季は冬、処は北海道。凍て付く寒さのこの地に、関西弁を使う一人の男の子がいました。
「おかーん、メシー。はよしてやぁー」
「あら。手抜きでいいならすぐ出せるけど、それでもよくって?」
「…ごゆっくりどうぞ」
軽くたしなめられてしまった男の子、名を『煎御谷 花火』と言います。
出来上がった朝食を食べていると、ピンポンと呼び鈴が鳴りました。花火がいつもの事のようにゆっくりと腰を上げ、玄関に向かいドアを開けました。そこには、一人の女の子が立っていました。
「あ…、おはよう…」
「ん。おはよ」
小さくお辞儀をしながら小声で挨拶をした女の子、名を『冬矢 椿』と言います。
家に上がらせてもらい、花火の母親にも挨拶をした椿は、いつもの事のように花火と向かい合わせの椅子に座りました。
「ゴメンねぇ椿ちゃん、このコったら椿ちゃんが来るのわかってるのにだらだら食べてるんだから」
「おかんが早よ作ってくれればなぁ」
「生たまごドリンクならす~ぐに作れるけど、それでもいいかしらん?」
「…わたしが悪うござんした」
この子にしてこの親あり、です。さすがの花火も母親には頭が上がりません。そんな二人の掛け合いを、椿はいつもの事のように楽しそうに見ていました。
やっと朝食を食べ終えた花火は、簡単な準備を済ませて椿に行こかと言いました。椿はこくっと頷き、花火の母親に会釈をして、花火の後ろに付いてリビングを出ました。そして靴を履き、玄関を出ました。
外は美しい銀世界。元は畑だった場所も、今では人の腰の高さまである積雪に乗っかられています。煎御谷家の前の広い道も本当は畑に挟まれていましたが、除雪車によって道に積もった雪は除けられ、まるで雪が作った自然の道路のようにも見えます。交通量のほとんどないこの道に除雪車が来るのは未だに謎です。
二人は学校とは反対の方向に歩き出しました。
「今年も随分降るな」
「だね…」
「雪だるま作り放題やで。電車一本遅らせて作ってくか?」
「し、しないよ、そんなの…」
椿は少し顔を赤くしながら言いました。
「この前の初雪ン時、ワイのこと忘れて何時間も作っとったんは誰やったっけ?」
「う…」
椿は少し俯いて、
「いじわる…」
花火は微笑みながら、
「いやいや、ジョークやジョーク。堪忍な」
椿の頭をポンポンと叩きながら言いました。椿は花火の目を見て、照れるように微笑みました。
しばらく歩いていると、突き当たりに駅が見えてきました。決して大きくもなく、利用人数も多くはない、どちらかと言えば田舎の駅。でも、二人にとっては重要な通学手段なのです。誰もいない改札口を素通りして、ホームにある、駅舎からはみ出た屋根の下に置かれているベンチに座りました。
「ちょっと早かったかな…?」
「そうでもないやろ」
「そうかな…?」
「それよか見たか?昨日の健バナ」
「あ…、見忘れちゃった…」
「うそぉん、惜っしいなぁ。せっかくのみかん特集やったんに」
「えっ!?」
椿は驚きました。大好きなみかん特集だったのです。
「電話してくれれば良かったのに!」
「あー…、すまん。思い付かんかった」
「うぅ~…」
椿はがっかりして、ゲンナリと俯いてしまいました。
「あ、でもな、もしかしたら知り合いのおばちゃんがビデオ録っとるかも。あの人、三度のメシより健康好きやし」
花火がそう言うと、椿は反射的に真剣な表情で花火を見つめました。
「できたら借りるかダビングし…って、椿?」
「…借りてきて」
「へ?」
「絶対借りてきて!」
「あ…、はい…」
珍しく熱い椿の勢いに花火は圧倒されてしまいました。
ちなみに『健バナ』とは『健康と人間とバナナ』というテレビ番組の略称で、元は番組編成の時期に放送された健康スペシャルでした。それが意外と好評で、視聴者の声も後押しして土曜のお昼の番組として始まり、今ではゴールデン枠に進出してしまうほどの人気番組なのです。
