続・千夏の夏 第九話

今日という日が、ついに来てしまったのだ。

「ホントごめんな」
「ううん、いいよ。気にしないで。たまにはキートだって羽のばしたいもんね」
「明日は絶ッ対どっか連れてってやるからな」
「うんっ」
「…んじゃ、行ってくる」
「いってらっしゃ~い」

身支度を済ませたオレは、千夏を置いて我が家を後にした。―そう、千夏を置いて、だ。

金・土曜日はニ連休になる。土曜日は定休だが、第二・第四金曜日も休みなのだ。今日は金曜日、連休初日。
先週の土曜日のように、いつもなら千夏と過ごすのが休日の当たり前だった。日中ひとりで寂しい思いをしている
千夏のために、一緒に過ごすよう心掛けていた。―しかし、今日初めて、そうではなくなった。

歩き慣れたはずの駅までの道のりも、今日ばかりは違和感を覚えた。
ぼんやり歩いていればすぐに辿り着くはずなのに、今日ばかりは遠いものに感じられた。
時間通りにやってきたワンマン電車に乗り、電車は上り方面に向けて発車する。

向かい合わせの椅子の窓側に座って頬杖を突き、ぼんやりと外の景色を眺める。
一面に広がる草むらと田んぼと水田と、その更に向こうには大きくそびえる山々たち。
少し上を見れば、雲一つない晴天から頬を焼く灼熱の太陽光線がサンサンと降り注いでいる。
この風光明媚な情景を見ていると、感じさせられてしまう。世界はこんなにも壮大で、偉大なのだと。

…それに比べれば、オレの存在なんてちっぽけなもんだな。

何故そう思ったのか、自分でもわからなかった。ただなんとなく、己がとても矮小なニンゲンに思えた。
だが、自虐的な思想なのかといえばそうでもない気がする。オレはそんな陰気くさくはない…と思いたい。

やがて、電車は三浦駅ホームに到着する。平日ならここで下車するが、今日の目的地は先にある。
だから今日、オレにとっての三浦駅は、ただ通過するだけの駅なのだ。―しかし、ただの通過ではない。

電車のドアが開くと同時に乗車した、麦わら帽子のキーパーソン。それは――





全ては、昨日の出来事から始まった。

花火大会の一件で浮かれていたオレは、店に辿り着いてすぐに、その浮付いた気持ちが吹き飛んだ。
正確には、オレより後に出勤してきた琴美の顔を見た時にだった。表情も声色も何も変わってはいない、
ただオレの、背徳にも似た感情がそうさせたのだ。

琴美は、店長にはもちろん、オレにも何ら変わらぬ態度で接してきた。
オーダーの伝達も、ヒマな時の世間話も、昼食の時の与太話も、全てが日常と同じだった。
その態度は逆に、オレにとっては内心に重いジャブを打ち続ける辛いものであった。
話の応答こそ懸命に平静を装って返してみせたが、ちゃんと返せていたかはわからない。

琴美の一言一言の裏に、昨夜の拒否による悲哀が見え隠れしている錯覚を感じ、オレの心を締め付けた。

仕事中、オレは幾度となく思った。『オレは悪くない』と。
しかし、善悪で色分けできる問題ではないと理解している以上、無駄なことだった。

断ったオレが悪いのか? 違う。
誘った琴美が悪いのか? 違う。
誰が善なのか? そんなものは最初からない。

なのに、琴美に対して抱いてしまうこの痛みのような感情は、抑えることができなかった。

何故だ? 何故オレが、琴美のことでこんなにも悩んで、辛い思いをしなきゃならないんだ?

良心が叫んでいるのなら、ともすればそれに対応できる。でももう、断ってしまったんだ。

琴美に気負いがあるのなら、それはお門違いだ。それはわかっている。わかっているが、わからない。

もしかしたら、こんな懊悩を繰り返しているのはオレだけで、琴美は何も感じていないのかもしれない。

常を装っているのではなく、いつもの素の自分でいれる余裕が、琴美にはあるのかもしれない。

だとすれば、オレは何なんだ。一体、何がしたいんだ。

琴美の想いはオレにもわかっている。しかしそれは、受け入れるべきではないものだということもわかっている。

だからこそ、琴美を突き放してしまっているような気がして、心が痛い。

受け入れてはならず、しかし良心が納得する形で、何か、焦心を解消する方法はないのだろうか―

まとまり切らない思考を巡らせている内に、本日の営業は終了した。

「お先失礼しまーす」

くだんの琴美が先に店を出る。…そういえば、祭に来ていたかどうか、訊けなかったな。
いや―。訊く機会があったとしても、訊く勇気がなかっただろう。
遅れてオレも、挨拶をして店を出た。夕方の蒸し暑い空気が、まだまだ夏の終わりが先であることを示していた。

「秋人さんっ」
「うひゃっ!?」

完璧に不意を突かれ、恒例の変な声が溢れ出た。先に店を出たはずの琴美が、店先で立っていた。

「えっ、あれ、帰ったんじゃ―」
「待ってたんです…秋人さんを」

え…?
どういう、意味…?
昨日と同じパターンで、昨日と同じ恥じらいの表情を見せる琴美が、余計に思考を狂わせた。

「あ、あの、明日、お休みですよね。それで、えと、秋人さん、も、もしかして、おヒマだったり…しま、せん?」

…よもや、まさか、こんなことになろうとは、夢にも思わなかった。
オレが断ったせいで傷付いて、もう二度と誘うことなんか有り得ないと思ってた。
また誘って断られて余計に傷付きたくはない、自己防衛の気持ちが少なからず働くだろう。
それがどうだ。昨日の今日で、この展開。本当に、女というものはよくわからない生き物だ。

