じりりりりりりり…?

鳴っていない。自ら起きたのか。奇跡だ。

開眼する。目の前には、千夏の気持ち良さそうな寝顔があった。思わず頬を撫でる。
どちらかといえばでかい部類に入るオレの手だと、小さい千夏の顔が納まってしまいそうだ。
男にはとてもマネできないやわらかくてスベスベな肌。ちょっと汗ばんでいて、しっとり感が指に伝わる。

「…千夏」

思わず声に出してしまった。小声だから起きることはないと思うが、何となく恥ずかしい。
その恥ずかしさを紛らわすかのように撫でりをやめ、仰向けになって物思いに耽っていた。

…もとい、何も考えてなかった。

ベッドの振動で千夏を起こしてしまわぬよう慎重に降り、部屋を出て朝の色々を済ませてから
いつも通りキッチンへ。献立に立ち黙考、すぐに思い付いて調理に取り掛かる。今日も暑くなりそうだ。

朝飯が完成に近付く刹那、キッチン脇のドアがゆっくりと開いた。中から出てきたのは、
ドアの丈の半分より少し大きいくらいの女の子だった。目を擦りながら、だらけたパジャマ姿。
寝る時にほどいた髪はストンとまっすぐなセミロングになっていた。

おはよ~…
「はよ」
「おきれたんだ…」
「…なぁ」
「ふぇ…?」
「…いや、なんでも」
「うにゅ…」

これといった反応もせぬまま、よたよた歩きで千夏は恒例の朝シャンをしに風呂場に行った。
姿勢を正して着衣の乱れを直せ、と注意したかったのだが…。これから朝シャンをするわけだし、
どうせ脱ぐんだからどうパジャマがだれていようがチラリと見えていようが関係のないことだった。

朝飯も出来上がり、テーブルに運んでソファに座って待っていると、まるで完成を待ち伏せしていた
かのように千夏が脱衣所からスキップで出てきた。髪型はいつもの横おさげ、服もいつもの半袖に
七分丈のズボン。朝の千夏とはまるで違う、これぞ夏だと言わんばかりの風貌だ。

「い~いニ~オイ~♪」
「1日寝かせっとうまいんだよな」

1日寝かせる料理の定番といえばカレーである。契約通り、昨日の夕食はカレーだった。その残りだ。
調理だの出来上がりだのと言ってはいたが、ただ温め直しただけなのだ。作る側としてもラクだ。

「いっただっきま~す!」
「めしあがれ。いただきます」

どうせ千夏はめしあがれなんて言ってくれないから、自らなぐさめて抱きしめるのだ。
ちなみに千夏はカレーとご飯を混ぜて食べるタイプ。別々だとガツ食いできないからだそうな。

「ごちそ~さまでしたっ!」

速。

「おっせんったく~♪ おっせんったく~♪」

食べ終えた食器を流しに付け置き、スキップしながら脱衣所兼洗濯場に入っていた。
あのハイテンションをマネしようとするとロクなことがない。見ている分には心地良いのだが…。
食べ物に例えるなら、ニオイは食欲をそそるのにいざ食べてみると吐き出してしまうキムチだ。