5分後、電車が来ました。たった二両しかないボロ…もとい、年季の入ったものです。二人は乗り込み、椅子に座りました。暖房がしっかりと効いていて暖かく、コートが暑く感じるくらいです。他の乗客も何人か乗ってはいるものの、都会の『満員』とはだいぶかけ離れているようです。
「ねむ~…」
「ちゃんと寝たよね…?」
「んあぁ、ちゃんと寝たで。―2時に」
「わっ…。ダメだよ、早く寝ないと…」
「だって見たいテレビあったんやもん」
「…えっちな番組?」
「ちゃうちゃう、アニメやアニメ。そーいうのは見ぃへんもん」
「そっか…」
椿はちょっと安心しました。
「なんや、男はみんなそーいうの見てると思っとったんか?」
「…うん」
「はぁー、そうやったんか。でもワイには、」
ガタンゴトン。
「―がおるし」
「え…」
椿は顔を赤くして俯いてしまいました。
いくつかの駅を過ぎて、電車はやや大きな駅に止まりました。
「あ…。花火くん、着いたよ」
「んぇ…?」
すっかり眠っていた花火を起こして、二人は電車を降りました。ホームは通勤通学で利用する人が20人前後立っていました。
二人は今まで乗っていた3番線の反対側の、2番線の前のベンチに座っていました。さっきまでホームにいた人の半分は二人が乗っていた3番線の電車に乗り、発車しました。残りの半分は2番線の電車を待っています。
「椿ぃ」
「?」
花火は右手前方にある構内売店を見ながら、
「ガムでも買おか」
「…うん、そだね」
二人は立ち上がって売店の前に行き、雑誌棚の上辺りにあるガムとアメの棚を見ていました。
「んー…、みかん味はさすがにあらへんよなぁ…」
「メロン味はあるよ」
「そりゃ北海道やもん」
「あ…、そっか」
そんな話をしながら、二人はいちご味とライムレモン味のガムを買って、交換こして二つの味を楽しむことにしました。
ガムを噛みながらベンチに座って待っていると、少しして電車がやって来ました。どちらかと言えば新しめの型で、先ほどの電車とは大違いです。乗車すると中は程良い暖かさでした。電車は3分ほど停車して、そして発車しました。
「…ねよ」
花火はがくんと顔を落とし、眠る体勢に入りました。
「は、花火くん、ダメだよ。すぐ着くんだから…」
花火はすでに夢の世界でした。
「もぅ…」
椿は諦めつつも、花火の寝顔を覗き込んで微笑んでいました。
いくつかの駅を通過して、電車はとある駅に停車しました。
『蝦夷大前ー、蝦夷大前ー』
車掌のアナウンスに、ほんのり眠りかけていた椿が気付いて目を覚ましました。隣を見ると、案の定花火がぐーぐー寝ていました。
「花火くん、起きて!着いたよ!」
「んぇ…?」
すっかり眠っていた花火を起こして、二人は慌てて電車を降りました。電車に乗っていた他のたくさんの若者も同じように降りました。二人と年代は近い、ないし同じくらいの人たちです。
陸橋の階段を上り、降りて、すぐそこの自動改札に定期を通して、二人は駅を出ました。駅舎は二人が乗ってきた駅よりも立派で、同じ単線の駅なのに随分と差がありました。駅前は広くて横長で、車が何台も横付けできるくらいの長さです。待機車両用の幅の広い道の向こうには客待ち用のタクシープールがあって、十数台止まっていました。そして、その向こうと言わず駅前全体には、たくさんのビルがありました。駅に近いビルのほとんどが若者向けの飲食店やコンビニ、洋服屋ばかり。さすがは駅前、商売上手です。
二人はビルに挟まれた幅の広い駅前通りをまっすぐ歩き出しました。先ほどの若者たちも同じように歩いていました。
5分ほど歩き進め、道幅が一般道と等しくなってきた頃、後ろから走ってきた一人の男子生徒が通りすがり様に振り向いて、
「よっ、お二人さん」
軽快な声に花火がすぐさま反応して、
「おぅ」
軽く手の平を見せながら言葉を返しました。男の子はそのまま走って行きました。
「…誰?」
「同じ学部のヤツ。―そっか、椿知らへんのか」
椿は怪訝そうに頷きました。
「走るのが好きらしくてな。趣味は合わへんけど、性格は合うんや」
椿はふ~んと言いながら頷いていました。―と、突然、後ろから走ってきた女子生徒が、背後から二人をまとめて抱きかかえました。
