やっと動き出した椿とそうさせた張本人の花火の二人は、またしても来た道を戻り、駅前通りに向かっていました。お昼時を過ぎて人通りは多少減り、たくさんいた学生たちも各々の午後を過ごすため散り散りになりました。

椿は椿で、動き出したはいいけど、まだ引きずっているようです。

「…椿?」

顔を赤くして俯かせたまま歩いている椿は、横目でチラリと花火と一瞥しました。

「そないに恥ずかしかった?」

椿はこくっとうなずきました。事情がわかっていない花火はしかし、椿の事だからあれくらいの事でも恥ずかしさでげんなりしてしまう時もあるんだろうなと判断していました。

「なぁ椿ぃ、元気出してぇなぁ」
「だって…」
「もうせぇへんから、な?」

というセリフを花火はさっきから何度も言っています。事情がわかっていないのをわかっていない椿はしかし、さっき言ってくれた事をもう二度と言ってくれないのかなと大胆な考えもしてしまったりするのです。

「…人前で…、しないでね…?」
「ん」

椿はあえて『人前で』と言いました。それはようするに人前じゃなければしてもいいかもしれないという椿のやはり大胆な、しかし椿はそこまで思考を巡らせた辺りで恥ずかしくなって顔を赤くしていました。

元来た脇道を抜けて駅前通りに出た二人は、また大学方面へと歩いていきました。もちろん、行き先がこの方角なだけです。少し歩いた辺りで二人は足を止め、道路側を向いて右左を見て車が来ていない事を確認して道路を横断しました。椿がうるさく言うので、ちゃんと横断歩道を渡っています。渡り切ってからまた少し大学方面へ歩いた後、二人は左に曲がって脇道に入りました。ここもまたビルに挟まれてやや薄暗いですが、道路は二車線で歩道もあり、脇道というよりは駅前通りにつながる道路です。

脇道に入ってすぐ、花火が椿に、

「なぁ」
「?」
「ちと、手ェつながへん?」

椿は突然の大胆発言にびっくりしました。つないだ事がないわけではありませんが、やっぱり人前で心の準備もできていないのにいきなりだと椿も動転してしまいます。花火は興味本位で言ってみただけなのですが…。

「なんで…、いきなり…?」
「こんなんいつ言ってもいきなりやろ」
「そ…、そだけど…」

椿はどうしようか悩んでいました。したくないわけじゃないけど、やっぱり人前だと恥ずかしいからイヤだ。でも、普通の人だったら恥ずかしいなんて思わないかもしれない、ドラマとかでも何も言わずにつないだりするし…と、またしてもご苦労な自問自答を繰り返した末、椿は行動に出ました。顔はやや赤くして俯かせたまま、右手をそっと花火の方に寄せました。つないでもいいという事なのでしょうが、なんとも不器用な感情表現です。でも、花火はそんな椿の仕草がかわいく思えるのです。差し出された右手に気付いた花火は、何の躊躇もなく左手でギュっとにぎりました。

わっ…

いきなりギュっとされて少しびっくりしましたが、ちゃんと手をつないでいるのを横目でチラリと確認して、恥ずかしさとともに不思議な安心感を覚えました。手袋越しではあるけれど、二人の手のぬくもりはちゃんと伝わり合っています。

椿が手をつないでくれた事でちょっと嬉しくなった花火は、恥ずかしそうにしている椿の顔を覗き込んで、

「恥ずかしいか?」

椿はこくっとうなずきました。妙なテンションの花火はその反応でもまた嬉しくなりました。

手をつないだまま脇道を少し進んだ頃、花火が突然、前置きもなしにつないでいた手を椿の手ごと自分のコートの左ポケットに突っ込みました。

「わっ!」

つないでいるだけでも恥ずかしかったのに、手をつないだままポケットに入れるなんて椿には考えられない事でした。手を離すのはなんだか気が引けたので、椿は手をつないだままポケットからグイと引っこ抜きました。