「…浴びっか」

ゆっくり立ち上がり、千夏のいる脱衣所へ向かいドアを開けた。

「ふぇ?どしたの?」

洗濯機に向かって液体洗剤をアレコレしていた千夏が、オレを見てキョトンとしていた。

「ちと、シャワーを」
「キートが朝シャン?」
「あぁ」
「珍しいね。いいことあった?」
「カレー食って汗かいただけだ」
「そっか」

気兼ねはない…つもりだが、一応気を遣い、千夏と正反対の位置で服を脱ぐ。

「あ、キート」
「ひぅッ!」

男の声とは思えない、まるでみっともない悲鳴。顔が熱くなるのがわかる。

「な、な、なんだ?」

振り返ると千夏は背を向け、洗濯機に寄りかかりながら口元を手で押さえて肩をヒクヒクさせていた。

「あっ、ちょ、オイ、」
「わ、笑って、ないよ、笑ってなんか」

そう言ってまた背を向けて肩をヒクヒクさせる。怒ってさっさと服を脱いで風呂場に入ると、
気付いた千夏が曇りガラス越しに話しかけてきた。

「ねぇキートぉ」
「なによ」
「時間、間に合うの?」
「軽く汗流すだけだ」
「のぼせちゃダメだよ~?」
「シャワーだっつの」

返事はなかった。聞こえるのは、シャワーの水音だけ。



「行くぞー」
「はーい」

靴を履き終えてから千夏を呼ぶ。小走りでやってくる。

「がんばってねッ」
「あいよ」
「…なんのために?」
「お家と千夏」
「うん、いってらっしゃい♪」

そして『行ってらっしゃいの云々』。手を振って見送られ、階段を降りて管理人のおばちゃんに挨拶して。

駅に着くと、また昨日の老人がいた。杖で立ってポケ~っと畑の地平線を見ている。

「あの~」
「…」
「もしも~し」
「…ほ? およよ、なんですかな?」
「あ、いや、座った方が」
「おぉこれはこれは、お気遣いありがとさんや」

よっこいしょと座る老人。オレのこと、忘れてしまったんだろうか。珍しいことじゃないが。

「時にお兄さん、どこへ行かれるのですかな?」
「あっ、えっと、仕事で三浦に」
「おぉ偶然ですな、ワシも…、を?」
「?」

老人は黙考して、それから杖を持った拳で空いた手の平をポンと叩いて、

「あ~あぁ、昨日のお兄さんでしたか。こりゃ気付かんでスミマセンや」
「いえいえ。今日もゲートボールを?」
「いんや、ちと俳句の方をやってましてな、それの集まりですわ」
「俳句ですか。いいですねぇ」
「まぁ、道楽でやってるもんですからなぁ、死ぬまでの暇つぶしですわ」

ふぉっふぉっふぉと予想そのままの相変わらずな笑い方。つられて微…苦笑する。

「失礼ですがお兄さん、何のお仕事をしてらっしゃるのですかな?」
「洋食屋のコックしてます」
「洋食屋…? はて。三浦の…、おぉ、もしや『もりのなかのタンバリン』ですかな?」
「あ、いや、タンバリンじゃなくて、レストランです」
「あ~そうでしたな、スミマセンや」
「いえいえ。ご存知なんですか?」
「一度だけ行ったことがありましてなぁ。お兄さんには申し訳ないが、老いぼれには洋食っちゅーもんは
あんまり合わんみたいですわ」
「そうですか。仕方ないですね」
「しかし、はてな? あそこのコックは店長さんがやっておられるのではなかったですかな?」
「あぁ、前はやってたみたいですけど、今は引退してオレが」
「ほ~、なるほどですなぁ。もしよければ、俳句の人たちと一緒にお邪魔させてもらいますわ」
「え、でも洋食は…」
「えらい前の事ですからなぁ。舌もボケてるかもしれませんや」

ふぉっふぉっふぉ。自分でも驚くくらい、老人との話が弾む。昔 旅していた時はたくさんの年配の方に
お世話になった。世間話の一つや二つも、老人にとってはお礼の内だと誰かに教わった。

やがて電車が来て、到着するまでのわずかな時間も他愛のない話に華を咲かせた。
三浦に到着し、定期を見せて駅を出て、老人はまだ同じ方向へ歩いて行った。
ゲートボールと俳句は同じ会なのだろうか、などと考えつつ、仕事場に入っていく。

「おぉ秋人くん、おはよう」
「おはようございます」

店長は相も変わらず椅子に座って朝刊を読んでいた。もちろん釣り用のベストを着て。

「台風が来るらしいねぇ」
「今日ですか?」
「いや明日なんだけど、ちらほら雨が降るみたい。客足が遠のくなぁ…」
「天気には逆らえないスから」
「てるてる坊主でも作ろうかなぁ…」

ロッカールームに入ってコックの制服に着替え、ビシリと気合を入れてバンダナを縛る。

…縛りすぎるとフラフラする。

「おはようございまーす!」

斉藤琴美ここに推参、と。

「おはよう琴美さん」「おはよ」

またほぼ同時に挨拶する。

「台風が来るみたいですねぇ」
「う~んそうなんだよ…」
「天気はこんなにいいのに」
「昼過ぎから降り出すって朝言ってたけど、まいったなぁ…」

そんなに雨が嫌いなのか。梅雨時は店開けてなかったんじゃないかと不安になる。

「みんなでてるてる坊主作ります?」
「うんそれ、さっき秋人くんとの話したんだけど」
「い、いや、オレは…」

拒みかけた瞬間、二人の目から凄まじい眼光が飛んでくる。

「…やります」
「じゃ、早速作りましょうか」

嬉しそうな顔をしながら琴美は着替えついでにてるてる道具を取りに行った。
本気で作るのか。てるてる坊主なんて小学校で作って以来だ。てれるな。なんつって。

てるてる作りの前にまず店の準備だ。椅子降ろしとテーブル拭き、今日はキッチンも丁寧に拭く。
だいぶ使い古しているはずなのに、未だその銀を失うことなく輝き続けているのだから驚きだ。

