「お疲れ様でーす」
 引き継ぎの者への挨拶を済ませ、遠田は裏口から外に出た。
 未だ深い紺を見せる空は、しかし西に進むにつれて白んでいくグラデーションが、これから昇るであろう朝日の眩しさを期待させた。
 遠田はぐっと伸びをして、早朝の澄んだ空気を味わう。
 肩よりも長く伸ばした黒髪を一つに結ったポニーテール、白いインナーにグレーのロングパーカー、紺のジーンズと、遠田曰く『普通の格好』らしい。
 さらに曰く、スニーカーやトートバッグを除けば全身でも総額五千円に満たないという。
 住宅地というほどでもない一戸建てが点在する路地を、自宅に向けて歩き出した。

 自宅の二階建てアパートに着く頃には、西方の白空に赤が混じり始めていた。
 道すがら、うつらうつらと電柱にぶつかりかけた遠田だが、昇る朝日の眩しさでなんとか目を覚ましたのだった。
 お世辞にも豪邸とは言い難い築数十年のいわゆるボロアパートが、遠田の現行の住処である。
 早朝故、音を立てぬようスチールの階段を慎重に上り、脇から五つほど数えたドアの鍵を開錠して、
 「ただいまー」
 ボリュームを落として帰宅の挨拶をした。
 遠田は独り暮らしだが、寂しさを紛らわすためらしい。
 外観からの予想通りといった狭く年季を感じさせられる室内だが、仮にも主が女子大生であるためにそれなりの清潔感はあった。
 だが、女子大生ならではの華やかさはそこにはない。
 生活に必要な最低限の家具しか置かれておらず、CDラジカセもヘルスメーターもアロマセラピーもない。
 部屋の中央に置かれた足の畳める正方形のちゃぶ台が、ことさら質素感を強めていた。
 帰宅早々部屋着―中学校時代の体操着―に着替えた遠田は、狭い浴室の浴槽に駆け込み、温度調節の後、湯を張り始めた。
 蛇口から滾々と迸る湯が、浴槽に放り込まれた大量の嵩増し用ペットボトルにぶつかりダバダバと音を立てる。
 湯が入る若干の隙間を空けて浴槽にフタをし、
 「よしっ」
 抜かりないことを確認して居間に戻った。
 ちゃぶ台脇に据えられた座布団に正座で座り、すでにちゃぶ台に置かれていたノートを開く。
 表紙には『出納帳』と書かれていた。
 家計簿である。
 レシートの有無に関わらず一日の収支を記憶している遠田は、視線を右上に向け、シャープペンを顎にトントン当てて記憶を探っていた。
 元来財布の紐が固い遠田は金銭の出も入りもそう多くはないはずだが、実収入・実出費と齟齬がないよう念入りに確認しているのだ。
 万が一記憶の抜けや勘違いで帳簿と差額が発生した場合、雑益なら大いに結構だが、雑損は致命的である。
 雑損を補填するほどの余裕が遠田にはないからだ。
 例え一円でも間違いがあってはならない。
 気分は会計士さながらである。
 一日の収支を記録し、合計額を算出して記入、遠田は倒れ込むようにちゃぶ台に突っ伏した。
 大きな溜め息を一つ、
 「足りない…」
 予算を超える額面を嘆いた。
 遠田の一日の支出は一般大衆のそれと比較した場合、健康あるいは神経を疑われるほどのロープライスだが、それでも遠田にとっては『足りない』らしい。
 現に過去、家計簿で支出が予算以内に収まったことなど一度もなかった。
 予算というものは現在の収支を考慮して計算するものであり、無鉄砲に低予算で組めば良いわけではなく、そういった面で遠田は会計士というよりは節約家に向いている。
 「どうしよ…」
 突っ伏したままもう一度溜め息。
 そして突然起き上がった遠田は、こんな見ているだけで憂鬱になるノートを眺めて溜め息つくなんてお金にならないことはやめようと言わんばかりにノートを叩き閉じ、壁際にあるブックエンドだけで構成された簡易本棚に立てかけた。
 正座の姿勢から手を突いて身体を傾け、やや遠い位置にあったトートバッグを取る。
 中から筆箱(小学校中学年から使っている)とルーズリーフ(大半が友人からのお裾分け)を取り出し、ちゃぶ台にセッティングした。
 溜まったレポートを片付けていた。
 いくらドの付く貧乏であるところの遠田でも、本業は大学生である。
 生活のために勉学を削っては本末転倒も過ぎている。
 どちらかと言えば勉強好きで、義務的なレポートも嫌いではないのだが、生活のためやむなく短時間で片付けねばならず、短く偉そうな内容にまとめる効率重視型になるのは自然だった。
