じりりりりりりり…カチッ。

ZZZZzzzzZZZZzzzz...

「キーィート!」

ソファに眠っていたオレに対し、千夏のフライングボディプレスが炸裂。叫ぶ間もなく悶絶する。

「遅刻しちゃうよ! ほら起きて!」
「遅刻したって客なんか来ねぇよぉ…」

苦痛混じりに言う。

「もしかしたら今日は大入りになるかもしれないでしょ!」
「まっさかぁ…」
「もぉ! 起きなきゃレッカ―」

反応し、凄まじいスピードで上半身を起こす。頭がぶつかりそうになって、目を見開いて驚く千夏。

「…今日は大入りになるかもなぁ」

目を点にしていた千夏も、いつもの笑顔を取り戻して、

「うんっ」

大きく頷いた。

寝ていたソファから降りて朝の用を足して、千夏が準備してくれていた服に着替える。
今日も暑くなるだろうから、メッシュ素材の薄いものを用意してくれた。気が付くいいコだ。

着替え終わって、台所に向かった。朝のメシ作りに取り掛かる。

「さーて何をお求めですか」

カウンターの向こうのソファに座った小さい女の子からオーダーを取る。

「オムレツ!」

小さくズッコケ。

「…ちょっと」
「ふぇ?」
「昨日、なに食った?」
「冷やし中華」
「材料は」
「えと…、麺とハムとタマゴと、」
「ほれ、タマゴ」

千夏が訝しげな顔で首を傾げた。

「タマゴ使ったろ。結構値ェ張るんだから、そんなにいっぱい使ってられん」
「寝る前から決めてたのにぃ…」
「あきらめろ」
「…うにゅ」

ガッカリいっぱい、俯き45度、空腹満点な千夏。ちょっとかわいそうではあるが。

「その代わり」
「?」
「夜は野菜カレーな」

千夏の顔はまたパァっと明るくなって、さっきみたいに大きく頷いた。朝から元気だこと。

出来上がったツナサンドを一緒に食べて、空いた皿はやっぱり千夏が洗った。

「…て、と」

食休みを終え、ヒザをパンと叩いてソファから立ち上がった。

「あ、行く?」
「あぁ」

皿洗いがちょうど終わったようで、手の水を切りながら千夏が言った。
リュックサックを掴んで、そのまま玄関へ歩く。追うように千夏も小走りで玄関に来た。

「がんばってね♪」
「ん。お家のために、」

靴を履きながら言って、履き終わってから千夏に振り返って、

「千夏のために」

右手の中指と人差し指をピッと立てながら言った。千夏の朝からのハイテンションに倣ってやってみたが、
あまりの恥ずかしさに顔が真っ赤になった。それでも千夏は、とびきりの笑顔を見せた。
で、いつもの『行ってらっしゃいのキス』をされたわけだが、今日は長めだったりして余計に恥ずかしい。

千夏に手を振られながら玄関を開け、外界へと歩み出した。

…暑ィ。

すでに半分以上イヤイヤモードではあるが、元気に送り出されたのだから数秒で帰るわけにもいかない。
マンション脇の階段を降りて(エレベータくらい付けろ)4階から1階へ、毎朝見送ってくれる管理人のおば
あちゃんに挨拶をして行く。

マンションは比較的新しめの築5年、林に囲まれた駐車場と5階建てが場違いな雰囲気を発している。
大きな林の切れ目が道と駐車場のつながりになっていて、道は一車線の裏道的な存在だった。
道も林に挟まれながら真っ直ぐ続いていて、途中右側に変電所が林に埋まるような感じで建っている。
反対方向に進むとお世辞にも幅広とは言えない国道に出るが、駅はこっちの方向だ。

しばらく歩いて出た通りは、線路に沿った細い道だった。侵入防止の有刺鉄線が腐った木に絡みつく。
アスファルトも継ぎ接ぎだらけでボコボコで、車で走ったら間違いなく酔いそうである。

左に曲がって線路沿いを少し歩けば、この町、いや村で一番でかい通り、いわゆる大通りに出る。
右手には駅があり、駅を出ると目の前に地平線まで見えかねない大通りがあるシンプルな構造だ。
その駅というのも世辞にも大きいとは言えず、当然のように無人で単線なのだ。

くたびれた木造駅の改札を素通りし、周囲に畑や田んぼの広がるホームのボロベンチに座る。
背もたれにはやはり当然のように乳製品のロゴが描かれていて、しかもかなり古いものだ。