そして、今日という今日だけは、オレ自身がどういうニンゲンだかサッパリわからなくなった。

「ヒマだ」
「あっ、じゃあ、」

琴美はショルダーバッグから慌ててゴソゴソと探り出し、何かを取り出した。

「え、映画のチケットが二枚、あ、あの、両親が行く予定だったんですけど、行けなくなっちゃって、」
「いいぞ」
「―――へ?」

琴美は鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔になった。顔を赤らめたままだったから、とてもおかしな顔だった。

「映画、観に行きたいんだろ?」
「あっ、は、はいっ」
「どうせヒマだし、それぐらいなら付き合うよ」
「ほ… 本当、ですか?」
「ウソついてどーすんだ」
「だ、だってなんか、ウソみたいで…」
「あれ、オレって信用ない?」
「あっ、ち、違います! そういう意味じゃ、なくて…」
「はは、ジョーダンだ」

琴美は胸に手を当て、大きく息を吐いた。肩の力を抜くと、自然な笑顔が現れた。

「あ、あの、本当にいいんですね?」
「あぁ」
「じゃあ、あの明日、電車で待ち合わせということで、」
「何時の電車だ?」
「えっ? あ、時間は、えーっと…。あ、そだ、秋人さんはいつも何時にここに着くんですか?」
「電車が?」
「あ、はいっ」
「だいたい、9時半ちょい前かな」
「じゃあ、その電車で、いい…ですか?」
「あいよ」

その返答に、琴美はとても嬉しそうな顔をした。昨日とは全くもって正反対の表情だった。

「それじゃ、あのっ明日、よろしくお願いしますっ」
「こちらこそ」
「じゃ、また、明日っ」

テンポのいい早口で言って、琴美は逃げるように去っていった。昨日とは違う、背中を嬉々として。

何故誘いに乗ってしまったのか、オレ自身にもわからない。ただ、直感と本能がそう判断したのだ。
それに、誘いに乗ったからといって、必ずしも危惧にしている事態に至るとは限らないのだ。
とどのつまり―

誘いを受け入れても、想いはまだ受け入れていない

ということだ。





「なぁ」
「はぃっ」
「力入れ過ぎると後半疲れるぞ」
「ち、力なんか、入れてませんっ」

声のそこかしこに力点が入っていて、誰が聞いたってガチガチに緊張しているのがわかる。

「別にオレ、緊張されるほどの大物じゃないんだからさ。もっとリラァーックスだ、リラァーックス」

琴美は肩を使って大きく息を吸い、吐いた。

「ラクになったか?」
「…少し」
「ん。緊張されっとこっちも緊張すっから、気楽にいこーぜ」
「はいっ」

さっきよりはまぁマシか。

今日の琴美のファッションは、上がノースリーブの白いカットソー、下は紺のロールアップジーンズ。
琴美が好んでよく着ている、夏らしい涼しげな格好である。いつもと違っている点と言えば、
生真面目故に職場には付けてきていない小振りなネックレスと、お冠に乗った麦わら帽子だけだ。

「なぁ」
「はいっ」
「帽子、取れば?」
「あっ、ス、スイマセンっ」

ササッ、と琴美は即座に帽子を取った。いつも見慣れた、小さな竹箒みたいな二つのおさげが現れる。
取った帽子はひざの上に置き、またガチガチな琴美に戻った。

「いい麦わらだな」
「えっ、そ、そですか?」
「あぁ」
「普段は全然、かぶらないんですけど、昔使ってたのを、奥から、引っ張り出して、はいっ」
「お蔵入りの物とは思えん保存状態だよなぁ」
「あ、ありがとう、ございます…」

いい加減緊張が解けないものか。いつものハキハキした琴美じゃないと、普段よか余計にやりづらい。
第三者に言っても絶対に信じてもらえないだろうが、これでも琴美の方が年上で先輩なのだ。
たまにオレですら『本当にコイツは先輩なんだろうか』と思ってしまう時があるけど…。

こうして見ていると、本当に千夏に似ている。生き写しとまでは言わないが、
二人を並ばせて『姉妹だ』と言っても疑う者はいないだろう。それほどまでに、色々な面が似ている。
顔立ちはそっくり、髪型もなんとなく似ている、身長も大差なし、鼻も目元も瓜二つだ。
琴美がメガネを外せば、あっという間にインスタント姉妹の誕生という運びになるわけだ。

…あぁ。五十歩百歩だけど、胸は琴美の方が勝ってる。どこ見てんだオレ。

しかし、琴美は千夏ではないことを、他でもないオレが一番よく知っている。

「あの…」
「―お?」
「あたし、なにか変ですか?」
「え? いや、別に」
「そう、ですか」

気付かぬ内に凝視していたためか、琴美が心配して訊ねてきた。
普通なら『何かついてますか』とか訊くんだろうけど、今の琴美は普通じゃないからな。

「あぁ、そうだ」
「はい?」
「今日、道案内よろしくな。オレ、三浦と大堀以外ほとんど知らんから」
「あっ、は、はいっ。恐縮ですけど、が、がんばりますっ」

オレたちが向かっているのは、宇津保線の終点、西大名塚。
から乗り換えてさらに先にある、ここら一帯では最も栄えている都市、不動島市。
栄えているといってもその規模は東京の尻尾すら捕まえられぬ程度である。
まぁ映画館があったりファミレスがあったりショップがあったりカラオケがあったり駅前が広かったりする。
田舎住まいの欲求不満な若者御用達の街なのだ。