「やっ、お二人さん♪」
「おわっ!ま、またお前か!」
女子生徒は笑いながらすぐに離れました。花火はやられ所が悪かったのか、ケホケホと苦しそうにしていました。椿は慣れっこなのか、すでに向き直って女子生徒と目合わせで挨拶をしていました。
「およ?煎御谷、だいじょぶかい?」
「し…、しらじらしいやっちゃ…ケホ」
「あはは、気にしない気にしない」
女子生徒はけらけらと笑っていました。
「あそーだ、ねぇカメちゃん」
「?」
カメちゃんとは椿のあだ名です。『椿』は英語で『camellia』で、トロい挙動がカメみたいだからと言って、女子生徒が一方的に名付けたのです。今まであだ名で呼ばれた事がなかったので、椿もそのあだ名が気に入っているようです。
「買い物付き合ってほしいんだけど、午後空いてる?」
「あ…」
椿は気まずい表情を浮かべ、フンと隅っこでスネている花火を一瞥して、
「ごめん…、午後は…」
椿の表情に感付いたのか、女子生徒は『あっ!』と言って、
「そっかそっかゴメンゴメン!いやぁ~あたし鈍くってさぁ」
女子生徒はわざとらしく声を大にして、椿の前で両手を合わせながら笑い謝りをしていました。椿が申し訳なさそうにしていると、女子生徒が椿の肩に乗り掛かりました。
「アレとじゃしゃーないわね。わかった、他のヤツ連れてくわ」
「ごめんね…」
「いーのいーの!気にしない気にしない」
女子生徒はパッと離れました。
「じゃ、先に行ってるね!」
椿がうんと頷くと、女子生徒はスキップ気味に歩き去って行きました。
「ったく、冴希のヤツ…」
「気にしない気にしない♪」
「…へぃへぃ」
二人は再び歩き始めました。
10分ほど歩いて、右手に大きな茶色の建物が見えてきました。二人は塀沿いを歩き進め、やがて正門に辿り着きました。極寒の中、りりしい姿勢で直立している中年警備員に挨拶をして、二人は門をくぐりました。門の右に掛かっていた古めかしい木の看板には、こう書かれていました。
『中央蝦夷大学』
敷地内は他の生徒もたくさんいて、皆震えながら足早に講堂内に入っていきます。二人も例に漏れず大通りをまっすぐ進み、中央が大きな円形の広場になっている十字路まで来たところで、二人は立ち止まって向き合いました。
「じゃ…、また」
「ん。またな」
小さく手を振り合いながら、二人はそれぞれ反対の方向に歩いて行きました。椿は西へ、花火は東へ。そう、二人は学部が違うのです。当初は同じ学部に入ろうと決めていましたが、せっかく大学に進学したのだから自分のやりたいことをやろう、という花火の一言で、二人は希望の学部に入りました。
ではまず、椿を見てみましょう。
講堂に入って席に座り、椿はぼんやりと講義が始まるのを待っていました。―と、
「だ~れだ?」
「わっ、」
誰かに後ろから目隠しをされてしまいました。でも、椿は落ち着いていました。
「…アコ?」
「せいかーい!」
アコと呼ばれた女子生徒、名を『冴希 温子』と言います。登校途中に二人に取っ組みかかり、椿をカメちゃんと呼んだあの女の子です。見ての通り活発で、友達を大切にする性格です。
温子はにこにこと笑いながら椿の隣に座りました。
「にしてもカメちゃん頑丈よねー」
「え…?」
「ほら、朝のタックル。煎御谷はケホケホ言ってたのに、カメちゃんケロっとしてるんだもん」
「うん…。慣れたから…」
「あ。もしかしてアレ、嫌だった…?」
温子は心配そうな顔で、覗き込むように椿の顔を見ました。椿は顔を横に降りました。
「挨拶なんでしょ…?」
「うん、そうそう挨拶。景気づけにドーンとね」
椿はクスッと笑いました。
「アコらしいね…」
「それ、誉め言葉かしら?」
今度は二人して笑っていました。
やがて教授がやって来て、淡々とした口調で講義が始まりました。
一方の花火はどうしているのだろう?見てみましょう。
講堂に入って席に座り、花火はぼんやりと講義が始まるのを待っていました。―と、
「よっ」
「お。おぅ」