「あー…」
「!」

いきなりの声に驚いた。辺りを見回すと、真横に男老人が立っていた。気配は全く感じられなかった。

「次の電車はいつ来ますかな?」
「あ、あぁ、そろそろ来ますよ」
「おぉそかそか、ありがとさんや」

そして老人は線路の方に向いて、杖もなく腰を曲げて立っていた。

「あ、いや、座った方が」
「? おぉ、これはこれは、気の利く好青年じゃわ。ありがとさんや」

クセになりそうなゆっくりした口調で、よっこいしょと言いながらベンチに座った。

「時にお兄さん、どこへ行かれるのですかな?」
「仕事で三浦町に」
「ほほぉ、精が出ますなぁ」
「おじいさんはどこへ?」
「ワシも三浦にの。ボケんよーにゲートボールをしに行くんじゃ」

老人はふぉっふぉっふぉと予想通りの笑い方をした。つられて微笑する。
この村でこんな光景は日常茶飯事だから、もう随分と慣れたものだ。最近は楽しくも感じる。

電車が来た。パンタグラフもなければ電線もないディーゼルで、車両の前後にはやはりワンマンの文字。
老人の補助をしながら電車に乗り、三浦町までの数分間、また色々と話していた。

到着した三浦駅は何故か有人駅。定期を見せて、老人は切符がないので乗った駅を告げて料金を払った。

「こんな老いぼれの話を聞いてくれて、ほんにありがとさんや」
「いえいえ」
「また会えたらいいですなぁ」

老人はヘラヘラと手を振りながら、線路沿いの道を歩いて行った。

三浦駅前の構造はオラが村とほぼ同じであり、違っているのは一部の建物が2階だったり3階だったり
する程度だ。一応、町外れに高校はあるが、近い内に潰して近隣の高校に吸収という形になるそうだ。
申し訳程度にタクシーが一台止まっているが、中には誰も乗っていなかった。需要は無に等しいだろう。

駅を出て大通りを少し進んだ左手、T字路の角の3階建ての1階がオレの仕事場だ。
木目調の茶色い壁に大きなガラスがあって、静かであたたかな雰囲気をかもし出していた。
閉まっている時はカーテンがしてあるから中は見れない。

ドアを開け、中に入る。中は天井から床から椅子からテーブルから全て木製で、
キッチンを除けば完全統一がなされていた。これも店長の強いこだわりの賜物である。

店は長方形で、狭く感じないようにテーブルを少なめにして踊り場を増やしている。
キッチンは左奥に角付けされていて、カウンター席もある四角く狭いスペース。キラキラと銀色が光る。
キッチン脇を通って奥はトイレやロッカールームやその他諸々。天井にはシーリングファンが回っている。

ちなみに、空調は効いているから心配する必要はない。

「おぉ秋人くん、おはよう」

これが件の店長、名前は忘れた。6、70歳くらいの落ち着いた風貌で、ふさふさな白髪を持っている。
身長は小さめの153cm。奥さんにはすでに先立たれていて、ゆったりした老後(経営?)を過ごしている。
しかし謎なのは、いつも釣り用のベストを着ている事だった。釣りが趣味でもないらしく、不可解なままだ。

店長は上がっていたテーブルの椅子を1つ降ろして座り、新聞を読んでいた。

「おはようございます」
「今日も暑いねぇ」
「脱げばいいじゃないですか、そのベスト」
「どっこい、見た目より暑くないんだ。着てみるかい?」
「…遠慮します」

店長はゆっくりした優しい口調で、しかし発音はしっかりしていて、声が浮いている感じである。

店の奥の狭いロッカー室に入って、意味がない気もするが純白のコック用の制服に着替える。
さすがにトンガリ帽子をかぶるのは嫌だから、いつも赤くて迷彩柄のバンダナを巻いている。

「おはようございまーす!」

奥から戻ってくると同時に、ドアが開いた時のカランカランという音、直後に店内に黄色い声が響いた。

「おはよう琴美さん」
「おはよ」

店長とオレ、ほぼ同時に挨拶する。琴美は2人の横を会釈しながら通り過ぎ、ロッカールームに入った。

斉藤琴美、22歳。2つ年上の先輩だ。髪は飾りもしていないまとめただけのおさげが後ろに2つ。
飛び出た髪、小さい竹ぼうきと言えばわかりやすいだろうか。とは言え髪質が良い分整ってはいるが。
身長は千夏に負けず劣らずの153cm、こちらは自分の身長が気に入っているらしいから問題はない。
性格は見ての通り活発で、しかし千夏のようなものではなく、どこか律儀でイキイキとした感じだ。
未だ顔に残るほのかなそばかすが幼さを感じさせる。