その内千夏と遊びに来ようかと思っていたが、あーぁ、オレだけ来ちゃった。



駅を出たオレたちは、とりあえず駅前通りを歩いていた。三浦とオラが村を比較したら三浦の方が栄えてるけど、
オレの周囲に存在する街並みとでは比較にもならない。月とスッポンとでも言うべきか。

「で?」
「えっ?」
「このまま、歩いてんの?」
「あ、いや… じゃあ、あの、どうします?」
「とりあえずアチィから涼みたい」
「じゃココ、入ります?」
「あいよ」

何気なしにフラっと、通りがかった店に入った。98円ショップだった。…どないせっちゅーねん。
ひとまず灼熱炎天下から脱出できたが、何をしろと言うのだ、雑貨屋で、一体全体、何がおもしろいというのだ!

これがまた、意外におもしろかったりする。
あんな物やこんな物がワンコインで買えてしまうなんて、いい時代になったものだ。
品質はあまり良くないだろうけど、ちょっとした小間使い?にはすごく便利な店だと思う。

しかし、オレたち二人が赴くべきスポットには適していないことも間違いなかった。

「秋人さん、こういうお店よく来るんですか?」
「いや、初めてだ」
「田舎にはないですもんね」
「こりゃーいいな、せめて三浦にでもできてくれりゃ助かるんだが」
「ですよねー、あたし毎日寄っちゃうかも」

…そういえば、琴美も随分と緊張が解けたみたいだ。よかったよかった。

「…すげぇ。フライパンまで売ってる」

さすがに本格調理用ではない小さめの型だが、これで98円って赤字じゃないのか?侮れん…。

「今はないですけど、ステンレスの包丁も売ってたんですよ」
「はぁ!?」

食器屋かココはっ。

「琴美はよく来るのか?」
「んー、そんなには来てないです。月に二回くらい。でも、一旦入るといっぱい買っちゃうんですよねぇ」

と、反省ぎみな顔で言った。その手にはすでに商品が数個。曰く『カゴじゃないだけまだマシ』らしい。
単純計算で10コ千円。物によっては単価以上の価値の商品だってあるんだから、リーズナブルざーます。

「映画館で食べるお菓子、ここで買ってっちゃいます?」
「あぁ、それもそうだな」
「あんまり音が出ないのがいいですよね」
「セオリー通りにポップコーンでいいんじゃないか?」
「えー、毎回ポップコーンじゃ飽きちゃいますよぉ」
「オレは飽きないけどなー」

毎回って言われても、琴美がどれ程の頻度で映画館に来てるか知らんぞ。

―ふと、品定めしていた目を横にやる。一緒に品定めをする琴美の姿が映った。
その顔は充実感に満ち満ちた子供みたいな笑顔で、楽しくて楽しくてたまらないという感じだった。
その表情は、オレの内に秘めたる漠然とした罪悪感を締め付ける皮肉なものでもあったが、同時に、
誘いに乗ってよかった、誘われてよかったと思わせる、純粋無垢な感情の表れでもあった。

オレの頭の中で、複雑な思いが去来する。しかし今は、後者だけを考え、見ていたいと思う。

「…秋人さん?」
「へ?」
「あたし、やっぱり何か変ですか…?」
「あ、いやいや、全然、うん、よく似合ってる」
「えっ…」

琴美の頬がポッと赤くなる。少し、かわいいと思った。

「あ、ああ、あの、秋人さん、き、決まりました?」
「いや。琴美は?」
「あ、あたしは、やっぱり、ポポ、ポップコーンに、しましたっ」
「んじゃ、これでいいや」

何も考えずにテキトーに手に取ったお菓子を、特に見ずにレジに持っていった。
店員にこの世の終わりのような顔をされたが、その理由に気付いたのは随分後だった。

外に出ると、また灼熱の太陽光線が降り注ぐ。まだ空調で冷えた身体のおかげで耐性がついているが、
そんなものは瞬く間になくなって、うだるような熱感の暴走が始まるのだ。あー世知辛い。

「どうします?」
「まだ映画には早いもんな」
「ですねぇ」
「腹ごしらえもまだちと早いよな」
「ですねぇ」
「…道案内よろしく」
「えっ!?」
「言ったろ? 来たことないって」
「で、ですけど、あ、あたしだって知らない所はありますし、それにどこに行くのかも…」
「ガイドさんにはなってくれないのか?」
「む、無理ですよ、あたしにガイドなんか…」
「何事も挑戦すべきだと思うけどなー」

うっわー都合いいなオレ。

「じゃ、じゃあ、あの… どういうお店が、いいですか?」
「涼しいトコ」
「どこのお店もエアコン付いてますっ」
「うーん…。どういう店って言われても、オレほとんど趣味なんか…」

趣味らしい趣味というと、料理は半分生計立てになってるから、本道の趣味は…レッカマン?