「ヤか?」

椿は小さくこくこくとうなずきました。

「そか」

嫌がられた事をなんとも思わず、むしろ喜んでいるくらいで、どの反応でもプラスになっていく花火のテンションはハイになっています。そのテンションは挙句、つないだ手を大きく前後に振り始めました。まるで幼稚園児の遠足の時みたいに、ブンブンと。

「わっ、わっ」

またいきなりだったので椿も止められず、右手に力を入れて振られないように抑えました。

「花火くんっ!」
「はは、すまへんすまへん」

そう言って花火は上を向き、ひとつため息をついて、

「あ~楽し」

とてもすがすがしい笑顔でした。また手を前後にブンブン振ったのは言わずもがな。



ファッションセンター『ホクセン』に到着した二人。さすがに店内で手をつなぐのは花火も抵抗があるので、二人は自然と手を離していました。自動ドアが開いて中に入ると、ファッションセンターらしい明るさとバーゲンチックな雰囲気、天井には『冬物半額』の大きな幕が垂れています。近郊に住む主婦方御用達の大型ファッションセンターなので店もそれなりに大きく、大量仕入れで安価販売を実現しています。

「で、どする?」
「花火くんの服」
「え~、またかいな」
「…いや?」
「別にええけどさぁ…」

椿は微笑みながらうんとうなずいて、若者向けの洋服が陳列されているコーナーに花火を引っ張っていきました。花火はあんまり乗り気ではないようです。

ティーンズファッションコーナーに差し掛かってすぐに、椿は洋服の物色を始めました。ハンガー掛けされている物から折り畳んで積まれている物まで、一枚一枚目を通していきます。気に入った服があると椿は、

「これ」

と言って、ハンガーごと取って花火に合わせてみます。

「…赤ってダサない?」
「そう…?」
「紺がええな、紺」
「紺は…」

紺を希望されたので椿は近くの洋服を軽く見渡し、目に入った紺色の服を取って、

「これ」

花火に合わせてみます。

「んー…、もちっと青っぽい紺がええかな」

言われ、椿はまた近くを見渡し、

「これ」

花火に合わせてみます。

「ん。ええんやない」

花火の好感触を得てちょっと嬉しい椿は、

「持ってて」
「え~」

その洋服を持っているようにと花火に言いました。花火はこれがイヤなのです。少しの量ならいいけれど、あれもこれもと椿がたくさん持たせるので重いし持ちづらいしハンガーだと指が痛くなるしで結構しんどいのです。でも持ってあげないと椿がスネるし、ここに来るのを楽しみにしていた椿に悪いなという気持ちもあって、断れません。

「今日は少なめにしてな」
「うん」

椿は生返事を返し、洋服の物色を続けています。花火は一つ、外で手をつないでいる時とは全く正反対の気持ちの溜め息をつきました。

「これ」

また椿が花火に洋服を合わせて、

「めっちゃ似合わへんやん」
「着てみなきゃわかんないよ。持ってて」
「え~」

増えてしまいました。



そんなこんなを繰り返している内に、持たされた服はどんどん溜まっていきました。でも、花火のお願いをちゃんと聞いていたのか、今日は五着に留めました。

「ん…。そろそろ、いいかな」
「ぶあー、椿ぃ、減らしてぇなー」
「五着しかないよぉ…」
「ワイにぜーんぶ着ろ言うんかぃ」
「うん」

椿の楽しそうな返答に、花火はもう何も言えなくなりました。

試着室の前に来た二人。椿が中途半端に閉まっていたカーテンを開け、右の手の平を差し出してやはり楽しそうに、

「どうぞ」

花火に言いました。

「へぃへぃ」

花火は渋々中に入り、乱暴にカーテンを閉めて着替えを始めました。

椿は、人のファッションをコーディネートするのが好きなのかもしれません。コーディネートというほど大層なものではありませんが、人に色々な服を着せて、幾多にも変化する容貌を見ているのがワクワク楽しいのです。特にファッションに興味がない人はコーディネートし甲斐があって、もっと色々な服を着せてみたくなるのです。と言っても、こんな風にとっかえひっかえ服の着せ替えをできる相手は花火くらいしかいませんが。弟の太陽は嫌がって付き合ってくれないそうです。