準備を終えて。

「皆の衆、そろそろ始めましょう」
「ん」
「はーい」

毎朝恒例の茶飲み会。店長直々に湯呑みに注ぎ、各々のカウンターに置いた。

「今日も一日、無事でありますように」

店長がズズズと飲み、後に続いてオレと琴美もゆっくりと飲んだ。熱ッ。

「さて、お客さんが来る前に作りますか」
「何個作ります?」
「そうだなぁ…。秋人くんと琴美さんが2個、私が3個でいいかな?」
「わかりました」
「い、いや、オレは…」

目から怪光線でも出そうな眼光が飛んでくる。

「…2個作ります」
「はい、じゃあお願いします♪」

まるで備えてあったかのようなちょっと質の良いティッシュに、輪ゴムとマジックを渡された。
黒一色でいいだろうはずが何故か赤まである。とりあえず奥にあるのを持ってきたんだろうか。

「なに描こうかな~?」
「なんでも好きにお書きなさい」
「う~ん…」

ただでさえやる気のないオレだ、何を描こうかなどという悩みにすら到達していない。
こんなもん別にへのへのもへじでいいだろ、とマジックのフタを取って描―
意外に悩むもんだな、と改めて考える。せっかく描くんだからさすがにへのへのじゃもったいない。
しかし何も描くものなんかないし、千夏一人描いたって片方が余る。自画像なんて勘弁だ。

「で~きたッ」

完成一号は琴美だった。妙に頭でっかちだが、デッサンスペースを広くしたためだろう。
片方はキセルをくわえて点々ヒゲで目がキリリと釣り上がったほぼスキンヘッドの男。
片方はウェーブの入った髪に優しい笑顔で口元にホクロのある女。
てるてる坊主に描かれた絵からこれだけの情報が得られるのだから、琴美は絵心があるようだ。

「これは誰の顔かな?」
「ウチの両親です。といっても若い頃のなんですけど」
「…すげぇ親父さんだな」
「大恋愛だったらしくて、親に反対されてカケオチ同然で結婚したって言ってました」

ぎくっ。

「すごいねぇ琴美さんのご両親は。私なんてただのお見合いだったよ」
「お見合いもいいと思いますよ? 店長、ケンカもほとんどした事ないって言ってたじゃないですか」
「おしどり夫婦か」
「でもねぇ…、ケンカするほど仲が良いって言うし、もうちょっと波乱万丈があっても…」
「もうなに言ってるんですか、平穏無事が一番ですよ」

ぎくぎくっ。

「一度だけ『浮気してやろう』って思って、でも相手がいなかった、なんてこともあったなぁ…」
「ダメですよ浮気なんか。秋人さんは結婚しても浮気なんかしませんよね?」
「ん、いや、そりゃ、まぁ」

しまった、困惑して返事がどろどろだ。

「さて、私の方ももう少しだ」
「あ、すいません邪魔しちゃって」
「いやいや、首を突っ込んだのは私の方だよ」

っと、オレもだ。もう少し~どころかまだ何を描こうかも決めてない。マズイな。

「よし。できた」
「わっ」
「う…」

店長の作品を見て、琴美は驚いて食い入り、オレは唖然となっている。

「これ…。私たち、ですか…?」
「そのつもりで描いてみたんだけど、やっぱり似てないね」
「そんな、似てないだなんて…こんな…」

琴美が代弁してくれるので無理に口にはしないが、マジックで描いたとは到底思えない『絵』だった。
ティッシュの表面はデコボコかつやわらかくて不安定なはずなのに、なのに…。
素人のオレには形容できないくらいの、まるで美術館の立体作品の一つのようだった。

「て、店長、すごいじゃないですか! こんなに絵が上手なら、コンクールとか色々、」
「やってたのは昔の話だよ。当時は絵どころじゃなくて、食べていくだけでも大変だったからねぇ」
「あ…、ごめんなさい…」
「謝ることはないよ琴美さん。それに、どちらかといえば料理の方が楽しかったよ」
「店長…」