一人の男子生徒が小走りでやって来て、花火の隣に座りました。
「なぁ煎御谷」
「あ?」
「お前と一緒にいるあのコ、名前なんだっけ」
「…これで何度目や?」
「4回目だな」
「回数覚えられるんやったらいい加減名前くらい覚えぇや。椿や椿、冬矢 椿」
「あぁそうそれだ。いや、いつもすまんな」
「5回目ン時はなんかおごってもらおかな」
「はは、それは勘弁してくれ。食うだけでいっぱいいっぱいだ」
椿の名前を尋ねた男子生徒、名を『植田 勇一』と言います。登校途中に走りながら二人に挨拶をしたあの男の子です。声はちょっと低く、温厚で物静かな性格です。
「で、椿がどした?」
「俺にくれ」
花火はしばらく凝固して、
「ほ?」
「…や、なんでもない」
勇一はしてやったりと言わんばかりに微笑していました。
「冗談はさて置き。あの子、耳当てしてたよな」
「んあぁ」
「お前の趣味か?」
花火は思わずブッと吹いてしまいました。
「ア、アホ!ンなわけあるか!」
「今時分珍しいなと思って聞いてみたんだが、違うのか」
花火はハァと溜め息をつき、自分が少し立ち上がっているのに気付いてどかりと座りました。
「あれはあいつが好きで付けてるだけや。ワイはなんも言うてへん」
「お前も付けてみたらどうだ、耳当て。もちろんペアの」
「…結構です」
「ご用命の際はぜひ植田服屋へ。各種耳当ても取り揃えております」
勇一お得意の宣伝文句に、花火は再度溜め息をつきました。
やがて教授がやって来て、なまりの強い口調で講義が始まりました。
2限目が終了しました。
椿は温子と別れ、ひとり雪景色の中、講堂を移動していました。
花火は勇一と別れ、ひとり雪景色の中、講堂を移動していました。
先に目的の講堂に着いた花火は、いつもの席に座りました。そして、ヒマでした。ヒマつぶしに参考書を読むと花火の体質のおかげで眠くなってしまうので、何も書かれていない大きな黒板を見ながらボーっとしていました。
しばらくして、椿も同じ講堂にやって来ました。講堂内をぐるっと見回すと、机に突っ伏して居眠りをしている花火を発見して駆け寄りました。
「花火くん、起きて!花火くん!」
椿がゆさゆさと揺すり声をかけると、花火は目を覚ましました。
「んぁ…?」
寝ぼけていました。
「ん…? つばき?」
椿はこくっと頷きました。
「そか…、3限目か…」
次第に寝ぼけも覚めてきた花火は、今が3限目で、だから椿がいるのだとわかりました。
「寝ちゃダメだよぉ…」
「んやぁ、わかってんねんけどなぁ。睡眠欲にゃ勝てへんわ」
前に説明した通り、二人は別々の学部に入りました。でも、学部が違くてもどこかでつながりが欲しい、一緒に講義を受けたいという椿の提案に花火も名案だと賛同し、毎日3限目は必ず同じ選択講義に出ることにしたのです。
「今日は居眠りしなかった…?」
「植田がおったからな。いい目覚ましや」
「…うえだ?」
椿はきょとんとしてしまいました。
「ほれ、朝走りながら挨拶してった男おったやろ。アレや」
「あっ…」
朝の光景を思い出して、椿はうんうんと頷きながら納得していました。
「あいつと知り合ったの随分前やし、椿にも話したと思ったんやけどなぁ…」
花火は首を傾げていました。
「…ねぇ、花火くん」
「ん?」
「午後のことなんだけど…」
「用事でもできたんか?」
椿は顔を横に降りました。
「服屋さん見たいから、寄ってもいい…?」
「んあぁ、構わへんで」
「…ありがと」
椿は小声でそう言って、嬉しそうに微笑んでいました。
やがて教授がやって来て、まるで体育教師のような口調で講義が始まりました。
そして、3限目が終わりました。
「あーハラへったー…」
花火がボヤきました。
「私も…」
椿もボヤきました。花火は大きく溜め息を吐いて、
「よしゃ、行こか」
「うん」
二人は足早に講堂を出ました。外も吐く息も相変わらず真っ白で、講堂の中で温められた身体には堪える寒さでした。円形広場を過ぎ、大通りを抜け、りりしい姿勢で直立している中年警備員に挨拶をして、二人は学校を出ました。