試着室の脇にもたれ掛かって待っていた椿。

「一着目~」

の花火の声に反応して、試着室のカーテンの前に立ちました。もう諦めたのか、花火はイヤイヤな態度も見せずに普通にカーテンを開けました。一着目は赤いパーカーで、フードが付いていてポケットは口も広くて中も大きくなっています。プリントは白色で、左側に銃の照準サイト、その横に英文がいっぱい書かれていました。

椿は花火の格好をじっくり見て、

「うん、似合う」
「…そか?」

そこで花火はでもなと言って、

「ウチ、パーカーぎょーさんあんで?」

椿は言いました、

「試着はタダ
「…なるほど」
「フードかぶってみて」

言われた通りフードをかぶってみる花火。

「どや?」
「かっこいい」

素朴な感想に花火は照れてしまい、照れ隠しのためにカーテンを閉めて着替え始めました。

「二着目ぇ」

花火がカーテンを開けました。二着目はフリースです。下から上まで伸びるチャックが前にあり、羽織るように着てから締めます。襟は首を覆うほど大きく、ちょっとしたマフラー代わりにもなります。フリースなのでプリントは一つもありません。肝心の色は、オレンジ。

「…なぁ」
「?」
「ペアルック?」

椿は恥ずかしそうにこくっとうなずきました。椿の服はほとんど今花火が着ている物と同じで、チャックがない程度の違いしかありません。ちなみに椿はオレンジ色のフリースを愛用しているので、同じような服を何着か持っています。

「花火くんが着ると… なんか、変…」
「ワイもそー思う」
「でも、似合わなくは、ない…と思う」
「いや、ナシやろ」

いざ着てみたら予想と違かった、なんて事はよくあるのです。でも、椿はこれを選んだのはデザインだけではなく他の理由もあって、

ペアルック…
「んぁ?」

椿は恥ずかしそうにぶんぶんと顔を横に振りました。別に買うわけじゃないけど、だからこそ、試着の間だけでも、少しでいいからペアルックを着てみたいという椿の願望が叶いました。似合っていればなお良かったのですが…。

「次、行くで?」

椿は名残惜しそうにうなずきました。

「三着目~」

花火がカーテンを開けました。三着目は濃緑色のトレーナーです。中央に大きな白いシルエットの、まさに差しの真っ最中と思しき馬と騎手の正面像がプリントされていました。文字のプリントなどはなく、ただ馬と騎手だけが描かれています。

椿はパッと見て、直感的に頭に浮かんだ感想に少し笑ってしまいそうになりました。どうにか笑いを堪え、しかし微笑みをもらしたまま、その直感的な感想を素直に花火に言いました。

「ゴルフ練習場にいそう…」
「うぇ、ほんまに?」

椿は控えめにうなずきました。花火は振り返り、鏡に映る自分の姿を怪訝な顔で確認しています。

「ん…、見えへんこともないな」
「これはこれで、似合ってる…かも」

その言葉を花火は『花火くんはゴルフをしているのがお似合いだ』と解釈し、少し間を置いて、

「ワイ、ゴルフせぇへんけどなぁ…」

げんなりした声でゆっくりカーテンを閉めました。ただでさえあまり乗り気ではないのに、椿にあんな風にちょっと落ち込むような事を言われたら、そりゃ元気だってなくなります。

もちろん椿に悪気はなく、ただ単に『そのトレーナーが似合う』というごくごく単純なつもりで言ったのですが、どうやら花火には違う意味で伝わってしまったようです。心配性の椿は花火がいきなり元気をなくしてカーテンを閉めてしまった事を不安に思い、カーテン越しに声をかけ、

