ピンポーン。
不精 髭男さんだ。
いつ見ても同じ服装、同じ髭の長さ。
…まさかこの人、時間止まってる?
そんなわけはないけれど。
髭男さんはすぐさま漫画コーナーに向かい、小難しそうな文庫本を手に取り立ち読みし始めた。
雑誌や漫画ならまだしもコンビニで文庫本を立ち読みとは、もしかして筋金入りの立ち読み好きなのだろうか。
あくまでコンビニに置く物なのでボリュームは薄いが、されとて文庫本に変わりはなく、ヘタを打てば絵だけを読んで流し読みできる漫画とは訳が違うのだ。
前回みたいに読み終えるまで居座るのかな。
まぁ、私は別に構わないけれど。
過度の立ち読み客をホコリ叩きで追い払わずとも監視カメラの録画映像をチェックしないオーナーに怒られるでもない、まして私も立ち読みは大好きなので、まず追い払える立場にない。
しばらく動く様子もなさそうなので、控えでゆっくりとお茶をすすることにした。
用事があったらスイマセンだとか声をかけてくれるだろうし。
控えに入り、よっこらしょ、と腰掛け、
「すいません」
早っ!
お待たせしました、と言いつつレジに出る。
カウンターに置かれていたのは、案の定、先ほど読んでいた文庫本だった。
コンビニに買い物に来て、飲食物以外の商品だけを購入していくのは結構珍しいのだけれど、髭男さんのキャラクター自体が珍しいので特に思うところはない。
精算を終え、書店ではないのでブックカバーもせず、
「袋いいです」
と言うのでテープも貼らずにそのまま渡した。
通例通りこのまま帰るものと思っていたが、なんとなく髭男さんの足取りを目で追っていたら、駐車場のコンクリート製車止めに座り込んで文庫を読み始めた。
そんなにおもしろいのだろうか。
わざわざコンビニで買った小説を、わざわざコンビニの駐車場で読むなんて。
別に、立ち読みしていてもよかったのに…。
暇なのでレジに椅子を出し、なんとなく髭男さんをウォッチしていたけれど、本当にただ黙々と文庫を読んでいるだけでつまらないので私も何か本を読むことにした。
もちろん商品だけれど。
しかも座っているけれど。
立ち読みじゃなくてタダ読みって言おうかな、今度から。
週刊少年バカチンを持ってレジに戻り、座って立ち読みを始める。
期待していたナイトブロードウォーカー戦記は作者の都合により休載、バイトを休みたくなるほどガッカリした。
でも他の連載作品もそれなりに楽しみなので、まだ読んでいなかった漫画を読み進める。
今読んでいる『必殺!税理士仕事人』は、ナイトブロードウォーカー戦記ほどではないけれど十分に中毒性がある新鋭の作品。
難しい税理士の世界を個性的なキャラクターが馴染みやすい言葉で解説してくれるし、税務と全く無関係の部分の展開もしっかりと描き込んでいて、誌上ランキングは右肩上がりのようだ。
特に主人公のライバルの外国人、シューベルト・クラウザーはその"鼻に付かないキザな性格"が少年誌なのに女子に大人気らしく、そちらの世界では神にも近いレベルで崇められているのだとか。
私はあんまり好きじゃないかな。
どちらかというと、寡黙だけれど熱血漢な主人公の方が、
なんて考えていたら、今週の回が終わってしまった。
ナイトに次いで来週が楽しみだ。
次の作品は『アネゴとの暮らし方』。
絵はいいのだけれど、内容はあまり私には合わないカンジ。
ヤクザさんの屋敷に転がり込んだ気弱な高校生が、そこの嫁、いわゆる極妻に見初められて団員にさせられてしまうという―
「すいません」
―ハッ。
「あっ、ハイ!」
ふと気が付くと、寝てしまっていた。
開いたバカチンを枕にして、突っ伏してぐっすりと。
最近レポートの量が多くて、バイト中に片付けてしまおうと考えたこともある。
それはさておき。
飛び起きた私は、依然無表情の髭男さんと目が合い気まずくなる。
うつらうつらしていたのならまだしも、商品の雑誌を枕にして居眠りぶっこいていたのだから客からしたら何様かと言われても致し方あるまい。
「た、大変失礼しましたっ!」
オーナーに怒られている気分になりペコペコと謝るが、
「いえ。会計、お願いします」
と言われて初めて、カウンターにアクエリアスと150円が置かれていることに気付く。
「す、すいませんっ」
バカチンを椅子の上にどかし、慌てて精算を済ませ、髭男さんは何事もなかったかのように店を出てまた座り込み、小説を読み始めた。
あ…、焦った。
レポートの提出期限も大事だけれど、やっぱり睡眠不足は危険だと改めて痛感した。
仕方がないのでレポートをぞんざいに片付けて、たっぷりと睡眠時間を取ろう。
…ところで今頃気付いたのだけれど、どうして髭男さん、また買い物に来ていたんだろう?