こういうシーンのコメントは難しいが、強いて言うなら『店長の尊敬度アップ』か。

「これが私で、こっちが秋人さんで…、この方は?」
「嫁さんだよ」

聞いた琴美が少し驚き、てるてる嫁坊主をじっくりと見て、

「綺麗な女性ひとだったんですね…」

ただのてるてる嫁坊主に琴美が見入っている理由、描き手が他でもない店長だからだ。

「私が言うのもなんだけど、結構自慢の美人妻だったよ」

そして二人でアハハと笑った。

「あ、秋人さんできました?」
「…」



まだ外は快晴だが、善は急げと言うものだ。暴風で飛んでしまうのを危惧にして、入り口の
近くに吊るすことにした。店長が嫁坊主、琴美坊主、オレ坊主。琴美が父坊主、母坊主。

そしてオレは、ダブルへのへのもへじ。

「少し遅れたけど、そろそろ開けるとしますか」
「ん」
「はーい」

外は快晴、勝負は午前中とみた。雨が降る前に全力投球だ!



「お客さん来ませんねー…」

テーブルに突っ伏した琴美が、顔をぺっちゃんこにして言った。

「まぁ、こんな日もあるかな」

店長が事もなげに言った。

「お客さんも来なそうだし、早いけどお昼にしようか」
「あ、じゃ私、一応時間まで番しときますね」
「おぉ、それは助かるよ。ありがとう琴美さん」
「お安い御用です」

オレと店長は奥の部屋に入り、将棋で時間を潰すことにした。

「前回の雪辱晴らし、手ェ抜きませんよ」
「お手柔らかに」

オレと店長の将棋一本勝負が始まり、数分後。昼休みに入る5分前のこと。

「王手」
「…参りました」

また負けた。何故だ。序盤は速攻が決まるのに、何故後半でいつも逆転されるんだ。
これが先人の先を読んだ手というものなのか。若さのパワーだけじゃ将棋はまかり通らんか。

一方、店。

「ふわ…」

小さなあくびをした琴美は、来店してきた一人の女性客に驚いて慌てて立ち上がった。

「あ、い、いらっしゃいませッ」
「こんにちはー」

髪は青くて横におさげ、幼い顔立ちに小さな身長、元気な明るい声。見るからに中学か高校生だ。

「こちらへどうぞ」
「ども」

琴美が椅子を引き、女性客が座る。小走りでメニューと水を取りに行き、戻ってくる琴美。

「こちらがメニューになり、」
「あ、メニューはいいです」
「え?」
「『キートのスペシャルランチ』を一つ、お願いします」
「キ、キート…?」
「あ、コックさんにそう伝えて下さい」

笑顔でしっかりと言う女性客にやや戸惑いつつ、言われる通りに、

「か…かしこまりました」

言われる通りにだが、やはり疑問や困惑は隠せず、思わず声の威勢がなくなってしまう。
その感情をお客様に読み取られないようにすましつつ、奥の部屋にやってきた。

「あの、秋人さん」
「ん。客か?」

敗者の証、店長の肩揉みの最中だった。

「はい。でも…」
「オーダーは?」
「それが…、その…」
「?」

何をためらっているんだろう。

「『キートのスペシャルランチ』と伝えてほしい、って…」
「ブッ」

何かが弾けた気がした。身体が熱くなって、何故だか急に焦り出した。恥ずかしいような嬉しいような
怒っているような泣けるような。琴美をやさしく退けて早足で店へ出て、全体を確認して、

「やっほ~」

…ヤッパリ。

「来るなって言っ…てないけどさ、」
「いいじゃない、売り上げ貢献♪」
「出るのはウチの家計からだぞ」
「気にしないのッ。 お腹空いてるんだから早く作ってよぉ」

語尾を甘えた声で締めた。へぃへぃやれやれ。千夏の座っている反対側に両手をついて向かい合う。

「…で。なんにしますか」
「だから、キートのスペシャルランチ」
「メニューの中からお願いします」
「ふぇ? ないの?」
「あるかンなもん」
「ほらよくテレビとかで『極うま裏メニュー』ってスタッフだけに出すまかないとか」
「…あのなぁ、」
「ねぇつくってつくって~」