千夏に似ている、といえばそうかもしれない。…メガネを除けば。

ロッカールームから出てきた琴美はノースリーブにカジュアルパンツ、その上には茶色いエプロン。
まず始めたのは上がっていた椅子を降ろす作業。オレも手伝って、店長はそれを見ている。
降ろし終えたらテーブルを布巾で拭く作業。琴美の手早い作業ですぐに終わってしまった。

朝の準備を全て終えた頃。

「さて皆の衆、始めますかな」
「ん」
「はーい」

店長の一声でカウンター席に集まる。店長はキッチンに入って湯を沸かし、急須に注いだ。
毎朝恒例の茶飲み会である。店長が知り合いからもらってくるお茶を、自分一人では飲み切れないからと
オレや琴美と一緒にこうして開店前に飲む。毎日欠かさず行う、日課のようなものだった。

2人の前に湯呑みが置かれた。店長は自分の分を持ってオレと琴美の間の席に座る。

「今日も一日、無事でありますように」

店長が言って、ズズズと茶を飲んだ。後に続くようにしてオレと琴美も口にした。

「あ、そうだ店長」
「ん?」

琴美が立ち上がり、ロッカールームに走ってすぐに戻ってきた。持ってきた自分のサイドバックから
透明のビニールを取り出してカウンターに置いて、ビニールを開けて中身を出した。温泉饅頭だった。

「両親が旅行から戻ってきて、そのおみやげです。お茶に合うかなーと思って」
「これはこれは、ありがとう琴美さん。ご両親もぜひウチにお招きしたいですなぁ」

琴美は照れ半分、苦笑った。その理由は一応知っているが、店長は知らない。

オレも温泉饅頭を頂いて食べた。お茶と合ってメチャクチャうまい。ほっぺたが落ちた気がした。

饅頭も食べて茶も飲み終えて、店長が時計を見た。

「ではでは、そろそろ開けましょうか」
「ん」
「はーい」

まず動いたのは琴美だった。閉まっていたカーテンを開け、外からの眩しい太陽の光が―
琴美が小さく驚き、気付いたオレもキッチンの椅子から立ち上がって見て、やはり驚いた。
店の前に、すでに客がいたのだ。スーツ姿の初老の男性が1人、まだまだ元気な髪を生やしている。
同じく客を見た店長は珍しく咄嗟に立ち上がり、スーツ姿の客にどーもどーもと会釈をしていた。
相手も同じようにしているが、午前中でもかなりの暑さなのだろう、額から吹き出す汗を拭っている。
店長自らドアを開けて客を招き入れ、琴美も慌てつつ通常の接客を始めた。

オレがここに来て以来、開店直後の来客は初めてだった。琴美も驚いているのだから珍しいことなのだろう。

「いやいやその節はお世話になりましたな」

と店長。すぐそばのテーブルに客を座らせる。

「いえいえこちらこそ、あの時はとても助かりました」

と客。座ってもなお何度か会釈と汗拭き。

「お水、どうぞ」

と琴美。店長と客の話の盛り上がりを考慮し、持っていたメニューは渡さなかった。

誰がどう見ても店長より客の方が年齢は下だ。そして誰がどう見たって初対面の客ではない。
となると、ヘタに料理の手を抜けないのだ。客が店長のおつながりともあればお給金にも関わり兼ねん。

2人が話し始めた隙に、琴美は角に置いてあった照明の点く小さい立て看板を店の外に運んだ。
コンビニの看板を思いっ切り叩いて背を低くした物と言えば分かりやすい。
その看板には、緑色でポップかつやわらかな字体でこう書かれていた。

『もりのなかのレストラン am10:00~pm6:00』

命名主はもちろん、店長。



店長と客の談笑はしばらく続いていた。久々の再会で募る話はてんこ盛りって感じか。

「秋人さん」

驚いた。琴美がいつの間にかキッチンに入り、オレの横に立っていたのだ。

「あの人、誰ですかね?」
「さぁな」
「気になりません?」
「全然」
「店長目当てのお客さんって珍しくないですけど、あの人は初めてです」
「―もしかしたら、ウラな関係だったり」
「えっ!?」

