ピンポーン。
 上から、綺麗な栗色でゆる巻きのロングヘア、キャミソールにジャケットを羽織り、ピンクのヒラヒラしたミニスカートを着た若い女性がご来店。
 今時のファッションだなぁ、私には到底できない(金銭的な問題で)なぁ、なんて思いながらふと気付く。
 キラキラしたミュールはその美脚を支えてはおらず、左手にプラプラと持たれていた。
 そして、顔は涙の跡があり、化粧は崩壊寸前である。
 まさかの思いが脳裏を過ぎる。
 カウンターに見開きで置き、椅子に座って立ち読みしていた漫画雑誌を即座に放り投げて隠蔽、何故か音を立てぬようにと恐る恐る立ち上がる。
 目をうるうるさせて嗚咽をこらえていた女性は、私と目が合うなり顔をぐしゃりと崩し、
 「うわぁ~んっ!」
 大きな泣き声を撒き散らしながらみっともない走りで私の元にやってきた。
 そのまま崩れるようにカウンターに突っ伏し、顔を伏せて後は泣き放題だ。
 「ど、どうしました!?」
 女性がこんな時間に露出度の高い恰好で裸足でコンビニに泣きながら駆け込んでくる展開から、やはり最悪の事態が連想されて道理だろう。
 衣服に乱れはないが、からがら逃げおおせた未遂ということも有り得る。
 近所一帯では大きな犯罪こそ聞かれないが、稀に痴漢の出没があるという話を巡回中のお巡りさんから聞いた覚えがある。
 痴漢は女性にとっての公害だ。
 自己の身勝手な欲望の処理の為に女性に汚れた魔手を向けるなんて、言語道断。
 そのテのお店に行けば喜んで受け入れてくれる女の人がたくさんいるというのに。
 何の非もない女性が苦痛を味わわなければならないなんて、そんな不条理はないはずだ。
 …というか、すごく今さらなのだけれど。
 一応私も女であって、こんな深夜にひとりでコンビニを切り盛りしている場合ではないのじゃなかろうか。
 襲われたら、危ないのだ。
 か弱い女の子なのに。
 でも、だからといって店長に進言して、じゃあキミをクビにして男の子を雇うよ、なんて言われたらそれは死の宣告にも等しい。
 それにまぁ、さすがの暴漢も普通な私に手を出しはしないだろうから、強盗が入ったらとっとと売上金を渡してしまえば命までは奪うまい。
 とかなんとか我ながらポジティブな思案を巡らせている状況ではなかった。
 「うわぁ~んっ!」
 依然号泣である。
 「痴漢ですか? 何かされちゃいました?」
 うわぁ~ん。
 「大丈夫ですよ、ここはお店ですからっ」
 うわぁ~ん。
 「あの、もしも―」
 うわぁ~ん。
 …ダメだこりゃ。
 「じゃあ、お巡りさん呼びますか?」
 顔を伏せたまま、ぶんぶんと顔を振った。
 初めて反応してもらえた。
 とかなんとか感動している場合ではなかった。
 「すいません、辛いのはわかります、わかりますけど、少しでもいいですから、何があったか―」
 「うわぁぁぁぁぁんッ!」
 一層大きな泣き声に思わず後退る。
 よほど辛いことがあったのだろう、かわいそうに、落ち着くまで見守ろう。
 椅子に腰掛け直し、目の前で突っ伏し嗚咽する女性の頭をやさしく撫でる。
 老若男女関係なく、涙ってものは何だか気分を落ち着かなくさせる。
 それが悲しさ由来だろうが感動由来だろうが否応なしに胸がぎゅっとなるから。
 私は涙をもらいやすい性格だから、余計に嫌なのかもしれない。
 感動の涙はたまにはいいかもしれないけれど、ネガティブな涙はやっぱり見たくない。
 あぁ、早く泣き止んでくれないかな。
 明日は二限連続で面倒な講師の授業だから、バイトでタフネスを消耗してしまうわけには―
 「あのねっ」
 突然、女性が口を開いた。
 覗き込めば見える程度に顔を上げ、俯いたまま言葉を続ける。
 「まーくんってばヒドいんだよっ」
 …ま、
 「まーくん?」
 「まーくんっ」
 どちら様でしょうか。
 「今夜はね、まーくんチにお泊りするって約束してたのっ」
 はぁ。
 「そんでそんで、さっきまーくんチ行ったらねっ、明日仕事だからムリって言うのっ!」
 俯いた顔を上げてまっすぐ私を見つめて怒鳴る。
 さいですか。
 「ねぇヒドくない!? ちゃんと約束してたんだよっ!」
 さっきまで彼女の頭を撫でていた手をガッと握り締め、問うてくる。
 いや、初対面でコンビニバイトの私に訊かれても…。
 「か、彼、えぇと、まーくん…さんも、きっと泊めたかったんだと思います、でも仕事じゃあ、その、仕方ないのかな、と…」
 「だったら約束しなきゃいいじゃないっ!」
 私に言わないでください!