「これどうやって着るん?」

ようとした刹那、花火が訊ねてきたので、

「え、あ…、どれ…?」
「ん」

花火はカーテン脇から手だけ出し、その手に掴んだ服を椿に見せました。

「えと、この緑のを先に着て、白いのをその上に」
「あぁ、やっぱそれでよかったんか」

着方を理解した花火は手を引っ込め、着替えを再開しました。椿は、話しかけようとしていた事などすっかり忘れていました。

「四着目っ」

やや勢いよくカーテンを開けた花火、四着目は花火ご希望 紺色のポロシャツと白のニットベストです。説明のしようがないくらいシンプルな格好です。紺色のポロシャツにプリントはなく、襟にボタンが二つ付いているだけです。その上に、ボディを覆う白のニットベスト。伸縮性がよく保温性もあり、袖がないのでスポーツをする時などに邪魔にならず、特にゴルフの際に着ると最適でしょう。…ゴルフ?

椿は思わず吹き笑いしてしまいそうになり、口を押さえて表情が見えないように顔を俯かせました。でも肩が微妙にひくひくしているのがバレバレで、それを見た花火はやはりむっとなり、

「つ、椿が着せたんやないかっ」

照れくさそうな怒気を少し含めて言いました。笑いが収まってきた椿は、いきなりまた見て吹いてしまわないようにゆっくりと顔を上げ、

「ご、ごめん…。でも…」

でもやっぱり、じっくり見ると妙に花火が服と調和していて、本当にゴルフでもしていそうな、そこまで考えて椿はまた吹いてしまいそうになり、口を押さえて身体を後ろに向けました。ひくひくバレバレ。さすがの花火もこれには怒りました。でもここはお店の中だし、女の子に怒るなんてみっともないと思った花火は、カーテンを叩きつけるくらいぶっきらぼうに閉めました。

それに気付いた椿は、やっと我に帰りました。おかしな気持ちなどどこへやら、表情はすっかり不安顔になっていました。振り返ればそこに花火の姿はなく、一方的に閉められた水色のカーテンがあります。それがさらに椿の不安心を煽りました。笑いを堪えた時にやや離れた距離を詰めて試着室に近付くと、中からはゴソゴソと花火が着替えている音が聞こえてきます。きっと怒ってしまったんだ、元の服に着替えてと帰ろうとしているんだ、そう考えました。

二人の一年以上の付き合いの中で、椿が花火を怒らせた事は滅多にありません。というか、無いに等しいのです。それは花火の意外に温和な(鈍感な?)性格が幸いしての事と思います。花火がイタズラして椿をちょっと怒らせる事はあっても、椿が花火を怒らせるような事は椿の性格からまず有り得ません。だけど今回は悪気があってもついつい我慢できずに笑ってしまい、結果的に花火を怒らせてしまったのです。花火を怒らせた事がない椿にとって、それはとても不安な要素なのです。前みたいに仲違いしてギクシャクしていた頃の、毎日毎日胸が張り裂けそうな痛みなんか、もう二度と感じたくないのです。

椿はとても不安で不安で、居ても立ってもいられずカーテン越しから、

「花火…くん…」
「ん?」

椿はいっぱいの気持ちを込めて、

「ごめんね…」

中のゴソゴソという音が止まり、

「別に、気にしてへんよ?」

花火の明るい声が返ってきました。立ち直りが早いのか、全然怒っている様子はありません。しかし、椿の不安はその程度では拭い切れず、

「でも…、」

椿の声がひどく不安げに聞こえた花火は、カーテン脇から顔だけひょっこり出して椿を見ました。元気がなくて落ち込んでて顔も俯かせて、何だか今にも泣き出してしまいそうな雰囲気です。その姿に胃がチリチリするような痛みと背徳心を感じた花火は、