「琴美、レッカマンってご存知?」
「レッカマン?」
「そ」
「知りません」

あれ。当然か、女の子が見るような、っていうかヘタすると見ちゃいけないアニメだったもん。

「むっかーしのド古いアニメなんだけど、そういうの扱ってる…あるわけないよなぁ…」
「―あ」

え?

「ありますよ」

えええ?

「…マジ?」
「はい。駅前通りのちょっと裏の方に、確か」
「行こうぜひ行こうさっさと行こうほら早く案内してくれ」
「え、あ、はいっ」

困惑する琴美の背中をぐいぐい押して、目的地の案内を促した。
顔にも声にも出さなかったつもりだけど、心の中はすでにワクワク妖精たちが大暴れしていた。

「も、もしかしたら、違うかもしれませんよ? 通りがかりに見ただけですし…」
「まぁいいじゃん、時間余ってんだから」
「はぁ…」

正直言って、違うかもしれない、なんてどうでもよくなっていた。
どんなレアアイテムがあるんだろうなワクワクルンルン、しか頭になかった。

不動島駅前はメインストリートだけでなく路地も盛んで、表ではあまりデカい顔で商売できないような店もある。
路地のため道は狭いが、その狭さが下町の商店街のような雰囲気をかもし出し、さらにそれが路地裏特有の
ダークな雰囲気と混ざって、パラレルチックな空間を作り出している。

「ココ、なんですけど」

琴美が立ち止まって示した店は、どーにも狭かったが、確かにそれっぽい店構えだった。
丸太でこさえたログハウスで掴みはいいのだが、いかんせん幅は狭いし店内は商品だらけだった。
その商品というのもまたアレで、なんか店の奥の方に等身大のセーラー服を着た女のマネキンが…。
これを見たら、客が一人もいない理由が大いに納得できる。

ワクワク妖精が一気に霧散していくのがわかった。

「…琴美」
「はい?」
「別に、オレに合わせて無理に入らなくてもいいぞ」
「だいじょぶですよ?」
「…そうか?」
「はい」
「なら、いいけど…」

あのマネキンのおかげで後悔の念に苛まれるが、後悔先に立たずとも言うし、えぇい一蓮托生。

店内は、まさにアニメ大国ジャパンの象徴だった。新旧様々なアニメのグッズが所狭しと溢れているのだ。
フィギュアに始まりポスター、カレンダー、貯金箱、ブリキ、コマ、めんこ、コスプレ衣装、魔法の杖等々。
98円ショップとは比べ物にならないほど適さないスポットに来てしまった。ごめん琴美、デート音痴で。

でもまぁこれだけ品が揃ってればレッカマンの一つや二つ

「あーっ、なつかしー!」

うわビックリした。

「なんだ急に」
「これ、知りません? 魔法少女エナメルですよっ!」

手に持ったフィギュアをオレに見せ付けて、何だか知らんが喜んでる。

「ほぉー。嬢ちゃん、エナメルをご存知かい」

うわビックリした。
いて当たり前なのに全然気付かなかった、店主と思しき白ヒゲのオッサンがオレの背後に立っていた。
右目にモノクルをはめ、白いポロシャツの上にブラウンの多機能ベストを着、同じくブラウンのスラックスを履き、
頭に紺のニット帽をかぶった、あっからさまに胡散臭いオッサン。いきなり背後から喋りやがって、焦ったぞ。

「あっ、はい。もーあのアニメ大好きでした」
「当時は男向けのアニメばっかりで、エナメルなんてほとんど知られてなかったんだけど、いやーまっさか
こんなかわいい嬢ちゃんが知ってるなんて意外だねぇ」
「周りの女の子でも知ってるコはほとんどいなくて、あたしの家でしかやってないんじゃないかって思いました」

てへへ、と微笑み琴美。
…なんだこの盛り上がり方、絶対不自然だぞ二人とも。

「嬢ちゃん、何かエナメルのグッズは持ってたかい?」
「はい、エナメルの杖持ってました。…アレ、名前は…」
「マジカルハッピーステッキだね?」
「あー、はいっ」

すると店主はおもむろに山積した商品の中に手を突っ込んで、引き抜いた。手に何かを持っていた。

「これかな?」
「あーーーっ!」

琴美は嬉しさの余りオレを押しのけて店主のそばに駆け寄った。
そして、店主に手渡された妙ちくりんなキラキラした杖を受け取って、杖そっくりに目をキラキラさせていた。

「なつかしいなぁ~…♪ 小さなオモチャ屋でやっと見つけて、お父さんにおねだりして買ってもらったんです。
いつの間にかなくなっちゃったけど、あたしの宝物でした」
「他にも妖精ニッケルの人形や悪女モリブデンのフィギュアもあるよ」
「えっ、見せてもらっていいですか!?」
「もちろんだとも」
「ありがとうございます~♪」

…気のせいかな、性格まで千夏に似てきたような。

二人で盛り上がられて置いてけぼりを食らったので、仕方なく地道にレッカマンを探すことにする。
店主のオッサンに訊けばヒョイと手を伸ばして一発で見つけそうだが、あの調子じゃ訊けそうもない。
それに、あえて自分で探すことに意義があるのだ。

オレもそれなりにアニメ少年だったから、思い当たる作品のグッズを多々見かける。
天上天下ムテキーマンと唯我独尊ゼッタイマンのフィギュアが二つ並んでいるのを見た時はシビれたな。
おっ、なつかしーなコレ。小三の時山田が学校に持ってきて自慢して帰りに落として壊して大泣きした、
軟弱戦隊ヘタレンジャーのヘタレロボだ。ほぼ完品で残存してるなんて、どーいうルートで手に入れたんだ?