 「あっ、急遽仕事が入ったとか?」
 「そんなの断っちゃえばいいのっ!」
 私は仕事を断ると寿命が縮むので有り得ない発想だ。
 「で、でもですね、仕事っていうのはそう簡単にイヤですダメですって言えるものではないと思いますからして…」
 「じゃあなに!? まーくんは私より仕事を選んだっていうの!?」
 だからまーくんってどちら様ですか!
 「ですから、その…、じゃあ、例えばですね」
 やや間切って、
 「もしそのまーくんさんが仕事ではなくお客様を選んだとして、きっと幸せな一夜を過ごせると思います、でもその後彼は仕事を断ったことが遅かれ早かれ影響して、もしかしたらクビになっちゃうかもしれませんよ? そしたらお客様はまーくんさんにアクセサリーも指輪も買ってもらえなくなっちゃうし、どこにも連れてってもらえなくなっちゃうかもしれません」
 「…でもぉ~…」
 普通、ここまで彼氏(推定)をボロクソに言われたら二撃三撃の反発があろうものだけれど、私の推察通り彼女は結果として自分にマイナスが出てしまう可能性のみを危惧し、彼氏についてのプライドはとりあえず蹴り飛ばした。
 「それに、いずれお客様がまーくんさんと一緒になることになっても、彼がずっとお家にいて嬉しいですか?」
 「うんっ!」
 「でも、生活するにはお金がかかります。それをお客様が負担しなければなりませんし、結局のところ彼はヒモってことになっちゃうんですよ?」
 「…お、お金なんてなんとかなるもんっ」
 子供のようにスネた風に言う。
 が、金銭感覚については自負があるし、確実に彼女よりも上手なのは間違いない。
 「じゃあ、私を例にしてお話ししますね」
 「…へ?」
 「私は毎日、欠かさずこうしてコンビニのバイトをしてます。大学生で一人暮らしです。正直、懐はいっぱいいっぱいなんです。いろんなものを切り詰めて、稼ぎの良い深夜に働いても、毎月の給料日前は本当に首の皮一枚です」
 彼女は黙って聞いていた。
 「単に私の節約がヘタクソなだけかもしれません。でも、私は一人だからなんとかやっていけてはいますが、お客様の場合は自分、さらには食い扶持盛んな男性である彼の分の生活費も稼がなくちゃいけませんし、なおかつブランド物のバッグを買ったり、旅行にも行きたい」
 彼女はだんだんと頭を垂らし始めた。
 「それだけのお金を稼ぐには、毎日毎日朝昼夜働き続けないといけません。もちろんそんな異常労働を続けていたら身体を壊しますし、治療費もかかります、せっかく稼いでもそれでチャラです。疲労と痛みだけが残って、お金は残りません」
 女性はほぼ完全に俯いてしまった。
 「働くのって、大変なんです。喜んで仕事に行く人はあまりいないと思います。それでも働くのは、生活するためでもあるし、想う人がいれば、その人に幸せになって欲しいからです。お金があれば幸せってことではないですけど、少なくとも貧乏よりは満足な生活ができるはずです」
 女性はちょっぴり顔を上げ、上目遣いで申し訳なさそうに私を見る。
 「じゃあ、まーくんも…?」
 「断言はできませんが、きっと」
 私の言葉を聞いて、彼女はまた少し目線を落として逡巡していたけれど、やがて顔を上げ、赤い泣き跡を残しながらも元気な目が私の視線と合う。
 「そうだよね。まーくん、アタシのこと大好きだし、アタシもまーくん大好きだもん、信頼しなきゃダメだよねっ」
 「はいッ」
 今度は私が彼女の手をギュッと握ると、
 「ありがとっ」
 ニコリと笑って立ち上がった。
 「まーくんに謝ってくる!」
 ミュールは履かずに裸足のまま、店を出ていった。
 私はあっという間の寸劇の後、走り去る彼女の背中を遠めに眺めながら頬杖を突き、
 思いっっっ切り溜め息を吐いた。

 後々わかったことだが、じつは最初から約束どころか宿泊の件すらもまーくんさんは寝耳に水で、夜中にいきなり合鍵で押しかけられた悲劇の被害者だった。
 もう、吐く溜め息もない…。