「椿ぃ、ンなヘコんだ顔すなやぁ」
…だって…
「せっかくのかわええ顔が台無しやで?」

椿は俯きながらもちょっと照れてしまいました。その反応で良しとした花火はカーテン脇から手を出し、椿の頭の上に乗せてポンポンとしてからやさしく撫でてあげました。

「ワイが椿に怒るわけないやないか。ホンマに気にしてへんから、な?」

花火がそう言ってくれても、椿の不安は消えません。微々とはいえ花火を怒らせてしまった事に対する申し訳ない気持ちがあって、椿は何も言えませんでした。

「な~ぁ~、元気出してぇなぁ。椿がヘコんでまうとワイもヘコんでまうわ」

そう言われて椿は、これ以上花火に不快な思いをさせちゃダメだと思い、募る不安を感じながらも平静を取り戻そうと必死にがんばりました。俯いた顔を持ち上げ、だら~っとした顔に力を入れていつもの表情に戻そうとしています。その、ぎこちないながらも懸命な椿を見て花火は何だか嬉しくなってしまい、

「椿」
「…?」
「かわええよ」

言って、顔と手を引っこめました。椿の表情は一転、頬を赤くしてポケーっとし、それでも顔は俯かず、カーテンの向こうにいるであろう花火を見つめていました。

なんでだろう、さっきまであんなに不安な気持ちでいっぱいだったのに、今度はドキドキして顔が赤くなっちゃう。でも恥ずかしいとかじゃなくて、なんだろう、よくわかんない。鼓動が早くなってる。なんだかそわそわする。頭の中でさっきのセリフが反芻してもうなにがなんだか、

そんなこんなを椿が考えている間に、花火がいきなり試着室の中から、

「ラスト五着目!」

いきなりの声に椿はビックリして、鼓動が余計に早くなりました。別にいけない事を考えていたわけじゃないけど、何故だか先生に注意された気分になってしまいました。

そして、花火がカーテンを開けました。最後の五着目は紺色デニムの長袖シャツジャケット。デニムなのでところどころが色落ちしています、デザインの一つでしょう。胸ポケットは左右両方にあります。前ボタンは外してあり、中には白いTシャツを着ていました。さすがの花火もこれくらいの着方はわかるようです。

椿はこのジャケットを、希望の紺色だし、自分もデニムのスカートを愛用しているから上下の違いはあるけどペアルックに近付くかなと思い選んだのですが…。怒っていた花火が、よもや最後の服を着てくれるとは思いませんでした。

「どや?」

椿に訊きますが、返答は来ません。

「…椿?」

返答はありません。

椿は今、大変な事になっています。笑ったり落ち込んだり照れたり注意されたりで心臓がバクバクして気が動転して返事をする余裕がないのも理由の一つですが、本当の理由は別にあるのです。顔は真っ赤になり、目は大きく見開いて目全てで花火を見るような感じに。口は少し開いていて、開いた口が塞がらない様子です。トコトンまでわかりやすい"驚いた表情"になっています。だって、まさか、

こんなに似合うなんて、思ってもみなかったのですから。

真っ赤で変な顔をして自分を見る椿が心配になった花火は、

「どした? 熱でもあるんか?」

試着室に入ったまま手を伸ばしてヒート椿の額に手を当てました。ヒート椿がびくっとしましたが、花火は気にせずにそれを続けます。

「熱はあらへんな…」

ヒート椿はもう自分でも何がしたいのかわからず、花火に話しかける事ですら恥ずかしくなってしまいました。でも、このまま何もせずに膠着しているわけにはいかないので、勇気を出して話しかけてみました。何だか、初めて会った時のような緊張を感じます。

「あの…、」
「ん?」
「その…服…」
「これ?」

ヒート椿はこくこくとうなずき、

「…買う…?」

こんな一言ですら勇気がいるようになってしまったヒート椿。恥ずかしい自分が恥ずかしい、そんな悪循環で椿はぐるぐるどんどん熱くなっていきます。言われた花火はキョトンとして、