琴美が目を見開きながらオレを見て、口を両手で押さえてやや引き気味な体勢。

「…真に受けるな」
「あっ、そ、そうですよね。あたしってばすぐ…」

冗談なんだか本気なんだか、琴美は冗談を冗談と取れないことが多い。その後の軽い赤面も恒例だ。

不思議に思う読者もいるだろうが、琴美は何故かオレを『年上』として扱う。言葉遣いも呼び方も態度も。
秋人さんなんて呼ばれるしいっつも丁寧語だし結構気も利いてくれる。オレがここに入ってすぐの頃は
本当にやりづらくてしょうがなかった。悩みに悩んだ結果、今のような逆転した上下関係が成立したわけだ。
とは言えやはり先輩であるから多少遠慮したり、横柄な態度は取らないよう気をつけている。

「そろそろ肴が欲しいですな。おーい琴美さん」
「あ、はーい」

待ってましたよと言わんばかりにキッチンを出てメニューを持ってテーブルへ駆けていく。
客がメニューを受け取り品定めを始めた。

少ししてメニューが決まったようで、琴美がカウンター越しにオーダーを言い渡す。

「デリハンとトマサラ、お願いしまーす」
「あいよ」

『デリシャスハンバーグ』と『トマト"で"サラダ』。命名はもちろん、店長。
休み明けということもあって力が入る。客は店長のお膝元だ、いつも以上にうまい物を作ろう。



「お待たせしました、デリシャスハンバーグとトマトでサラダです」

出来上がった料理をテーブルに運ぶ琴美。それを見た客がおぉと言って、料理を指差しながら
店長と言葉を交わす。店長が何か言いながらオレを指差して、それに従って客がオレを見て会釈をした。
腕を組んで冷蔵庫に寄りかかりながら様子を見ていたらから慌てて姿勢を直して小さく会釈を返した。
多分、『あれがウチの自慢のシェフですわ』『あぁそうなんですか』みたいな会話でもしてたんだろう。

「こんなにおいしいハンバーグは久しぶりに食べましたよ」

客が咀嚼しながら手で口を隠して言う。

「そう言ってもらえると嬉しいですなぁ」

店長が嬉しそうに言った。

ふと、思う。店長の注文はないのか。客だけが食っていてはムードバランスが悪くないか。

「琴美」
「はい?」

先輩なのに、しかも下の名前を呼び捨て。慣れないからあまり名前で呼ぶことはない。

「店長のオーダーは?」
「あぁ、店長は食べません」

質問を返す前に琴美が続ける。

「1日3食決まった時間に食べるらしくて、少しの間食以外は絶対に食べないんです」
「そうなのか」
「はい」

さすが、先人は格が違う。オレなら間違いなく食いたい時に食う。



「ありがとうございましたー」

琴美が見送り、客は炎天下に戻っていった。料理にも談笑にも随分と満足してくれたようだった。

「町内会の人でね、ご近所だから色々と付き合いがあるんだ」

店長が椅子に座ったまま、名残惜しくもまだ楽しそうにオレたちに言う。

「あの人、ウチに来るのは初めてですか?」

戻ってきた琴美が食器を片付けながら店長に訊いた。

「いいや。だいぶ前、まだ嫁さんとやってた頃に1回だけ来たことがあったよ」
「そうなんですかぁ」

聞いたことはある。オレがここに来るよりもずっと前、琴美も働いていなかった時代の話。
当時は店長と今は亡き嫁さんとで切り盛りしていて、おしどり夫婦のおいしい洋食屋さんだった。
田舎ながら客足は上々で、脱サラをした店長も思い切ってよかったと大層喜んでいたそうだ。

そんな時代もあったが、今は若い世代に託して、悠々気ままな老後を送りたいとのことだ。

それからわずか5分後に客が来た。3人組のマダムで、ちょっと早いお昼といった感じか。
琴美が接客してオーダーを取って、オレが料理を出す。店長はマダムたちとの雑談がもっぱら。



12時半の時点で客がいなければ、1時間の昼休みに入ることになっている。
さすがに昼飯は自分では作らず、店長と顔なじみの仕出し弁当屋から安く仕入れている。
客に出すための食材だからそれなりに高いし、店員が食ってしまうのももったいないからだ。
カーテンを閉めて『おひるやすみ』の札を出して、適当なテーブルに座って3人で食べる。

「今日は多いですね、お客さん」
「そうだねぇ。午前中に12人も来てくれるなんて、いつぶりだったかな」

確かに珍しい。そもそも、テーブルの数を少なくして空間を広くできるのは根本的に来客数が少ない
からである。同時に複数のグループからオーダーが来ることなんてそうそうない。

