ピンポーン。
いらっしゃ…
あれ?
客の姿が見当たらない。
…まさか、泥棒!?
と、その時。
「ワンッ!」
店内に、犬らしき鳴き声が響き渡った。
恐る恐る、レジから身を乗り出してカウンターの陰を覗き込む。
…やっぱり犬!
間違いなく犬!
柴犬!
っていうかなんで犬に反応するかなウチの自動ドアは!?
マズい。
非常にマズい。
衛生上の問題もあるけれど、もし万が一この柴犬が店内の食品一つにでも噛み付いた瞬間、防衛できなかった私の責任となり天引きが確定する。
絶対に、この命に代えてでも死守せねばならない。
犬は嫌いではないけれど、今この時だけ、犬を大嫌いになるしかない。
許して柴犬くん、あなたに罪はないけれど、私の命がかかっているの、これはあなたや私の祖先が歩んできたであろう原始的な弱肉強食の法則に則っている、だから恨まないで…!
そろりそろりとレジを出る。
自動ドア入ってすぐの所で余裕の鎮座(おすわり)を見せる柴犬。
こう見えて私、小さい頃に近所の犬を飼い慣らしていたから大丈夫。
…五匹中の一匹がたまたまなついただけだけど。
高音の口笛でなんとなく気を引かせ、相手の目線に合わせるように身を低くしながらゆっくりと接近していく。
中型犬クラス故に、目線の高さを合わせつつ慎重に前進するのはちょっと苦しい。
彼我距離およそ3m。
へっへっへ、と余裕の舌出しをする柴犬。
彼我距離およそ2m。
首輪が付いているということは、おおよそ脱走してきたのだろう。
彼我距離およそ1m。
射程圏内。
ここからなら、首輪を掴めるはず…!
ソフトテニスで鍛えた普通の瞬発力を活かして、
「ていっ!」
私の掌底は空を切った。
危険を察知した犬が掌底を未然に回避、逃走したのだ。
マズい…!
今ので恐怖心を植え付けてしまった。
もはやすんなりと捕まってくれることは有り得ない。
初手をしくじったのも私の責任…。
こうなったら、力ずくで捕まえるしかない!
対岸通路でじとっとこちらを見つめる柴犬。
もう慎重なる接近も叶わない。
私と柴犬の、壮絶な戦いの火蓋が今、切って落とされた!
全力ダッシュで駆け出すと同時に柴犬も走り出す。
さすが四足だけあってスピードは抜群だけれど、人間だって負けてはいない。
犬の肉球に勝るとも劣らない、安物の割に高いグリップ力を誇るスニーカーでコーナーだらけの店内でも速度をほぼ落とさずに曲がることができる。
が、先祖代々大地を駆け巡ってきた種族に木登り族が勝てる見込みはなく、このままでは柴犬のお尻をただ追い掛け回しているだけで終わってしまう。
でも、私たち人類は違う。
今、柴犬が突き当たりを右に曲った。
もし私が猪だったら同じく右折して追いかけ続けているだろう。
それで追いつける自信と能力があるから。
人間には猛る身体能力がない代わりに、余りある頭脳があるのだ。
犬が右折したすぐ先では出入り口の自動ドアにぶつかるけれど、残念ながら逆方向からでは犬は認識されないようで、おのずと犬は通路の続く方、雑誌コーナーに向かうはずである。
至極簡単なことで、反対側で待ち伏せしていればいいのだ。
う~ん、我ながらなんて素敵な閃き!
というわけで待ち伏せ。
棚の物陰に身を隠し、雑誌コーナー通りを駆け抜けてくる柴犬を…
柴犬を…
…
あれ。
来ない?
「ワンッ!」
背後から鳴き声が。
どうやら出入り口にぶつかった時点でUターンしていたらしい。
ま、負け―
いやっ!
人間がこんなことで負けてはいけない!
っていうか、こんなところで負けるな私!
そう、私を唯一負かすことができるのはお金だけなのだから!
なんだかやる気が出てきた。
よし、がんばろっ。
単に追いかけたり待ち伏せたりでは犬の身体能力や五感によって捕まえることは不可能だとわかった。
なら、一層の頭脳を使うまで。
そして今度は道具も使う。
やり方は非常に簡単。
買い物カゴを二つつなげてバリケードを張って袋小路を作り、そこに柴犬を追い詰めればいいのだ!