「買わないんちゃうの?」
「え…」

そうだ、買わないつもりでここに来たんだった。思い出したヒート椿はしかし、この服がどうしても欲しくて、どうしても花火に着せたくて仕方がない衝動に駆られました。でも持ち合わせはないし、何より今自分が冷静な判断と物欲と金銭感覚を保てているとは到底思えないのです。ヒート椿が勝つか、理性が勝つか、それは椿次第…。が、

「椿」
「?」
「見てみ」

花火はいつの間にかジャケットを脱ぎ、後ろの襟に付いていた値札をヒート椿に見せました。するとどうした事でしょう、あっという間に顔の赤みが引いていつもの椿に戻りました。そして椿は、ぶんぶん顔を横に振りました。

「せやろ」

今度はこくこくとうなずきました。

「ま、諦めが肝心や。試着はタダやもんな?」

今度はゆっくりしっかりうなずきました。

「ワイのはもうええやろ」

椿はこくっとうなずきました。確認した花火はカーテンを閉め、ゴソゴソを着替えてまたカーテンを開けました。いつもの花火の服装に戻っていました。

「ん。やっぱこの方がしっくり来るわ」

着慣れた服の感触を味わい、花火は少しの安堵感を覚えました。

「私のも…、見ていい?」
「構わへんよ」

花火のOKが出たので、椿は自分の服を見る事にしました。椿は人の服をコーディネイトするのも好きですが、もちろん自分の服選びも好きです。ただ、椿の謙虚な性格上、自分にはこれが似合うだとかこれを着るとかわいいだとかを考えるのが苦手なので、いつもお気に入りの服を愛用するようにしています。

「ねぇ」
「んぁ?」
「これ…、似合う?」
「ん、似合っとるな」

つっけんどんな言い方です。

「じゃ、これは…?」
「あぁ、似合っとるで」

またつっけんどんな言い方です。花火は周囲をきょろきょろ見て、椿が自分に合わせている服をまともに見てもいません。

「…ちゃんと、見てる?」
「いや…」

花火はそっちに集中できない状況なので、さっきから生返事ばかりです。

「…なぁ」
「?」
「メッチャ恥ずいんやけど」
「あ…」

自分の服を見るのに集中していた椿は、花火の方に気を回す事ができませんでした。女性用の服が並んでいるコーナーとあって、さすがに鈍感な花火も居づらさを感じているようです。店内は女性客が多く、いくら付き添いとはいえ男が婦人服コーナーにいるというのは社会的に"アレ"でしょう。

「えと…、他の所…いる?」
「まぁ、それしかあらへんやろ」
「ごめんね…、早く終わらすから…」
「えぇって、気ィ済むまで見とけな」

言って、花火はテキトーに店内をブラつき始めました。花火を見送った椿は、服選びを再開しました。



しばらくて、椿の所に花火がやって来ました。

「椿っ」
「?」
「椿に似合うとびっきりえぇ服見つけたから、ちと目ェつぶっといて」
「え…、うん…」

ぶしつけで胡散臭い話だけど、とりあえず言われるがままに目をつぶりました。

「今持ってくるわ」

花火は駆け出してその服を取りに行き、走って戻ってきました。

「目、開けてええよ」

言われるがままに椿が目を開けると、目の前には…

ドバチーン。

服の説明をする前に、椿は顔を赤くして花火を全力で平手打ちしました。花火は悶絶していました。

だってその服は、紫色でスケスケのネグリジェだったのですから。



「523円になります」

椿はレジでお金を支払いました。結局、購入したのは子供用マフラー一点のみです。店を出て元来た道を戻り歩き出す二人。

「太陽のマフラー、前から使っててもう古くて…」
「マフラーが500円で買えんやもん、えぇ店やな」

うんうんと椿は嬉しそうにうなずきました。ちなみに太陽とはおなじみ椿の弟です。

「他 別に寄らへんよな?」
「うん」
「ほな、帰ろか」

お好み焼きも食べたし試着会もしたし、本日の午後を満喫したところで二人は家路につきます。元来た道をさらに戻り、反対の道に渡ってから駅方面に向かって歩き進めます。駅前のデザート屋さんから漏れ出すあまい香りをモロに食らった花火は、