「秋人さん、いります?」

琴美がそう言って、自分の分の竜田揚げをハシで摘んでオレに見せた。
オレが唐揚げや竜田揚げが好きなことを知っているからだ。千夏なら間違いなく自分で食う。

「ん。ありがたく」

琴美がオレの弁当のゴハンの上に置いてくれた。早速口に入れ…ようとした瞬間、前に座っていた
店長が明らかな物乞いの眼差しをぶつけてきた。どうしてかその時は目が輝いているように見えた。

「…店長」
「え? あ、いや、その…、ここの唐揚げには目がなくてねぇ…」
「はいはいわかりましたあげますよどうぞ」

必殺ストレート読み。店長の弁当のゴハンの上にやや放りぎみに置く。子どもみたいに喜ぶ店長。



昼休みが終わり、午後の仕事が始まった。特に出来事はなく、普通の接客をしていた。
ただ、普通ではなかったことが1つある。客入りが半端じゃなかった。いつもの1.5、いや倍はあったかも
しれない。今日は何か運勢が良かったのだろうか、はたまたバイオリズムか風水か。神のみぞ知る。



「今日も一日ご苦労様でした」
「ご苦労様でした」「ごくろうさまでしたー」

午後6時、店を閉めて閉店のご挨拶。田舎ではあまり夜に外食するという習慣がないので
早い内に閉めてしまうのだ。オレたち店員だって家に帰って家族と夕食のひと時を過ごす。

「お先失礼しまーす」

琴美が元気な声で挨拶して店を出て行った。

「秋人くん、後は私がやっておくから」
「いや、でも、」
「お家の人が待ってるでしょう、早く帰っておあげなさい」
「…じゃあ、あとお願いします」

ロッカールームに戻って着替え、荷物をまとめて最後の挨拶をして店を出た。
夕日の空が街を紅く染める。日中の暑さは蒸し暑さに変わり、どちらにしても暑いのに変わりはない。
朝のルートを逆行して、電車に乗って降りて林に挟まれた道を歩いて、やがてマンションに戻ってきた。
管理人のおばあちゃんに帰還の挨拶をして、階段を昇って1階から4階へ。そしてオラが家の前に着く。

ピンポーン。ズドドドドド。ガチャ。

「ただい―」
「おかーえり♪」

ダッシュジャンピング抱きつき。千夏の肩がかなりの勢いでノドに直撃して、一瞬お花畑を見た気がした。

「ちょっ、バカ、中でやれ中で!」
「ふたりの愛はところ構わず~♪」

幸せそうな顔して顔をすり寄せてくるもんだから、ひっぺがすのももったいない気がして微妙な気分。
しかし、ここは4階の外廊下。いつ誰が部屋から出てきてこの状況を見てしまうか知れたもんじゃない。
とりあえず、抱きつかせたまま中に入った。靴も脱がずに棒立ちする。

「ちーか」
「ふぇ?」
「もういいだろ」
「ま~だ♪」

…悪くは、ないか。

「そうだ。千夏の言ったこと、ホントになったぞ」
「なぁに?」
「大入りになった」
「えっ? ホントに?」
「あぁ」
「わぁ~すごいすごい! やっぱりこれ、愛の力だよね?」
「…なんでもかんでも愛にされても困る」

ずっと家にいると飽きてしまうだろうし、何せ1人なのだから色々と溜まってしまうものもあるのだろう。
だからオレが帰ってくるといつもこんな感じだ。二言目には愛だの恋だの、オレの苦手分野ばかりだ。
気持ちはわかるがオレも人間だ、仕事帰りは疲れている。あまり激しい動きはしたくないのだ。

しかし、千夏と一緒にいる我が家はやっぱり落ち着くというか安らぐというか、帰り着く場所なのであった。
千夏の歓待は疲れていても嬉しい。帰りを待ってくれている人がいるのはとてもありがたいことなのだ。

それに…、まぁ、これが一番重要なことなんだが…、千夏は、好きだ。

「あ、そだ。キート」
「ん?」
「忘れてたっ」

千夏がオレの腕の中で背伸びをして、そっと『おかえりのキス』をした。

少しして離れて、千夏はオレの目を見つつ微笑みながら、

「晩ゴハン、お願いね♪」

スキップ気味にリビングに戻っていった。

オレは玄関に立ち尽くし、間抜けな顔をしたまま照れていた。

…今夜は一緒に寝てあげようと思う。いや、寝たい。