見たのは初めてではなかったのです。

だから母親には熱狂の中にも何か欠けているのを感じたし、花火には普通の人なら当然するであろう反応の欠落を感じたのです。それもあの感じだと、去年よりもっと前からテレビに何度か出ているようです。

大きな大きな違和感が消えてホッとした椿は、思わず顔がほころんでしまいました。

「すごい人、なんだね…」
「みたいやな」

また椿はふと、思いました。父親の話になると、花火はどうも他人事のような素振りを見せるのです。『ちゃうんかな』とか『みたいやな』とか、実の父親に使うような抽象表現ではありません。

「ねぇ」
「ん?」
「なんでお父さんのこと、みたい…、とか、たぶん…、とか、言うの?」
「あー…」

花火はまた親指で頭をポリポリと掻いて、

「別に、深い意味はないんよ。一緒に暮らしてへんからよく知らんだけ」

父親の事なのに、よく知らない。一緒に暮らしていないとは言えあんまりです。

「電話したり、お母さんとそういう話ししたりは…?」
「電話は絶対おかんが出るしおとんが替われ言うてもおかんが絶対替わろうとせぇへんし、おとんの事話したりもせぇへんな」
「なんで…?」
「ん~…。話す理由がないっちゅーか」

椿としては、一国一城の主であり大黒柱である父親に対する待遇が冷た過ぎやしないかと、他人事ながらちょっと不安になりました。

「もっとお父さんのこと、労わってあげなきゃダメだよ」
「労わろうにも本人おらへんもん」
「…せ、せめて、その…、どういう仕事してるのか知る、とか、たまには電話する、とか…」
「ンな細かい事ワイがするかいな」

花火は鼻で笑ってあしらいました。椿も椿で納得してしまったり。

「ウチのお父さんは普通のサラリーマンだから、花火くんのお父さんみたいな人はすごいと思う」
「まぁ、確かにワイもすごいとは思うけどな。フツーのサラリーマンの方が良かったわ」
「…どして?」

少し間を置いて、花火は小さな溜め息と一緒に、

「ちゃんと毎日帰ってくるやないか」

刹那、椿は思わずドキッとしてしまいました。

だってまさか、あの花火に『哀愁』を感じるなんて。

花火が言ったセリフとその時の表情が、花火らしくないどこかもの悲しい雰囲気だったのです。今までの長い付き合いでも見たことがなかった花火の一面を垣間見て、椿はついつい赤面してしまいました。それを見た花火はいつものふんなりした花火に戻り、赤面する椿にちょっかいを出したのは言わずもがな。



『蝦夷大前ー、蝦夷大前ー』

いつもの順路でやってきた二人は、駅を出て駅前通りを大学に向かって歩いていました。そして、十分ほど歩き進め、道幅が一般道と等しくなってきた頃、後ろから走ってきた男が通りすがり様に振り向いて、

「よっ」

反射的に花火も、

「おす」

男はそのまま走って行きました。

「えと…、植田くん?」
「そ。植田クン」

その植田 勇一が通り過ぎていったということは、次に来るのは―

「やっ、お二人さん♪」

後ろからやってきた冴希 温子は、走ってきた勢いのまま二人に飛びかかり、二人の肩に背後から腕を回すようにして抱きつきました。いわゆる"両手に花"の図。

「お、おいコラ冴希、離れんかい!」
「おはよ、カメちゃん」
「おはよ」

花火の声を無視して、椿と温子は朝の挨拶を交わしました。

「おいコラ冴希聞いとるんか!」
「はいはいわかったわかった」

温子は茶化しながら二人から離れました。椿は慣れっこでなんともありませんが、花火は何だかむずがゆそうにして、ズレたコートを整えていました。

「カメちゃん、今日はオッケー?」
「あ…、んと…」

今日の午後は特に予定が入っていない椿でしたが、一応確認のために花火を一瞥してみました。案の定ブスッとした顔をしていましたが、こちらの一瞥に気付いていないようなので、

「だいじょぶ」
「よしっ、じゃあカラオケ行こ!」
「えー…」

椿はあからさまにイヤな顔をしました。

「えーじゃないの、いつまでも恥ずかしがってたら喉が潰れちゃうよ?」

それは唄い過ぎてなるものじゃなかったか、と椿は思いました。

今まで椿は何度かカラオケに誘われた事はありましたが、もちろん全て断ってきました。例えバラードであろうと演歌であろうと、人前で一人で唄うなんて恥ずかしくてできっこないのです。雰囲気に乗っちゃえば後はイケイケだと温子は言いますが、イケイケと言われても椿はイマイチ想像がつきません。