「えーっ!? カドミウム伯爵のサングラス!?」
「ははは、すごいだろー」

…あっちは置いといて。

おぉ出たー、プラズマファイター雷電。主人公がヒーローらしからぬ悪役プロレスラー上がりだったのが
笑えたアニメだったな。オレとしては相方のイナズマファイター雷雲の方が好きだったけど、最終話で雷電を
守るためにその身を犠牲にした時は号泣したなぁ。あぁ、若かった。

って、何をしてるんだオレは。さっさとレッカマンを見つけてここから出よう。色々な意味で、琴美のためにも。
しっかし、こうまで大量のグッズがあると見つけられないだけじゃなくて目移りして焦点が合わない。
こういう時は目線を合わせようとせずテキトーに―

テキトーに―



……

………

こっ…、これは…

何故だ…、そんなバカな…

すごい… すごいぞ、これは…

幻でも見ているのかもしれない。

しかし、目の前にある物は本物だ。

オレはツイてる、こんなレアグッズ、熱狂的なコレクターでも絶対にお目にかかれない。

何故ならコレは、原作にも一切登場しなかった、キット化すらされていないはずの完全お蔵入りアイテムなのだ。

どうなってるんだこの店は、店主と言い店構えと言い取扱商品と言い、不可思議の塊みたいだ。

狂喜と混乱を喚起するグッズ、その名は―

「レ…、レッカマン…、」

レッカマンファンが狂喜乱舞を巻き起こすこと必至のアイテムの名は―

「レッカマンブレードだッ!!」

思わず、声に出して叫んだ。叫んでも叫び足りないくらい、ファン魂からノルアドレナリンが大量発生する。
うわぁあぁ、オレはなんてラッキーマンだ、琴美に感謝感謝の大感謝だ。連れてきてもらって本当に良かった。
すげぇすげぇ、だってさだってさ、うろ覚えだけどコレ、設定資料集にもちょびっとしか載ってなかったんだぜ?
あまりの感動に鳥肌が立った。ファンとして、心から喜べるグッズが目の前にあることを神にも感謝したい。

「お? 兄ちゃん、いいもんに目をつけたね」

琴美とエナメルトークで盛り上がっていたオッサンも、オレの声に気付いて振り返った。

「オ、オッサン! コレ、どーやって手に入れたんだ!?」
「ぬぬ。オッサンとは失礼だな。いや何、只メーカーに知り合いがいて譲ってもらったんだよ」

うわーコネかよズリーぞチクショ。

「い、いくら、これ!?」
「うーん…。唯一無二の超レアフィギュアだから、私としては手放したくないところだが…」

黙考、

「よし、コレで手を打とう」

言って、店主はシワだらけの手を広げて三本指を立てた。

「…300円?」
「ゼロがふたつ足りないよ」

えーっと、一つ足して3000円、二つ足して…

「ぼったくり」
「適正価格と言ってくれ」



「お恥ずかしいトコ、見られちゃいましたね…」
「誰だって子供の心は持ち続けてるもんだ。気にすんな」
「でもホント、なつかしかったなぁ~…」

オイオイまだ感傷に浸るのか。

「オレもアニメっ子だったけど、エナメルなんて聞いた覚えないぞ」
「仕方ないですよ、だって深夜アニメでしたから」

…えっ? なんて言った?

「ウソだろ? 当時深夜アニメなんかやってるわけが…」
「それがやってたんですよー。あの、これまたちょっとお恥ずかしい話なんですけど…。昔一度だけお父さんと
ケンカしたことがあって、反抗して夜遅くまで起きてテレビを見てたんです。その時にやってたエナメルを見て、
もーすっかりハマっちゃって」
「その頃何歳だった?」
「えーっと、小学校二年生だから…。あっ、もちろん毎回夜更かししてたわけじゃないですよ?
お父さんに録画してもらって、次の日に見るようにしてました」
「そりゃそーだ、小二にして夜更かしテレビ観賞なんてしてたら将来ビッグになること受け合いだ」
「あはは、そうかもですねー」

―琴美の本心から楽しそうな笑みを、オレの本心で受け止められる日が来るのは、いつだろう―。



「うめぇな」
「はいっ」

今オレたちは、駅前通り沿いのファーストフード店『ワクドナルド』に来ている。えっ、どっかで聞いたような名前?
テキトーに注文したハンバーガーを、二階の駅前通りが見下ろせる展望カウンター席で摂取しているところだ。

「ワックなんて久々だなぁ」
「あたしもです」
「三浦にでもできりゃいいのに」
「うーん、三浦にはちょっと無理かも…」
「つーか、考えてみりゃ三浦にできる飲食店って全部敵なんだよな」
「経営上はそうなっちゃいますけどね。仲のいいお店もありますよ? ほら、店長ってあいそが良いですから」
「悪い人に騙されなきゃいいけどなぁ…」
「その時は秋人さんがガツーンと蹴散らしちゃえばいいんですよっ」
「フライパンの扱いなら誰にも負けないぜ?」
「頼りにしてます♪」
「おぅ」

一応頼りにされたが、フライパンヌンチャクでもやれっていうのか。さしずめ酔拳で…ねぇ?