お店の備品を勝手に、ましてや動物に使うのはマズイと思うけれど、そんなことを言っていられる状態ではないし、こうでもしないと捕まえられそうにないし…。
早速重ねられたカゴを取って隙間のないよう密着させつつ隣接して置き、二つの通路の出口を塞ぐ。
私が追い詰めれば、袋の鼠となった柴犬を捕縛、という作戦。
我ながら、なかなかの名案。
設置が完了したところで幸運にも柴犬が追い詰めやすい位置に移動してくれたので、実行に移る。
「むぁ~てぇ~い!」
いかにもっぽく追い立てると柴犬は俊足を活かして逃走、しかしその先にはバリケードが待っている。
よし、通路に入った!
そのまま立ち止まったところを捕ま―
ガッシャーン!
…。
うそん…。
何もなかったかのように、簡易カゴバリケードを突進で破壊、駆け抜けていった。
は~ぁ…。
途端にやる気をなくして、床にあひる座りでへたり込む。
なにやってるんだろう、私…。
みんなはよく『人間様に犬畜生が勝てるはずがない』なんていうけれど、それは嘘っぱち。
本当は『犬様に人―もとい、私ごときが勝てるはずがない』なのだった。
種族としてのキャリアが違うんだから、勝てないのは当たり前。
犬を飼っている人は、本当は飼われていることに気付いていないだけ。
っていうか、二足が四足に勝てるわけないじゃん!
…こういうのを、負け犬の遠吠えっていうのか。
うぇ~ん…。
などとぐずっていると、
「くぅ~ん」
柴犬がとぼとぼと、恐れることもなく私のそばにやってきた。
なーんだ、怖がっていたのは私の方だったんだ。
柴犬は私の目の前でちょこんとおすわりし、へっへっへ、と舌を出してまぬけ顔。
…プッ。
そばで見ると、結構かわいいかも。
頭をなでるとくすぐったそうにする。
む~。
犬も案外悪くないかも。
もちろん現状で犬なんか飼ってしまった日には私の餓死が確定するのだけれど。
「そうだっ。ちょっと待ってて」
と言って歩き出すと、柴犬も付いてきてしまった。
飼い慣らされているみたいだから、言い方が違うのかもしれない。
「マテ!」
おぉ。
おすわりした。
なんか、すっごく嬉しい…。
柴犬が待っている間に裏手に行き、廃棄の商品を漁る。
そういえばこの前、ちょうどいいタイミングで賞味期限が切れたドッグフードが…あった!
賞味期限は切れているけれど、大丈夫、廃棄で生計を立てている私が一度もお腹を壊したことがないくらいだから、犬が食べたってへっちゃらへのかっぱ。
…私の胃袋が犬レベル、っていう選択肢は廃棄で。
お店に戻ると、柴犬は変わらぬ姿勢で待っていた。
なんだろう、このなつかしいあたたかみ。
お家に帰りを待ってくれている人がいるような。
本気で飼おうかな…。
でも餓死は免れたい…。
柴犬の前にひざ立てで座り、使い切りサイズのドッグフード(ドライ)の袋を開けて少量を手の平に載せ、柴犬の口元に差し出す。
彼(彼女?)はくんくんニオイを嗅いだ後、ペロッとドッグフードを食べた。
おおぅ。
手の平から伝わる舌の感触がなんとも…。
まだまだ食べたそうな顔をしているので、どんどんあげた。
クセになりそう。
いつしかドッグフードは底を尽きてしまい、もうペロペロは味わえなくなってしまった。
「もうないよっ」
頭をなでなですると、くぅ~んと鳴いた。
ダメだ、このまま連れ帰ってしまいそうになる…。
ぎゅう~ってしようかと血走りそうになった時、
ピンポーン。
なんていうタイミングで…。
「ジョ、ジョセフィーヌ!」
小太りでチリチリした癖毛の男性は来店するなりそう叫び、
「ワンッ!」
柴犬がその声に反応して男性に駆け寄っていった。
「心配したんだぞ、おバカッ!」
「くぅ~ん」
…私はいつから迷子センターの係員に…。
ってそれより、ジョセフィーヌって!?