今日は、何度目かになる椿の煎御谷家お泊まりデーです。
「メシまだぁ~?」
「もう、ちょっと」
特にきっかけがあるわけでもなく、どちらから言い出すでもなく、たまにこうしてお泊まりにやってくるのです。
「食べることばっか考えてないで、少しは手伝いなさいっ」
「腹減って動けへんねんもん…」
もちろん、花火が冬矢家に泊まりに行くなんてことは絶対に有り得ません。えぇ、有り得ません。気持ちの小さな椿が煎御谷家に泊まりに来れるのは、懐が広くて気さくで気心の知れた美緒のおかげなのです。
「んじゃあ、このグッツグツに煮えたぎったゆで汁でお腹いっっっぱいにしてあげましょうかぁ~?」
「何か手伝えることはございますでしょうかお母様」
「よろしい」
父親が仕事の都合で海外を転々としているため、煎御谷家は実質二人暮し。親子二人で食卓を囲むのも悪くはないでしょうけれど、やっぱりご飯は大人数で食べた方がおいしくなるものです。特に、今日みたいな鍋料理の時は。
「じゃ、これコタツに持ってって」
美緒に脅されて台所にやってきた花火は、美緒が指差す方を見ました。見るからに熱そうな土鍋が、食欲をそそりながらも一抹の不安を煽りに煽るのですから花火の心境は極めて複雑です。
「あ、熱いから、」
「んぁあ、ヘ~キヘ~キ」
母親と一緒に台所にいた椿が心配してくれて嬉しいのは嬉しいけれど、平気だとは言ったけれど、この土鍋、思った以上にでかいのです。前に一度、同じく椿がお泊まりに来て鍋をした時は、いただきますの直前までコタツで爆睡していたので誰がコタツまで運んだのか花火は知らないのですが、よくぞこんなヘビーな物を女手で運んだなと感心してしまいました。そして、凹みます。
「まさかコレ、素手で持ってけ言うんやないやろ? 濡れブキンとか、」
「ない」
美緒の突き放すような二文字で砕けかける花火でしたが、椿のナイスフォローによって手渡された一組の布巾で一気にテンションを立て直し、運搬作業に移りました。取っ手に布巾をかけ、その上から掴んで持ち上げました。思ったより軽くて熱くない、と花火は思いました。よいしょよいしょ、すでにセッティングしてあったコタツにゆっくり置いて準備完了です。
今回料理の大半を担当した椿の手によって鍋のフタが開けられ、湯気がふわ~っと舞い上がりました。美緒のリクエストでチゲ鍋です、寒い冬には辛い物を食べるのが一番!と豪語しているみたいです。
「おぉ! メッチャうまそうやん!」
「あ…、ありがと…」
「そりゃあ椿ちゃんが作ってあたしが手伝ったんだもの、ねー?」
椿は少し照れながら、美緒の投げかけにこくっとうなずきました。
「いただきまーす」「いただきます」「いただきます」
三人同時にいただきますを言って、それぞれおタマで取り分けて食べ始めました。程よい辛さと熱さが身体をあっためてくれるし、なにより絶妙な味付けがほっぺたを落としてくれます。さすがは椿、何を作らせても上手です。
やがて、鍋にはラスト・オブ・豆腐が一切れ残りました。
「…」
「…」
煎御谷親子、早々に無言でのバトルが始まっているようです。とにかくがっつきたい花火と、結構豆腐好きな美緒、争いに参加するはずもない椿。まだまだ夕食の片付けはできなそうです。
さて。
食休みをしてくつろいでお風呂に入って、少し早いけどこのまま床に就くのもやぶさかではないといった空気の花火の自室で、花火は寝転がり、椿はアヒル座りでテレビを見ていました。旅番組のようです。
「うわぁ…」
露天風呂から一望できる夕刻の水平線を見て、椿はほわぁ~っとなってしまいました。まだまだ先の話だけど、行ってみたいな、一緒に行くのは、その、えっと…、もちろん…、きゃーっ!
