続・千夏の夏 第十一話

「うふふふふふー…」

本場中国の一級料理人も真っ青の卓越した小手返しでフライパンを振るう、オレ。
その顔は、今までの壮絶な人生の中でも最高潮の、端から見れば気持ち悪がられるほどの笑顔だろう。

「秋人さん、変ですね…」
「秋人くん、変だね…」

琴美も店長も、半ば白い目でオレを見ながらあることないこと言っていた。

「休みの間に事故に遭って、脳の方がおかしくなっちゃったのかも…」
「しかし、こーやって普通に出勤できるんだから、事故じゃないと思うけど…」

オレを夢遊病患者か何かと思ってるのか。…まぁ、思われても仕方がない状態なのだが。
満面の笑みで乱舞の如き調理をしているのに、完成品はいつも以上に美味に仕上がっているのだから。
常連さんの反応もいつもより大きく、それらについて話を聞こうとシェフに問い掛けようと試みるも、
当のオレはデレけた顔して、客がいるというのに椅子に腰掛けて脱力しているのだ。タチの悪い職業放棄だ。

「何があったか知りませんけど、一応仕事中ですし、店長から一言言った方が…」
「いや、もしものことがあるとまずいよ。料理もおいしくなってることだし、ヘタに刺激しない方がいい」
「はぁ…」

何か天然危惧種に近い待遇になっている気がしなくもないが…。
店長の配慮のおかげで、この有頂天気分を阻害されずに済むらしい。ただひたすら感謝感謝。
料理がうまくなってる理由が、うっかりブチ込んだ筋違いな調味料や怪しいアルコール類だなんて
口が裂けても言えない。

昼食の時だって、

「…」「…」

唖然としている二人の目線をよそに、いつもの弁当を流し込むように1分で食べ終えた。
そして空いた時間で物思いに耽り、むふふふふーとなっていた。二人の目線には、気付かなかった。

「きっと山登りに行って毒キノコを食べちゃったに違いありませんっ! 今すぐ救急車を―」
「ちょっ、ちょっと琴美さん、開店中に救急車は…」

田舎だし、ひょいと人里離れれば毒キノコなぞ腐るほどあるのだろうが、山なんか行ってません。

午後だって、

「秋人さん?」
「…」
「秋人さん!」
「おおぅ?」
「グラテラ二つお願いしますっ」
「あぁ、あいよ」

受け答えこそ普通なのだが、その後がいけなかった。

「…」「…」「…」「…」

客二人と琴美と店長の熱視線を浴びながら、ものの二分ほどで二品完成させてしまった。
常識的に考えれば絶対に加熱不足などの諸問題があるはずなのだが、不思議な力が加わったのだろう。
恐る恐る口にした客もチョーうまいと絶賛してくれた。いよいよ今日のオレに敵はいないらしい。

「やっぱりおかしいですよ絶対、もしかしたら偽者か宇宙人に改造されたか…」
「うぅむ、大堀はUFO発見率が高いという噂だし、可能性はゼロでは…」

ついには宇宙人にまでされてしまった。



こんなことになってしまった原因は、朝の我が家にあった。
いつもならオレが先に起きて、やや遅れて千夏が起きるのが常だったのだが、
今朝は千夏がオレよりも先に起きて起こしてくれた。その時からすでにおかしかったのかもしれない。

朝食の準備中、千夏はカウンターに顔を寝かせて、オレの顔をじーっと見ていた。
食事中は何度もおいしいおいしいと言って、何度もオレの顔を見ては微笑みを見せていた。

トドメは出発の時。
オレが靴を履き終えると、見送りに来ていた千夏は当たり前な体で目を閉じ、唇を意識させた。
何もしないわけにもいかないので、恥ずかし照れがりながら、身をかがめて『いってらっしゃいの云々』。
するとまぁ案の定というか、触れて間もなく千夏の両手がオレの後頭部で組まれて、離れたくても
離れられない状態に陥った。千夏に引っ張られておよそ唇を押し付けられている辺り、朝のすがすがしい
ひとつの風景では全くない。無理やり引っぺがして、残念顔な千夏をよそに出発した。オレだって…。

マンションの駐車場を横断中、呼び声が聞こえたので後ろ上方を向くと、千夏が手を振っていた。
それだけで何だか嬉しくなってきて、思わず両手でブンブン振り返してしまった。
その場を立ち去るのが惜しかったけど、埒が明かないので渋々駐車場を抜け、駅に向かう道のりに乗った。

出発早々、おのろけみたいでアレだが、今すぐにでも家に帰りたかった。
千夏と一緒に散歩して、千夏と一緒にテレビ見て、千夏と一緒にご飯食べて、一緒の時間を過ごしたかった。
でも、大人の世界はそんなあまいもんじゃない。働かざるもの食うべからずだ。
だから、あまい考えは自分の中だけにしておこう、と思って、



こうなった。

「お先失礼しますッ!」

閉店後、真っ先に店を出たのは琴美ではなくオレだった。
一秒でも一寸でも早く帰りたくて、訳も話さずバビュンと飛び出た。
残った二人は恐らくオレのことを、呆れを通り越して心配の目で見ていたに違いなかった。