「映画、何時からだっけ?」
「1時半からです」
「何もチケットを時間指定しなくてもな」
「ですよねぇ?」
「まぁ実際タダ券もらってるオレが文句言えた立場じゃないが」
「時間が指定されてる分、自由券より安いみたいですよ」
「何事もリーズナブルに…ざーます
「はい?」
「いやなんでも」
「あ、席とっといた方がいいですよね、早めに行きます?」
「そうだな。…って、まだ残ってんじゃん」

琴美はわずかに苦笑しながら、

「ちょっと、食べ切れなくて…」
「良けりゃ買い取るけど」
「あっ、いいですよお金は、タダでお譲りします」
「でも、金銭取引は厳正に…」
「そんなの気にしてませんから、どーぞっ」
「…悪いな」
「いいえー」

後で何か、チケットも含めて礼をしなきゃな。モグモグうめぇ。



まだ照明の点いた映画館内の、"べすとびゅーぽいんと"と言われる中段の席に陣取った。
この映画館、時間指定をさせる割には座席指定がないのだ。ありがたいんだか何なんだか。

「え? 秋人さん、もう開けちゃうんですか?」

お菓子の話。

「ダメか?」
「ダメじゃないですけど…。この映画、2時間ちょっとありますから」
「なるほど、お菓子がもたないってわけか」
「はい」
「しゃーない、始まるまで我慢すっか」

映画が始まるまで、待つことにする。

「…」
「…」

別に、今さら沈黙をむず痒く思う関係ではないのだが、どうもこの映画館というものは
沈黙の属性を変えてしまう不思議なオーラがある。それ故に、なんとなく、沈黙が息苦しい。
少なくもない周囲の客の喧騒も聞こえてくるのだが、"オレたちが喋らない"という沈黙に変わりはない。
この如何ともし難い沈黙を打破すべく、口を開く。

「琴美」
「はい?」
「店長から提案されてるんだけど、今 秋の新メニュー考えてんだ」
「えっ、そうなんですか?」
「あぁ」
「あの、テーマとかはもう?」
「ん~まぁ一応、秋の食材を適当に」
「秋の食材と言いますと…秋刀魚とか松茸とか、ですか?」
「そこら辺かな」
「…でもウチって、洋食専門ですよね?」
「そこが肝なんだよ。アレだ、ほら、何だっけ…和音ゲッチュー?」
「…和洋折衷?」
「あぁそれそれ」
「いいですねぇ。前からちょっと思ってたんですけど、年配の方に洋食ってあまり合いませんもんね」
「だからさ、洋食をベースに和食も取り入れていったらいいんじゃないかって店長に話したんだ。
したらトントン拍子で話が進んであれよあれよと新メニュー追加決定だ、はえぇはえぇ」
「店長って意外と思い立ったらな人ですから」
「それで今考えてんだけど、さ」
「どのくらい増やす予定なんですか?」
「だいたい三つ前後かなーとは考えてる」
「もう完成してるのはあるんですか?」
「いんや、最近話が出たばっかだから白紙状態」
「秋人さんが考えるんですから、きっとおいしいメニューが増えますよ」
「…でも、オレってさ、ただ料理ができるってだけで今の仕事やってるから、その、こと料理に関するセンスってのが
どんなもんか自分でも全然わかんないんだよな。調理師免許だってないし」
「だいじょぶですって。秋人さんの実力があれば、新しい料理なんかピピピッと閃きますよ」
「…ピピピッと、な…」

琴美も沈黙を嫌ってか、話が自然に盛り上がった。

読者のみんなは驚いただろうが、オレは調理師免許なんか当然のように持っていない。
そもそもココに越してきた時点で調理師になることすら決めていなかった丸っきりのプー太郎で、
なんでもいいから職に就くために必死だった。だからもちろん、調理師免許を取るヒマなどなかったのだ。

今の職場は、ただ店頭のチラシに『調理師募集』って書いてあったから避暑気分でふらっと立ち寄って、
ワタシハリョウリガデキマスーとかなんとか言って店長に料理を食わせたらあっという間に採用が決まった。
調理師免許なんか持ってないと言った時にはさすがに驚かれたが、とりあえず今は調理師免許を持っている
店長の補佐という形で雇われている。無論、その内取ろうとは思っている。その内な。

え? やばいんじゃないかって? 何を世迷い言を、オレは『調理師の補佐』だ。フフン。

ビーーー。

「はじまりますね」
「あぁ」

降りていた暗幕が上がり、場内の照明が次第に暗転していく。他の客の喧騒もやがてなくなる。
長ったるしい動画広告の後、本編が始まった。



ナーワー・シスターズ配給 洋画 『 Love Rubber 』

主人公ヘレン・カーチス33歳は、忙しいながらも充実感を味わえない生活を続けていた。
ある日、珍しく寝坊したヘレンは、こう見えて課長を任されている職場の広告代理店へと走っていた。
出勤ラッシュの雑踏の中を走っていたため、案の定、人と真正面からぶつかった。
ドシンと大きく尻餅をついたヘレンは、遅刻の焦りと恥ずかしさからややパニックになっていたが、
突如ヘレンの目の前に手が差し伸べられた。手を辿って見上げると、そこにはヘレンがぶつかったと思しき
若々しいスーツ姿の男がヘレンを笑顔で見下ろしていた。ヘレンはその手を取って立ち上がらせてもらうと、
必死になって平謝りして、脱兎の如く走り去ってしまった。―拾い損ねた書類にも気付かずに。