外で読み物をしていたら喉が渇いたのかな。
居眠りしていた背徳感から猛烈に焦っていたから隠れてしまったが、内心驚いていた。
あ、でも考えてみれば髭男さん、そう簡単に一回で帰ったことはなかったっけ。
特に驚くこともなかったのかもしれない。
っていうか私、チャイムですら起きなかったんだ…。
居眠りしていたところに一気に神経を集中させられたのでどっと疲れた。
足の力を抜いて椅子にドサリと座り込もうとすると、お尻に違和感を感じた。
あぁ、そういえばさっきバカチンをどかして椅子の上に置いたんだった。
やや腰を浮かせてバカチンを抜き取り、座り込んでバカチンをカウンターへ、途中だったページを開いて私も読書を再開した。
うーん。
こんなんでいいのだろうか、コンビニのバイト…。
あ。
お茶を飲み逃していたのを忘れていた。
さっきのゴタゴタで喉も渇いたし…。
というわけで、控え室で淹れたお茶をレジに持ち込み、茶をすすりながらの読書は続く。
控え室に雑誌を持ち込むという選択肢もあったけれど、さすがに未購入の商品を裏手に持ち込むのはマズイ気がしたのでやめた。
客に見られる分、レジでお茶を飲む方がマズイ気もするけれど、眠いし疲れてるしどうでもいいや。
連続で居眠りするのは大冒険にも等しいので、コーヒーよりカフェインが豊富なお茶(緑茶です)を半ば暴飲する。
カフェインを摂取して睡魔退散につながったことはまず滅多にないのだけれど、今は仮にも仕事中だし、なのに暇だし、藁にもすがりたい気分である。
いっそ猫の手を借りて顔を引っかいてもらって目を覚ましたいくらい。
地味に痛いらしいから遠慮しておくけれど。
あ、そうだ。
この前お店に来た近所のおばさんにもらったお菓子があったっけ―
お菓子をいただき、お茶を三杯飲み干し、途中お手洗いにも行きつつ、バカチンを読み終えてしまった。
こんなに暇でいいのだろうか、と軽い罪悪感すら覚えてしまう。
バカチンを棚に戻し、レジの椅子に座って何するでもなく店内を見渡す。
本当にレポート持ち込みでやろうかなぁなどと思索していると、視野の端に、まだ外で小説を読んでいる髭男さんの背中が見えた。
かれこれ小一時間は読んでいるはずだけれど、先ほどから彼の背中は一様に変化していない。
頬杖を突いて、なんとなくその姿を観察してみる。
とにもかくにも第一印象は『猫背』。
くたびれた風貌にピッタリなのがおもしろいやら不思議なのやら。
極度の猫背はおばあちゃんの腰曲がりを連想してしまうけれど、彼のそれは本当にくたびれ猫背であり、見ている私も猫背になってしまいそうだ。
全然、肩に力が入っていないカンジがする。
言い換えれば、無駄な力が入っていない。
イイ感じに脱力している。
あんな風に脱力している時間が、私にはあっただろうか。
バイト終わりのお風呂を除けば、睡眠時間以外はほとんど大学とバイトで埋まっているし、自宅でカールを食べながらDVDを鑑賞することもない。
そもそもそんな贅沢な環境はないけれど…。
ゆったりと、まったりと、悠々自適に自分の好きな時間を過ごす、そんなちっぽけでも素敵な時間が、今の私にはないのだと今さらになって気付かされた。
別段今の生活を苦に感じたことは(金銭面以外で)ないけれども、さして幸せと感じたこともない。
大学は将来の為、バイトは生活の為、睡眠は生きる為。
じゃあ、人生を潤す時間は?