お客様のご要望には無理がなければできるだけ応える、と教わったつもりだが、
こういう状況の時はどうすればいいか。店長判断を仰ぐのもバカらしいし…。

「ちゃんと材料費と手間賃分取るからな」
「りょーかい♪」

ビシッと決めた中にもあどけなさの残る千夏の敬礼を確認して、思わず鼻笑い。

さて、何を作るか。今まで当たり前だがメニューからしか注文されたことがなく、今日のような
『すぺっさるらんち』だかなんだか知らないが、そんなものを注文された前例などなかったのだ。
一応は客だし粗暴な物は作れない。材料の問題もあるし、千夏の舌にもよる。

…よし。決めた。



「おまたせしましたーおむらいすでーす」

必殺棒読み。

「わぁ~おいしそう♪」

考えに考え、出来上がったのはシンプルなオムライスだった。

「昨日の朝食いたがってたろ。店でならいいかなと思ってな」
「うん、ありがと♪ いっただっきま~す!」

笑顔のままガツガツと食べ始め、ん~おいしと合間に言ってまたガツガツ。

じつは、メニューにオムライスはある。しかしソースがケチャップではなくデミグラスなのだ。
千夏はデミグラスはあまり好きじゃないと言ってたし、ならケチャップでどうだと思い作ってみた。
パッと見はカンペキに我が家で作ったのと同じだが、中身のチキンライスにメニューと違う工夫がしてある。
細かいことは企業秘密だが、そもそも素材の質がスーパーで買う物より断然良い。

「キート、お昼は?」
「いや」
「ちょっと食べる?」
「客のメシ食ってどうする」
「あはは、それもそだね」

とは言ったものの、見ていると腹が減る。店員というのはこういう時に厳しく思える。

「ごちそ~さまでしたっ!」

速。

「お冷くーださい」
「あいよ」

両手で丁寧に差し出されたコップを手に取り、セルフ式と同じ給水機で水を注ぐ。
その隙に奥から店長がひょっこりと顔を出し、千夏と目が合ってお互い会釈をした。

「いかがでしたかな? お味の方は」
「とってもおいしかったです」
「そうですか、それは良か…?」

店長が千夏が食べ終えた皿を見て首を傾げた。

「失礼ですがお嬢さん、何をお食べになられましたかな?」
「オムライスです」

それを聞いた店長はますます訝しげな表情になり、水を運ぼうとしていたオレを呼び止めた。

「な、なんスか」
オムライスをお出ししたんだよね?
「え、えぇ、ケチャップですけど
デミグラスソースが切れたのかな?
「い、いや、お客の要望で」
「ほ。なるほど」

ようやく合点がいったようで、納得の笑みを浮かべた。

「あの、店長、」
「なんですかな?」
「オレ、その、こっちで昼食っていいですか?」
「?」

店長は再びハテナな顔になり、

「もしやお二方、お知り合いですかな?」
「あ、はい、一緒むぐ…」

あああ危ねぇ、千夏に喋らせたら全てが暴露される。慌てて千夏の口を押さえる。

「マ、マンションがとと、隣なんですよ、ハハハ」
「ほぉ、そうでしたか。ごゆっくりしてってくださいな」
「むーむー」

店長が奥に戻り、押さえていた手を放す。千夏がぷはぁと息を吐いた。

「隠さなくてもいいのにぃ」
「…この心情を汲んでくれ」

自分でもよくわからん、わからんが、非常に情けない顔をしているのはわかる。

「メシ取ってくる」
「うん」

奥に入ると、恐らく琴美が気を遣ったのだろう、店長が先にお昼を食べ始めていた。
その琴美が、何故かオレを心配そうな目で見つめてくる。心配の矛先はオレじゃない何か。

「なんだ?」
「へ? …あ、いえ、なんでも…ないです」

何もしていないのに、いきなり恥ずかしがって目線を外された。琴美らしくない行動だ。

弁当を持って店に出る。千夏は両手を組み、その上にアゴを乗せて待っていた。

「ねぇキート」
「あ」
「ここの人ってみんなそのお弁当なの?」
「ハイ」
「あ~ぁ、わたしが料理できればお弁当作ってあげれるのになぁ」
「…なるほど」

テーブルの上に弁当を置き、割箸を割ったと同時に気付く。

「自分で弁当作って持って…ッいや、早起きできるわけねぇか」
「わたしが起こしてあげよっか?」
「毎朝プレスされたら2mmになっちまう」
「だってキート、起きないんだもん」
「プレする前にちゃんと起こしてるのか?」