重役出勤のヘレンは部下に突かれつつもデスクに座り、片付けねばならない書類整理を始める…はずだった。
ないのである。自宅で少し片付けた書類が、今朝ちゃんと持ってきたはずの書類が、鞄に入っていないのだ。
ヘレンはすぐに気付いた。さっき落とした時に拾い忘れたんだと。これはマズイと取りに戻ろうとした矢先、
部下から来客の報せが入った。そうだ、今日は朝早くにクライアントと打ち合わせがあるんだった。
しかも落とした書類はその打ち合わせに使うための物。最悪だった。人とぶつかるし書類は落とすし打ち合わせは
もうダメだ。あぁ、良くて口頭注意、悪くて減給、今日はブルーな一日になり―

落胆した顔で来社したクライアントを見たヘレンは、あまりの偶然に驚いて声も出なかった。

さっきぶつかった男性がまさか先方の方だなんて、ジョークにも限度がある。

驚いてばかりもいられなかった。相手の男性も驚いていたが、性格なのか、すごい偶然だと笑った。
ぶつかってしまった相手との再会という羞恥と、先方にあまつさえタックルをかましたという大無礼のおかげで、
ヘレンはまたパニックになってひたすら平謝りした。しかし男はヘレンを笑って許してくれた。
それどころか、ヘレンが拾い損ねた書類を持ってきて届けてくれたのだ。地獄に仏とはまさにこの事だった。
この出来事がきっかけで打ち合わせはスムーズに進み、何事もなく無事に終了した。
男から受け取った名刺には『ロイス・フォックス』と書かれていた。
あんなこともあって気を遣ったヘレンは、帰社するロイスを会社の外まで見送ることにした。
しかし去り際、ロイスは振り返り、ヘレンに訊ねたのだ。プライベートの連絡先を―。
ヘレンはビックリした。客をもてなす側でなければ、仕事上の付き合いでなければ訊ねていたであろうことを、
先方のロイスが訊ねてきたのだ。―ヘレンはいわゆる、一目惚れをしてしまったのである。

以来、二人は仕事以外でも付き合うようになった。住所が意外に近かったり、音楽の趣味が同じだったり、
色々なことを知り合っていく内に、お互いが大切に想う存在になり、やがて惹かれ合っていった。

そして、ついに結婚という日を明日に控えた日、ヘレンはロイスにカフェに呼び出された。大切な話がある、と。
思い詰めた顔のロイスを見て、ヘレンも不安を隠し切れない。ロイスのこんな顔を見るのは初めてだった。
彼は話した。

I have killed people.

俺は人を殺したことがある。

ヘレンは恐怖し、青ざめた。突然の感情の激流に耐えられず、涙が溢れ出した。
愛する人が、結婚を約束した人が、人を殺したことがあるだなんて信じたくなかった。

しかし彼は続ける。昔、大学の友人と飲みに行った帰り、ロイスはギャングエイジの少年にからまれた。
父親が趣味だった空手を習っていたロイスは酔いの勢いも手伝って次々にギャングたちをなぎ倒していったが、
一度殴り倒されて激昂しナイフを取り出してロイスに向かっていった少年と、ロイスが殴り飛ばして吹っ飛んだ
少年とが接触し、運悪く激昂した少年のナイフが吹っ飛んだ少年の胸部に刺さった。しかも、左胸に。
仲間たちは恐れおののいて逃げていったが、その惨状を見てすっかり酔いが冷めたロイスはすぐに救急車を
呼んだ。同時に警察にも連行され事情聴取を受けたが、正当防衛ということで即日釈放となった。

その話を聞いてしかし、ヘレンは安心した。怨恨や憎悪などで人を殺したのではないとわかったから。
ロイスが直接手を下して人を殺めたのではないとわかったから、ロイスは決して悪くはない。
むしろ、ロイスが思い切って話してくれたことが嬉しくて、二人の仲はさらに深まったのだった。

だが、結婚して数ヶ月がたったある日。定時に帰ってくるはずのロイスが、連絡もないのにまだ帰ってこない。
帰宅が遅れるなら連絡をくれるはずなのだが、まさか浮気しているのだろうかとイチモツの不安がよぎる。
どんなに待ってもその日ロイスは帰ってこず、仕方なく先に床に伏したヘレンだったが…。
翌早朝、慌しく玄関を叩く音がした。まだ眠っていたヘレンが寝ぼけたままドアを開けると、警官が立っていた。
警官は言う。驚かずに聞いてください、と。昨晩の浮気どころではない不安が、ヘレンを震えさせた。

Your husband was killed.

あなたの夫が殺されました。

茫然自失。声も出ず、涙も出なかった。あまりの突然過ぎて、頭の中が真っ白だった。

警官が言うには、ロイスはストリートでギャングに刺され、出血多量だったらしい。
そのギャングの中には少年も混じっていたらしいが、目撃者がほぼゼロに等しいため確証はなかった。
そして、ロイスは今際の際、こう呟いていたそうだ。『ヘレン…愛している…』と。
その時初めて、ヘレンは涙を流した。全身がくず折れ、警官に身を預けるようにして、大声で泣いた。

ヘレンは、あえて葬式には出なかった。親族の悪評を買う行為かもしれないが、まだ自分の心の中でロイスは
生きていると思いたいから、別れの儀式には参加したくなかった。悪あがき、と言えばそうかもしれない。
それからまたヘレンは、充実感の味わえない多忙な毎日を送り続けた。

自宅のリビングで、ロイスと同じ趣味だった音楽を聴きながら、ヘレンは言った。

What to be able to erase with an eraser...