 しばらくルーズリーフと睨めっこした後、おもむろに立ち上がった遠田は浴室に向かい、浴槽の様子を窺った。
 大きく嵩増しされた浴槽に湯が溜まるのは当然ながら早かった。
 準備時間等も考えればちょうどよい水量である。
 入浴の準備を終えた遠田は、風呂椅子に座り髪を洗い始めた。
 肩以上ある長い髪全体に泡を巡らせるにはそれなりのシャンプー液が必要で、節約になっていない。
 節約するのであれば、シャンプー液が少なくて済むショートヘアにすべきである。
 しかしそうしない遠田には、どうしても譲れないこだわりがあった。
 遠田は生活のため、これまで数多のプライドを捨てて生きてきた。
 廃棄の弁当を拝借するようになり、洗濯の回数を減らし、ダイソーに頻繁に訪れるようになり、洋服のパッチワークも上達し―
 このままだと私、女ではなくなってしまうのではないか。
 遠田は怖くなったのだ。
 色々なものを捨て、いつか女であることも捨ててしまうのではないかと。
 ロングヘアは女であることの証、一種のお守りでもあった。
 ただ、こだわっているのは長さに限っての話で、質に関してのこだわりはなく安物のシャンプーである。
 シャンプーとリンスを済ませ、身体を洗い終えた遠田は浴槽に浸かった。
 勢い良く飛び込んで湯を溢れさせるわけにはいかず、波紋すら立てないような慎重さだ。
 ステンレスの浴槽にペットボトルがゴンゴンと当たり、低音は壁を通りやすく近所迷惑になるため、遠田はいつも大量のペットボトルを抱き締めて温まっている。
 このひと時が、遠田にとって唯一心が休まる時間だった。
 レポートも忘れ、貧乏も忘れ、ストレスも忘れ、ただただぬくもりに包まれるひと時が、幸せだった。
 たまに猛烈に眠たくて数分舟を漕いでしまうこともあるが、貧富無関係に命を落としてしまう可能性があり危険だ。
 さらに長湯は風邪を誘発してしまいやすいらしく、程よく身体が温まったところで遠田は風呂を上がった。
 身体を拭き、ドライヤーは電気代が掛かるためタオルを巻いてタオルドライしている。
 下着を替え、先ほどの体操着に着替え、ちゃぶ台を畳んで押入れから布団を出し敷いた。
 未完のレポートが残っているが、まぁいいや、と遠田は布団に潜り、気持ち良さそうに目を閉じ夢に落ちていった。



 遠田の部屋にある時計はゼンマイ式である。
 電池式は電池が切れたら交換せねばならず、もったいないからだという。
 旧型にも関わらず目覚まし機能が付いており、遠田にとって手放せない存在となっていた。
 昼前に起きた遠田は布団を押入れにしまい、顔を洗って出かける準備を始めた。
 ジーンズを履き、キャミソールにシフォンパーカーを羽織り、髪をポニーテールに結う。
 無論、総額五千円未満である。
 着替えを終えた遠田は化粧を始めた。
 いくら貧乏とはいえ化粧をしないのはマズイ。
 女を捨てるとか捨てない以前に、マズイ。
 女性、特に若い内は顔を見られるという意識があり、より自分を高めるためというのも動機の一つだが、それ以上に遠田は自身の接客業としての意識が強い。
 そりゃあかわいい店員がいた方が少なからず集客率は高いだろう、という単純ながらも重要なプロ意識が、遠田は教わらずとも身に付いていた。
 さらに曰く、普通な私は無駄な足掻きだけれど、とのこと。
 諸々の準備を終えた遠田は、トートバッグを肩に掛けて家を出た。
 大学までは自転車で四十分掛かる。
 多くの学生は電車を利用しているが、遠田は単に節約のためである。
 距離こそ駅にして数駅だが、およそ四年分の定期代は馬鹿にならない。
 自転車通学なら節約にもなるしダイエットにもなるという。
 しかし、遠田の体格ではダイエットの必要性はほとんどなく、かといって無理なダイエットは費用が嵩む上に体調等様々なデメリットが伴うため、本人も"太らないための軽い運動"程度にしか考えていなかった。
 しかもその実、遠田の体重は平均をやや下回っている。
 平均体重、つまり普通でありたい気持ちは山々だが、節約のためにはやはり食費を削るのが手っ取り早かった。
 身長は普通なだけに、普通でありたい気持ちと太りたくない気持ちの葛藤が日々続いているのだった。