何かを忘れてしまっている気がする。
人間観察ができるバイトは楽しいし、友達のいる大学生活も楽しい。
けれど。
何かが、足りない。
その足りない何かを彼が持っているように思え、私は思わず羨望の眼差しを向けていた。
と、髭男さんはレシートをしおり代わりに挟み、おもむろに立ち上がった。
ようやく帰るのかな。
だが、一筋縄で帰る髭男さんではなかった。
三度入店、お腹が空いたのかサンドイッチを持ってカウンターに置いた。
いつまで読んでるんですか、なんて訊けないし、軽食を摂るということはまだまだ延長するのだろうし。
あぁでも、これだけ長時間店の内ないし外に滞在していれば、向こうだって多少は何か意識しまっている面もあるはずで、決して咎めるわけではないけれど、何かそつなく言っておいた方がよかろうと思った。
精算を終え、本来なら『ありがとうございました』というタイミングを置き換え、
「あのー…」
「はい」
「おもしろい、ですか? 小説」
「すいません」
「あっ、いえ! 怒ってなんかないですよ、全然!」
やっぱり意識していたらしい。
だったら自宅に帰って読めばいいじゃない!
「はぁ。まぁまぁ、おもしろいですけど」
「そ、そうですか…」
ここで話が途切れる。
途切れたからなんだっていうものではないが、一応こちらから口火を切ったのだし、オチもなく話を終わらせてしまうのは無責任だと勝手な自責に走る。
「ど、どういう内容なんですか?」
「世界中を旅していた剣術に長ける自堕落なフェミニストが主人公のスペクタクルSFファンタジーですが」
「は、はぁ…。おもしろそう、ですね」
正直、全く意味のわからない解説だったけれど。
また途切れる。
いけない、何かオチをつけないと。
「な、何ページくらいあるんですか?」
「読み終わってないからわかりませんけど、200ページくらいかと」
「は、はぁ、なるほど」
ここで『少ないですね』なんて言ったらますますオチがなくなるが、しかし他に返す言葉が見つからない。
話しかけない方がよかったかな…。
「いいですか」
続きを読んでも、と髭男さんが言外に語る。
「あっ、すいません、引き止めちゃって…!」
髭男さんは軽く会釈して店を出て、車止めに座り文庫本を開いた。
はぁ…。
今のでまたどっと疲れてしまった。
やっぱり疲れてるのかなぁ、到底カフェインなんぞではごまかせそうもない睡魔がビッグウェンズデーの如く押し寄せてくる。
いいや、我慢は身体に良くない、そう割り切ってまたカウンターに突っ伏して目を閉じる。
ぐるぐると、睡魔が脳を埋め尽くしてゆく。
お客さんが来たら、お客さんに起こしてもらえばいい。
いっそ『起こしてください』とかメモ書きしておけばいい。
もう私の眠りを妨げられる者などいやしないのだから―
ピンポーン。
早っ!
早速の妨げに飛び起きると、半分案の定、髭男さんだった。
「貸します」
レジに来るなり、持っている文庫本を私に向けて差し出しながら彼は言った。
…え?
「…え?」
思った言葉がそのまま出てしまった。
「まぁまぁ、おもしろいですから」
凝視していないとわからないほどだったけれど、彼はずいと差し出す手を更に私に近付けた。
「は、はぁ…」
だいぶ困惑気味に文庫本を受け取ると、髭男さんは足早に退店していった。
いや、ちょっとこれ、カバーもテープもしてないから、商品と疑われるんですけど…。
とか言いながら、私は椅子に座って1ページ目を開いた。