魚のフライにしょう油を掛け、バクリ。

「起こしてるよぉ。ゆさゆさしてもあーあー言っても全然起きないんだから」
「プレスは最終手段として、ぐらぐらとかうらーうらー言って起こしてみろ」
「…うん、そーする」

ちょっと残念そうな顔をしたってことは、結構気に入ってたんだなプレス。勘弁してくれ。

柴漬けをボリボリ食ったりポテトサラダをがっついたりエビの天ぷらを噛みちぎったり。
千夏のおかげで食う時間が遅くなったから、いつもより食欲は旺盛だ。千夏ほどではないが。
…ふと、ライスを口にかき込む姿勢のまま、上目遣いで千夏を見る。

「よだれ」
「ふぇ!?」

慌てて手の甲でよだれを拭う千夏。

「ほれ食え」
「あ…、ありがと♪」

残っていた魚のフライを箸で取ると、あ~んと口を開ける千夏。

「…自分で取れ」
「え~、食べさせてよぉ~」
「嫌だ」
「むぅ~」

スネた千夏はズイと身を乗り出し、箸ごとオレの手を掴んで自分の口に運んだ。

「ん~おいし♪」
「そりゃ良ござんした」



「はいお水」
「ん。ども」

店員でもないのにちゃっかり水のおかわりをしている。どうでもいいことだが。

「お昼何時まで?」
「一時半」
「結構休むんだね」
「まぁな」
「ヒマにならない?」
「寝るか本読むか新メニューのテストか、あんま暇はしないな」
「ふ~ん、いいなぁ。わたしはヒマぁ…」
「家事大忙し昼ドラ見放題てんやわんや豪遊の日々じゃないのか?」
「むぅ~失礼ねぇ、そんなに遊んでなんかないもん。たまにならいいけど、毎日こうだと遊ぶものも
なくなっちゃう。お金もないし」
「…だったらさ」
「?」
「パート、出てみたらどうだ? スーパーの」
「パート…?」
「時間があって金がない人のためにそういうシステムがあるんだろうに」
「そっかぁ、パートかぁ…」

目がキラキラし始めたぞ。ヘタすりゃ明日からにも働き出すかもしれん。面接なしの即採用で。

「でも、こんな田舎で人なんか雇ってるかな? 特にパートなんていっぱいだと思うよ」
「それは…まぁ、一応案としてさ、ダメなら他探そうや」
「うん。わたしも家計、助けなくっちゃね!」

胸の前で両拳をグッと握り、意気込む千夏の目は真剣だ。あどけなさは…略。

「頼りにしてるぞ姐さん」
「こちらこそ♪」

自分で言ったにも関わらず"なるほどパートねうんうん"と納得しているオレってなんだ。

「さて、帰ってお掃除しなきゃ」
「あいよ」
「オムライス、おいくら?」
「…わからん」
「ふぇ?」
「ちと、店長に訊いてくる」

指示は仰がないつもりだったんだが、さすがに金が関わるとそうも言っていられないだろう。

「店長?」
「うん?」
「さっきのオムライス、いくら頂戴したらいいですかね?」
「ん~…、そうだねぇ…」

やや間を空け、

「秋人くんの給料から天引きしておくよ」
「…ぅえっ?」

動転しそうな頭を抑えつけ、考える。千夏はお隣さんのはずだから、オレとの経済的なつながりは
全くないはずだ。なのにオレの給料から天引きするとなると、解釈としては『オレが勝手にメニューに
ない料理を作った罰として材料費その他を引いておくぞ』ということになる。…ピンチだ。

「いやあの店長それってまさか、」

店長が椅子から立ち上がり、耳元に寄ってきて、

大丈夫、わかってるよ

オレの肩にポンと手を置いた。店長の顔は、頼もしい笑顔だった。やっぱ、見抜かれてるよなぁ…。
しかし、初任給から天引きされるというのも悲しいことである。…嫌な予感がする、逆の意味で。

店に戻り千夏にその旨を伝え、長生きしている人はすごいねと言った。

「あ、そだ、はいキート」

千夏が差し出したのは、愛用の折りたたみ傘だった。

「今日雨降るって言ってたから」
「さすが千夏、気が利くな。サンクス」
「あのてるてる坊主、効果あるといいね」
「あぁ」
「キートも作ったの?」
「一応な」
「どれ?」
「…」