 大学の正門前に到着した頃の遠田の空腹度は限界に達しており、自転車を降りて駐輪場まで転がしている際の歩行速度は競歩選手のそれを凌駕していた。
 余談だが、遠田愛用の自転車はいわゆるママチャリで、中学生時代からの馴染みである。
 故障しても部品が壊れても自転車屋には持ち込まず、不器用ながらも父が修理してくれた情深い一台だ。
 さすがにガタは来ているが、毎日の通学に耐えているのだから日本製は侮れない。
 近年の中国産の大量生産品も手頃で悪くはないが、物を大切にする精神を鍛えるという点では、割高でも丈夫で長持ちする国産の製品を選ぶべきだろう。
 と頭の中では思っている遠田だが、現実は厳しかった。
 ダイソーは、安い。
 その現実は揺るぎなかった。
 ちなみに今でも自転車は時折故障するが、父を見習って自分で修理するようにしている。
 幸いにも部品破損には見舞われていないが、もし破損してしまったらホームセンターで部品を調達する資金もなく、途方に暮れるしかない。
 実家から持参した5-56だけが頼りなのだった。
 自転車にしかと施錠した遠田は目立たない程度に小走りで食堂に向かう。
 小奇麗になった大衆食堂といった雰囲気の学生食堂には数多くの学生で溢れていた。
 いつもはもう少し早く到着し、比較的空いている内に有り付けるのだが、今日は不運にも信号に引っかかりまくった遠田だった。
 仕方なく食券機の列に並び、カウンターの列に並び、この食堂で最も安いメニュー、うどんを手に入れた。
 トレイを持って食堂内を歩いていると、名前を呼ばれ、声のする方を向いた。
 友人の由莉が手を振り、友人の真紀が手招きをしていた。
 うどんがこぼれない程度に慎重に駆け足で手招きに応じ、陣取ってくれていた丸テーブルの椅子に座る。
 「遅かったねぇユーユー」
 真紀がスパゲッティをすすりながら言う。
 「ごめんごめん、信号やたら引っかかっちゃって」
 「それは災難だったなぁ」
 カツ丼をがっつく由莉。
 遠田はいつもこうして、昼食ついでに友人と落ち合っていた。
 割合学生数の多い当大学において、空席の確保は非常にありがたみ深い。
 食堂の混雑解消を目的として食堂の拡張、あるいは第二食堂の増設等の案は過去に幾度となく示されたが、大学上層部は、なんだかんだ言いながら大きな問題も起きていないことや、少子化による今後の新入生減少を懸念として渋面の構えだった。
 無論学生側の言い分もある。
 問題が発生していないのは、食堂を利用する学生一堂、ひいては食堂のおばさんたちの努力あっての賜物であり、手放しに安全が確保されているわけではない。
 少子化云々の話はわからないでもないが、それでは過去、新入生が増加傾向にあった最中に今後の混雑を予想し、対策を講じることも可能だったのではなかろうか。
 弁論部は熱く語るが、安くておいしいからいんじゃん、と大半の学生は納得していた。
 遠田が食堂を好んで利用する理由は、味も然ることながらその安価が気に入っているからである。
 手軽で、しかもおいしいうどん(ここ数ヶ月うどん以外は注文していない)が有名チェーン店よりも安く頂けるのだから、遠田でなくても利用しないはずがなかった。
 問題の混雑も手早い友人が毎日しっかりと席を確保してくれているし、至れり尽くせりだ。
 持つべきものは友と金だなぁ、と遠田は切に思っていた。

 遠田は午後からの登校という変則スタイルのため、午後の三限の内二限は平常授業、残りの一限は定時制の講義に出席している。
 全日・定時を跨ぐなど本来有り得ないことだが、物は試しと教授に相談してみたところ、やってる内容は変わらんからいいよ、と言われたらしい。
 そして今は、三限目の講義である。
 友人二人とは学部こそ一緒だが常に講義が同じになるとは限らず、由莉と一緒だったり真紀と一緒だったり独りだったりする。
 故に、三人が一堂に会したのは単なる偶然だった。
 「ねぇちょっと聞いてよー」
 どちらに言うでもなく真紀が言った。
 講堂の長机に、対面して左に由莉、真ん中に真紀、右に遠田が座している。
 「昨日弟が勝手にあたしのファンデ使いやがってさ~」
 「えぇ!?」
 遠田が驚きの声を上げた。
 「弟って、男の子だよね?」
 「そりゃあ、弟ってくらいだからねぇ」