「椿」
椿はビクッとなってしまいました。
「な…、なに?」
「こゆトコ、行ってみたいん?」
その言葉に含みがあるようなないような、有り得ないけれどもちょっと期待感を持って椿はこくっとうなずきました。
「今はムリやけど、いつか連れてったるで」
バッキューン。
椿のハートは花火の言葉の銃弾で撃ち抜かれ、完全にその弾の効果に侵食されてしまいました。もうこの嬉しさたるや文字にも言葉にも形容できるものではなく今世界で最も一番最高に幸せなのは私だろうと舞い上がってこのまま窓ガラスを突き破って吼え猛りたい気分でした。
「ゴメンな、どこにも連れてってやれへんで」
「え…」
滅相もない、と椿は悲しそうに花火に向きました。
「そんなこと、ないよ…。雪祭りとか、初詣とか、色々、行ったよ…?」
「でも、北海道は出てへんやろ?」
そういう問題ではないのだけれど…。
「沖縄とかな、いっそ外国でもええわ、椿の行きたいトコ、連れてってやりたいねん。ワイが行きたいいうんもあるけどな」
突然だけれどとても嬉しい花火のやさしさに、椿は思わず泣いてしまいそうになりました。
「旅行も、お出かけも、いっぱいしたい。でも…」
一呼吸間を置いて、
「私は、花火くんのそばにいられれば、いいから…」
そんな謙虚な椿がかわいく思えて、花火は椿の頭をポンポンしました。くすぐったそうに、椿は微笑みました。
「花火くん」
「んぁ?」
「えと…。笑わないで、ね…?」
「それはわからへんなぁ」
(良い意味で)笑うのが好きな花火なので、椿の頬がゆるんでしまうようなお話しで笑うのは日常茶飯事です。
「ひとつだけ、お願いしても、いい…?」
「なんや。一個やのうてナンボでもええで」
「え…っとね…」
フー、フー。
イケナイことをしているようなワクワク感を隠しもせず顔に出して、椿ははんぺんを冷ましていました。まだ少し熱いけれどパクッと頬張って、しあわせそうな顔になりました。
「うまいか?」
椿はこくっとうなずきました。
二人は今、コンビニの駐車場のコンクリートの車止めに座って、仲良くおでんをつついています。大きなカップの中には玉子やら餅巾着やら、色々入っているみたいです。おいしそうですねぇ。
「だし汁、おいしい」
「せやろ~、これ店で売ったらメッチャ儲かるんやないかっていつも思うんやけどなぁ」
「企業秘密かな…?」
「それや! 自分らだけ儲けようやなんて腹黒いことこの上ないやんな」
それはちょっと違うような気がしないでもないのですが…。
椿のお願いは、じつに単純明快、今この状況です。
『コンビニのおでんを食べてみたい』
それも普通の食べ方ではなくて、誰かと一緒に夜中に、それはそれは寒いコンビニの店先で、という条件の細かさです。ただ単にコンビニのおでんが食べたいのであれば学校帰りにいくらでも買えるのですが、それでは納得がいかなかったようです。移動中の椿の話によると、
「昔、お父さんの車で外食しに行った帰りにね。コンビニで、高校生の人たちが座っておでんを食べてるのを見て、カルチャーショックっていうのかな…? よくわかんないけど、すっごく憧れちゃって…。高いから、コンビニはほとんど行ったことなくて、夜も開いてるせいかな、あんまり良くないお店っていうイメージがあって、そこでおでんを食べるっていうのがとっても大人に見えて。…笑わないでっ」
ようするに、誰にそそのかされるでもなく純朴に生きてきた椿にとって、夜中にコンビニでおでんを食べる行為はインディ・ジョーンズにも匹敵するのだそうです。
「なんや、思い出すな」
「…?」
「高校ン時、ベランダで一緒にメシ食うてた時あったやん?」
椿はうんうんとうなずきました。
「なんで外で食ってたんやろな」
言われてみれば、なんでだろう。椿もよくわからないみたいです。
辺りは真っ暗。もう夜の十時過ぎです。まだまだこれからが本番だ、と叫ぶ元気な人も世の中にはたくさんいますが、椿にとっての十時過ぎはネムネムタイムで、大晦日以外は起きていられないような、良い子は寝る時間なのです。
お店の明かりでちょっと見づらいけれど、夜空には数多の星々が輝いています。周囲に住宅がポツポツと点在している程度の立地なため、やっぱり目の前には大きな雪畑が広がっていて、空からうっすらと降り注ぐ月明かりが雪に反射して、そんなわずかに幻想的なムードの中、コンビニでおでん。本人は自覚していないけれど、絵に描いたように真っ当な人生を歩んできた椿にとって、今夜の経験で得たものは少なくないでしょう。
コンビニに辿り着くまでの椿の饒舌っぷりから高揚感を感じ取りまくっていた花火は、連れてきて良かったなぁとしみじみ思いました。母親がいないことで少し不自由な生活を送ってきた椿にはまだまだ色んな意味での経験が足りなくて、新しいことに興味を抱く好奇心旺盛な子供みたいで、あぁやっぱかわえぇなぁと椿の頭をなでなでしながら花火は言いました。
「椿ぃ」
「?」
「このまま、朝帰りしよか」
椿は思わず吹き出しそうになって口を押さえ、ゆでダコになったかと思えば怒り顔になりました。花火はジョーダンやてと笑い、こんにゃくを口に運びました。これが意外に熱くてビックリしてしまい、箸から脱落して氷の上に着地しました。
「あっ」
「げっ」
…。
二人は笑いました。