過去なんて、消しゴムで消せたらいいのに…。



以上が、今回の映画の内容だった。
オレは映画や本で泣くことは滅多にないのだが、今回ばかりは人目をはばからず泣いてしまった。
しかし。泣いたのは、こんなぬるい内容の映画を観たためではない。琴美も少し涙を流しているが、信じられない。
オレが泣いているのは、98円ショップで買ったお菓子、コイツのせいだ!

『激辛悶絶! ハバネロ&青とうがらしチップス』

「いい映画でしたね」
「…あぁ
「? どうかしました?」
「もう、辛い料理なんか作ってやんない…」
「…はい??」



三浦駅ホーム。

「ホント、見送りなんて、いいですのに…」
「まぁまぁ細かいことは気にしない」
「だって、次の電車、30分以上待つんですよ?」
「待つのは慣れてるさ」
「…すいません、あたしなんかのために…」
「だーかーら、気にすんなって」

へりくだってしょげた顔をしていた琴美だが、気にしなくなったのか、軽く微笑んだ。

「あの、今日はとても楽しかったです」
「そうだな、結構楽しかったよ」
「…また、行けるといいですね」
「…ん」

少し会話が途切れたが、すぐに琴美が、

「あの、新メニューの考案、及ばずながらあたしも手伝いますから、お仕事がんばりましょうね?」
「あぁ、きっとうまいもん作ってみせる」

その返事を聞いて、琴美は納得の笑顔を見せた。

「…それじゃ、また」
「またな」

琴美は振り返り、三浦駅ホームへと歩いていった。その背中は、嬉しさと寂しさが一つ屋根の下で暮らしている
ようで、とても微妙で複雑な、見ているこちらが切なくなってしまう、放っておけない背中で―

このまま、見送っちゃいけない気がした。

「…ッ、琴美!」

いきなりオレに呼ばれて、琴美は驚いて振り返った。

「オレ…、琴美に話さなきゃいけないことがある」

もう、意は決した。琴美の背中を見て、せき止めていた何かがなくなった。思いとどまることは、ない。
このままではお互いが苦しみ合うだけだ。苦しみを乗り越えて今、琴美に全てを打ち明けよう。

「…オレ、本当は、」
「わかってました」

―えっ…?

「わかってたんです。秋人さんには、大切な人がいるってこと。それがあたしじゃないってことは、わかってたんです」

わかって、いた…?

「あたし、行ったんですよ? お祭り。毎年、欠かさず行ってますから」

そうか、来てたのか。

「秋人さん、とても仲睦まじそうにしてらっしゃって…。でも、その前から…、なんとなくですけど、そうなんじゃないか
とは思ってました」
「…あいつが、店に来た時からか?」
「はい」

誰が見たって、オレと千夏が普通のコックと客の関係には見えなかっただろう。

「だから…。映画にお誘いしたのも、本当はヤケクソだったんです。どうせダメだろうけど、当たって砕けてみようって」

そうだったのか。オレは、琴美のヤケクソに巻き込まれて、あんなに悩んでいたのか。そんな自分がバカらしい。
でも、当人はヤケクソと言っているが、本当はかなりの勇気が要ったはずだ。単なるヤケではないはずだ。
それに、ヤケクソだったかどうかなんて、もうどうでもよかった。

「…ごめんなさいっ! 知っていたのに、無理にお誘いしてしまって…」
「謝るのは琴美じゃない、オレの方だ。あいつが…、千夏という存在がいながら、琴美の誘いを受けてしまった、
オレが謝るべきなんだ。…受け入れる気なんて、、、、、、、、、、なかったのにな、、、、、、、」

オレだって男だ、一人の女だけをかわいいと思えるほど偽善者ではない。
琴美は十分過ぎるほど素敵な女だ。性格もいい、顔もいい、男にとっては惹かれるべき女だ。
ただ、オレには千夏という存在がいて、琴美に対して感情が湧かなかった。
そして、そんなオレを琴美が好きになってしまった。ただ、それだけのことだった。

ニンゲンとはかくも複雑な動物だということを、改めて思い知った。

しばしの沈黙の後、琴美が口を開いた。

「それでも、今日の思い出は、一生忘れられないと思います」
「あぁ。オレもだ」
「これからも、仕事の同僚として、よろしくお願いします」
「こちらこそ、先輩後輩として、よろしく。…お願い、します」

オレと琴美、照れくさそうに笑った。

「今日は、ホントにありがとうございました」
「えっ、いや、別に、」
「…今度は、店長も連れて、どこか遊びに行きましょうね」
「っ、…あぁ、そうしよう」

言うと、琴美は弱々しく微笑み、無言で振り返って歩みを進めた。

「…秋人さん」
「?」

琴美は振り返り、オレの方を向いた。かと思えばいきなり駆け出し、オレの胴に抱きついた。

「えっ? えっ!?」

何が何だか訳がわからなくて、おどおど狼狽していると、

―琴美が、声なき声ですすり泣いている音が聞こえた。

好き…です

何も言わず、衝動的に、琴美のやわらかな髪を撫でた。