「あぁ~小腹空いたぁ」
「ガマン…できる?」

花火はこくっとうなずきました。

「おウチ帰ったら何か作ったげる」

花火はこくっとうなずきました。

駅に着いて自動改札に定期を通し、陸橋を上り、降りて、ホームで電車が来るまでの間、二人はガムを噛んで待っていました。電車が来て乗った途端に花火は寝の体勢に入りました。

「花火くんっ」
「ん~…?」
「たまには起きてようよ…」
「せやかて、眠いんやもん…」
「景色、ちゃんと見たことある…?」
「たぶん…あらへんな…」

もうすでに喋り方が睡眠突入を窺わせているので、椿は今日こそ起きていてもらおうと思い、作戦に出ました。

「寝たら何も作ってあげないっ」

作戦というよりは交換条件ですが、花火にとっては大きな痛手となるので、背筋をぐっと伸ばして、

「たまには起きとるのもええか…」

あくびをしました。椿はちょっと嬉しそうです。

電車が発車してガタゴト揺られ、眠りそうになる花火は寝ないようにと必死になっています。椿のメシが食いたい、という単純な理由で。

「ん…、椿」
「?」
「なんやあれ」

花火が指差す方向を椿が見ますが、前方は建物が多数あってどれを指しているのかわかりません。

「どれ…?」
「ほれ、あの茶色い屋根の右の」

言われた通り茶色い屋根の隣の建物に目をやると、そこには壁も屋根も全てピンクで塗られている妙な二階建ての民家がありました。

「…変な趣味の家」

椿の回答です。

「なんかの店ちゃうん?」
「わかんない…」

というか、椿のセンス的には近付きたくない家です。

「変わった家があるもんやな」
「ああいうの、嫌い…」

壁も屋根も全てピンク色の家なんて、そんな家なんて…。



しばらくして乗換駅に着き、半分眠りかけていた花火を起こして反対ホームですでに待機していた電車に乗りました。花火はもうアカンと言って眠ってしまいましたが、椿は無理に起こそうとはしませんでした。その実、椿もちょっと眠くなっていたのです。ここから降りる駅までしばらくあるし、少しくらいは寝ても大丈夫だと思い、二人は眠ってしまいました。



ふと、花火が目を覚ましました。他に乗客はおらず、17時なので外はもう暗くなっています。右を見れば、すやすやと気持ち良さそうに眠る椿がいました。かすかな記憶を辿ると、確かこの景色は降りる駅よりも手前だったはずです。一人する事なく、ぼーっと電車に揺られていました。

しかし、花火にそんな落ち着きはなく、ヒマ潰しの標的をおやすみ中の椿に向けました。椿は眠ったままで、電車の揺れでも起きないのだから多少イタズラしたって気付かないだろうと悪巧みました。思わず顔がニヤリとします。

そりゃあ花火だって男の子ですから、女の子に興味がないわけがありません。もちろん椿は女の子ですから、花火が興味を沸かないわけがありません。ましては今椿は寝ている最中で、花火は普段やったら何をされるかわからない事をしてやろうと思い、花火は事もあろうに椿の胸を触ろうとしています。当然ですが、起きないようにバレないように、少しだけのつもりで。他の乗客はいないし運転手だって運転に集中しててイチイチ乗客を監視しているわけじゃないのだから、他人の目を気にする必要はありません。男としての貞操は気にする必要大有りですが。

花火は左手の人差し指をゆ~っくりゆ~っくりと胸に近付け、後少しで触れ

『多伎町~ 多伎町~』

着駅アナウンスに気付いた椿が目を開けると、今にも胸に触れそうな花火の指がありました。

ドバチーン。