「別に唄わなくてもいいし、あたしがおごったげるからさ。ね?」
「…考えとく」
「うん。いい返事、期待してるよ♪」

温子は笑顔で椿の肩をポンポンと叩いて、ついでに花火に小さくあかんべーをしながら手を振って、走って先行して行きました。

「椿がカラオケなぁ…」
「…ムリ」

椿は二言で断言しました。



いつも通り校門で警備員に挨拶をしてキャンパス内に入った二人。まっすぐ進んだ所にある円形の十字路広場で、二人は立ち止まって向き合いました。

「ほな、またな」
「また…」

二人は軽く手を振り合いながら、花火は東へ、椿は西へ、それぞれ別の方向に歩いて行きました。



二人はそれぞれ授業を受け、二限目終了の時刻を迎えました。

「煎御谷」
「…」
「煎御谷、起きろ」
…へ

ぐっすり眠っていた花火は、勇一に起こされて現世に戻ってきました。

「あんまり寝てばっかいると単位落とすぞ?」
「ん~…? まぁ、なんとかなるやろ~?」

勇一は呆れてそれ以上何も言いませんでした。

「煎御谷、三限も入ってるよな?」
「ん」

現世には戻ってきたけど、身体は机に突っ伏したままの花火。

「俺、この後暇だから、一緒に行ってもいいか?」
「…珍しいな。えぇよ、別に」
「どーも」

しかし、花火は何か引っかかるポイントがありました。

「植田」
「なにかね?」
「まっさか思うけど、椿目当てちゃうよな?」

直球ど真ん中の大図星を突かれた勇一は身体がつい反応してビクッとしてしまいましたが、鈍い花火はそれに気付いていないようなので、どうにかごまかそうとしました。

「な、何を失礼な。俺はただ、その、冬さんの煎御谷起こしの手間を省いてやろうとだな、」
「…ホンマか?」

疑惑の念をかけられてもなお冷静に対処し、

「ホ…、ホンマだ」
「…まぁ、ええか」

この時勇一は、花火が鈍感なことにつくづく感謝しましたとさ。



一方、椿。

「あ~終わった終わった、今日の授業はおーしまいっと」

温子が大きく伸びをして、学生の仕事から解放された事の喜びを味わっています。

「カメちゃん、この後も入ってるんだよね?」

椿はこくっとうなずきました。

「どうせこの後遊ぶんだし 他で待ってるのもなんだから、ついてってもいい?」

椿は少し考えた後、

「花火くん、いるけど…」
「あぁ~いいのいいの、いないと思えば空気みたいなヤツだから」

ひどいような、サバサバしてるような。椿はちょっと笑ってしまいました。

「OK?」

椿はこくっとうなずきました。

「よしゃ、そうと決まったら早速ゴー!」
「わわわっ」

カメちゃん…もとい、椿と遊べるからか妙にテンションの高い温子は、このあとの講義の主役であるはずの椿をぐいぐい引っ張って、まるで自分が受ける講義に椿を無理やり連れていくような立ち振る舞いです。椿はだいぶ困り顔。



花火&勇一は中央十字広場を目指して、椿も中央十字広場を目指して歩いていました。



「あれ、冬さんじゃないか?」
「ん~? …ホンマや」

花火&勇一の前方に、一人で歩いてくる椿の姿がありました。次に受ける講義の講堂は、椿側から見れば中央広場を迂回するよりも別のルートを辿った方が短縮になるはずなのに、と花火は思いました。

「なんでやろ」

花火はひとりごちました。

やがて三人は、中央広場の真ん中で合流しました。いつもなら嬉しそうな笑顔を見せる椿も、今日ばかりは花火の傍らにいる、花火よりも身長がでかくて毎朝花火に挨拶をする人が気になって、笑顔どころではありませんでした。

「ああ、あの、は、はじめまして、うう植田でぐぇ」

花火は無意識の内に、勇一のわき腹に肘鉄を食らわせていました。悶絶する勇一。

「なんでこっちから来とるん?」
「ちょっと、待ち合わせ」
「待ち合わせ?」

椿がこくっとうなずいて間もなく、椿の後方から、

「おまたせ~」

温子が走ってきました。減速しながら椿のそばに来て、椿の肩に手を当てて停止した後、ハァハァと呼吸を荒くしてヒザに手を突いていました。

「いや~困っちゃった、あそこのトイレいきなり掃除中とか言い出すから他のト―」

温子は喋りながら身体を起こしました。そして温子は、目の前におかしな光景を見ました。走ってくる時は疲れていて頭もハッキリしてなかったし、てっきり花火一人がいるものだと思っていたから、花火の隣にいる長身の男に全く気付いていなかったのです。

その、予期せぬ人物の存在に気付いた温子は、誰もがそうするであろう"初対面の人物の顔の確認"を無意識の内にしようと、顔を上げて男の顔を見ました。

勇一は、いきなり走ってきてハァハァ言いながらトイレがどうのこうの言うちょっと変わってるけど髪型はタイプな女を見ていました。すると女の子が顔を上げて自分の顔を見たので、自ずと勇一も女の目を見ました。