 「ビジュアル系の人?」
 「んにゃ、一般人」
 「…もしかして、あまりの貧乏に私だけ時代の波に乗れてない?」
 不安げな顔の遠田に、由莉がフォローを入れる。
 「まぁ、男の化粧はまだまだ珍しいよ。優の波は普通だって」
 普通の二文字に爽やかな感動を覚えつつも、遠田は納得し切れないでいた。
 「でも、なんで化粧するのかな?」
 「そりゃあ、モテたいからっしょ」
 「化粧なんかしなくたって、魅力的な人は十分魅力的だと思うけど…」
 「まぁね。でもさ、少しでも"確率"を上げたいのは男も女も一緒っしょ?」
 なるほどそれはわかりやすい、と遠田は納得した。
 「年頃の男だし、青ヒゲ隠したいとかそんなんだと思うんだけどさ、ファンデくらいダイソーで買ってこいってのッ」
 遠田は深々と納得した。
 遠田愛用の化粧品はダイソーで購入した物が大半、下手を打てば全てである。
 一流ブランドの製品と比較しても遜色ない―遠田曰く、普通な私では差が見えてこない―質を持ちながらほぼ百円という安価は大いなる魅力で、遠田にとって欠かせないアイテムとなっていた。
 「ウチの兄貴もデートの時は軽く化粧してるみたいだけどね」
 由莉が冷静に言う。
 メンズコスメの市場を以前から認知していたため、何ら動揺はないらしい。
 しかし遠田にとっては驚きの連続である。
 男性の化粧なんて花の芸能界に限っての話だと思っていた遠田にとって、身近な一般大衆にまで浸透していることにショックを隠せない。
 お笑い芸人ですら化粧をするのだと雑誌で知ったのは後の話であるが、あまりのショックに軽いボディブローを賜った気分になり、常ならば一度のアルバイトで三冊は読破する漫画雑誌を、その日は二冊しか読破できなかった程。
 ちなみに、遠田家にテレビはない。
 単にNHKの受信料が払えないからである。
 男は化粧なんかしなくていいから楽でいいなぁと思っていた遠田だが、今日を以って考えを改めざるを得なかった。
 大切なのは化粧品の質ではない、綺麗でありたいという意識が大事なのだと。
 何かが間違っていることに、遠田はついぞ気付かなかった。

 由莉と一緒になった四限目の講義が終わり、朝から平常授業を受けていた由莉、そして真紀は下校していった。
 遠田はあと一限、一時的に定時制の学生として講義を受ける。
 一限しか顔を出さないため友人がいるでもなく、遠田は黙々と板書を書き写しつつ、暇をペン回しで潰していた。
 あぁ、この暇を内職かレポートで潰せたらどれほど有意義だろう、などと日々考えている遠田であった。

 遠田がアパートに帰宅した頃には空は全くもって夜空で、薄ら雲が星を覆い隠していた。
 正直なところ仮眠をとりたい遠田だが、これから間もなくアルバイトのシフトに入る時間だ。
 眠れても十分。
 短い仮眠は余計に眠たくなってしまう体質の遠田には逆効果でしかなかった。
 軽く化粧を直し、店の制服の邪魔にならない着替えやすい服装に着替えて部屋を出た。
 ナチュラルメイクブームは遠田にとって好機であった。
 昔はやたらと化粧を塗りたくってさぞ消費量も多かったことだろう、今ではやれナチュラルだやれ薄化粧だと消費量削減を正当化できるのだから幸せである。
 ダイソーの安物を使っていてそれはないだろう、と由莉に言われて悲痛の思いに苛まれたそうな。
 遠田は徒歩で出勤し始めた。
 愛用の自転車を駆り出さない理由は、治安が悪く視界の悪い深夜では窃盗される可能性が高いためだという。
 店舗の裏側にあれば盗まれる可能性は低いだろうが、遠田にとっての自転車への思いや依存度を鑑みれば当然の対策かもしれない。
 時間帯からして最も灯りが点されるであろう、住宅地というほどでもない一戸建てが点在する路地をしばらく歩いていると、やがて見えてきた、見慣れた建物。
 駐車場はやたら広い割に店舗は小さく、それでいて看板は高々と掲げられている。
 こじんまりとしているくせに、夜闇を煌々と照らす照明が、確かにそこにあった。
 来ればいつでも開いていて、欲しい物がなんでも揃う。
 無機質な蛍光灯の灯りが、何故かあたたかく見えてしまう。
 そんなコンビニエンスストアが、遠田は好きだった。
 裏口のドアを開け、蛍光灯に負けず劣らず明るい声で遠田は言う。
 「おはようございまーす」