そして、二人は目が合いました。

タンパクな間を二秒ほど空けた後、目を合わせた二人は同時に、

げっ

同じ言葉を発しました。

そっちの二人の妙な反応に、こっちの二人は目を合わせて頭に『?』の字を浮かばせていました。

問題の二人は気まずそうな顔をして目線を外し、少ししてから二人とも同時に、勇一は花火を、温子は椿を掴んでそれぞれ反対方向に勇み足で引きずっていきました。

「な、なんやなんや!?」
「わわわわっ」

平和な二人は何が何だかさっぱりわかりません。

双方とも、十分に距離を置いたところで同時に立ち止まりました。

温子は椿の両肩をぐわしと掴んで、

「ちょっとカメちゃんどうなってんの!?」
「へ…?」
「なんでアイツが煎御谷なんかと一緒にいるのよ!」
「アイツ、って…?」
「他に誰がいるの! 植田よ植田っ!」
「…知ってるの?」
「忘れたくても忘れらんないわよ! だってアイツ、」

勇一は、花火をヘッドロックするような形で抱え込んで耳打ちしていました。

「なぁ」
「なんや」
「なんでアイツがいるんだ?」
「…椿?」
「バカ。冴希だ、冴希」
「へ?」
「なんだよ」
「お前、冴希の事知っとるん?」
「当たり前だ。知ってるも何も、アイツは、」

そして二人は、決して打ち合わせをしていたわけでもないのに、同時に言いました。

「元カレ」「元カノ」

言った刹那、十分に距離を取っているはずなのに二人には相手の耳障りな発言が聞こえた気がして、振り返りました。そしてまた目が合い、二人とも嫌そうな顔をして姿勢を戻しました。

「煎御谷、悪い、俺逃げる」
「え、お、うぇ?」

勇一はこそこそと、これ以上事態を悪化させぬようにとその場を逃げ

逃げんな植田ーっ!!

後方からの猛烈な罵声に勇一は強制的に逃走を禁止され、そのまま硬直してしまいました。顔は引きつり、冬なのに嫌な汗が出てきました。声の主は無論、温子です。

「あーもうなんか腹立ってきた!」

温子はこういう、こそこそひそひそとした状況が嫌いでした。特に自分がその中にいるとなれば余計にです。温子はついに痺れを切らして顔を強ばらせ、ものすごい速さで勇一に向かって歩き出しました。振り向いた勇一(と花火)は反対からやってくる凄まじい殺気に気付き、花火は驚き恐れおののいて勇一を見捨てて走って逃走、勇一はもはや動く事すらできず、じりじりと後ずさりをしていました。勇一の顔はもう、ポーカーフェイスです。

そして、勇一の目の前に何故だかカンカンに怒った温子が立ち、

「行くわよっ!」

勇一に喋る間も与えずに、温子はいきなり勇一の首根っこを掴んで引きずりながら歩き始めました。

「ぅわっ! お、おい、冴希!」
「どうせアンタも煎御谷に付いてくんでしょ!?」
「そ、そうだけどさ、」
「だったらあたしが連れてったげるから、感謝しなさい…よっ!」

温子はさらにスピードを上げ、首根っこをグイと引っ張りました。勇一はぐぇと言ってまた悶絶。

如何ともし難い修羅場の主原因たちが先行している後方で、本来の主役である二人は、中央広場の真ん中でボケーっと先行する二人の後姿を見ていました。

「…元、カレ?」
「元カノ?」

二人は目を合わせて首を傾げて、先行する二人の後姿を見てまた首を傾げました。

二人が講堂に着くと、入って右側の中段辺りに勇一と温子の姿がありました。しかし、勇一は机の左端でぐったり突っ伏し、温子は右端で右を向いて頬杖を突いて座っていました。一体全体なにがなんだか。とりあえず二人は、勇一の後ろを通って机の真ん中、勇一と温子のちょうど中間に座りました。

勇一と温子は終始、その姿勢のまま動く事はありませんでした。中間にいる花火と椿はその、瘴気さえ感じる空気に気おされて講義もまともに受けられず(花火は寝れず)、どうしてこんな所に座ってしまったのかと今さら後悔していました。

講義が終わり、四人は講堂を出ました。

「さぁーてカメちゃん、カラオケ行くわよー!」

温子が不敵さすら感じる笑みを浮かべて言うので、椿は断るに断れませんでした。断ったら何をされるかわかったもんじゃないのです。椿は恐る恐るこくっとうなずきました。

その隙に勇一はこそこそと

「植田くーん?」
「はいっ!!」

植田はついつい脊髄反射的に返事をしてしまいました。

「カラオケ、行くわよねー?」
「も、もちろん!」
「よっしゃ、そうと決まればレッツゴー!」

一人はハイテンション、一人はお先真っ暗、二人は微妙な立場。その四人のグループは、大学の講義を終え、午後の街に繰り出しました。