今から全力で走れば、ギリギリ電車に間に合う。まぁ乗れなくても線路の上をダッシュで帰るつもりだが、
さすがに今ラリーマンなオレでも、"弾よりも速く走り抜けろ"なんて不可能だ。
だんだんと近付いてゆく駅舎、改札越しの向こうには、すでに電車が発車待ちをしている状態だった。
マズイ。このままでは、オレが今の今まで汗水垂らして働いて我慢した意味がなくなってしまう!
自分の身体から出ているとは思えない汗の量とみなぎる力を全て脚力に注ぎ込んで、ひたすら走る。
もう少し、もう少しだ、もうワンマン電車は目の前だ、ってうわ何ドア閉まろうとしてんのいやコラちょっと

「乗りまぁぁぁすッ!!」

プシュー、っと遠巻きからだがエアーの抜ける音が聞こえた。今度は運ちゃんに救われたらしい。
駅舎前の小階段をひとっ飛び、改札をブチ抜いてさらにラン、でっかく口を開けたイモムシ電車に突入した。
大きく息を吐き、膝に手を置く。背中に聞こえるドアの閉まる音が、恐怖ではなく安堵感を感じさせた。
ミッションコンプリート。
後は、大堀に着くのを待つのみだ。



危うく寝落ちするところだった、と秋人は間一髪の降車にスリルを覚えていた。
大堀駅を降りて、愛しの千夏が帰りを待つ我が家へと、競歩並の早歩きで向かっている。
一分でも一秒でも一寸でも一コンマでも早く千夏の顔が見たい。見て、抱きしめたい。
考えるだけで顔がニヤついて、こんなのが駅前通りを歩いてたら間違いなくタシロである。
人通りのない林の裏通りを歩いているから問題はないが。かなり、気色悪いと思う。

しばらく歩いて、もうそろそろで駐車場につながる林の割れ目が見えてくるという頃だった。
その割れ目から、一台のいかにも高級そうな黒塗りの車が国道側に向かって出ていった。
地軸がひん曲がっちまうくらい場違いなオーラを最大限に醸し出していたから、異様に目立っていた。
霊柩車の派生型みたいなもんだと思って適当に思慮を片付ける。
今は、1シナプスでも多く千夏のことを考えていたいのだ。

さぁ、いよいよやってきた、我が家のドアの目の前。このインターホンを押すことによって起こる、
これから先の出来事が抑揚満々に浮かび上がってくる。そんでもって、気分がますます高揚していく。
ご近所さんに見られでもしたらおまわりさん変態がいますでお縄食らっちまうほど、やばい顔してると思う。
でもいいんだ。今の気分は、誰にも邪魔させない。オレと千夏、二人だけの共有物なんだから!

我ながらくさいセリフばかり吹いているのに気付き、とっととインターホンを押す。
来るぞ来るぞ来るぞ! 杉本 千夏が! 満面の笑顔で! 飛び込んでこい! オレの胸に!!

ズドドドド! ガチャ!



あら?

「あら?」

思わず声に出てしまった。

おかしい。絶対におかしい。引っ越してからというもの欠かすことのなかった突撃お出迎えが、今日に限ってない。
いや、ないと決まったわけではないが、インターホンを押したら間髪入れずに突撃音が聞こえてくるはずだ。
10秒ほど立ち尽くしてみたが、反応はなかった。自宅なのにインターホンを連打するのも空しいので、
ノブを回してみる。

ガチャ。

「おろ」

珍しい。田舎とはいえ近頃は物騒だからと、在宅中でも施錠はしているはずなのだが…。

…。
まさか。
なぁ。
そんなわけ。
なぁ。

…。
ははは。

しかし、目前の事実は否定できない。今、こうして非日常が起きているのは、紛れもない事実だ。
非日常というものは、かくもここまで不安感をそぞろ立てるものだったろうか。
少なくとも、こんなおぞましい寒気を感じたのは、二十年の人生でも初めてだ。
同等のケースには遭遇したかもしれない。だが、今回は『不安の中心にいる人物』が、特別中の特別だった。
同じく二十年間、感じたことのなかった想いを感じさせてくれた、この世で一番の存在。
ちっちゃくて頭がよくて料理がヘタで元気で無鉄砲でとびきりかわいい、オレの大好きな幼なじみ。
彼女への想いが強ければ強いほど、恋焦がれるほど、苦しみや悲しみも強く重く、増幅してしまう。
今のオレが、どれだけ彼女のことを想っているかはわからない。
だが、今オレ自身が感じているこの押し潰されそうな不安がその裏返しだとするなら、そうなのだろう。

ドアノブを回す手が、かすかに震えている。
真夏のクセにやたら寒気を感じて、ドアノブのアルミがまるで氷のように冷たい。
ドアを開けるたびに大きくなる隙間の向こうに、日常をブチ壊してしまう"明日"が見える気がして、怖かった。
このまま時間が止まってしまえばいいと思う。このしあわせな日々が、ずっとずっと続けばいいのに。
鋼鉄のドアが鉛のように重くなって、開かなくなってしまえばいいと思う。明日のない明日なんか、見たくない。
でもそれは、リアルを直視しようとしない、情けないただの現実逃避願望でしかない。
彼女のことを放って、逃れられない現実から逃れようと言うのか。否、不可能だった。
今のオレには、彼女が必要なのだ。彼女がいない生活なんて、もう考えられなくなっていた。

恐怖に震える身体を理性でねじ伏せる。手に力が入らない、肩でドアを押した。

ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり―



ドアがほぼ半分ほど開いたところで、時が止まった。

頭が真っ白になるなんて絵空事だと思っていたが、今まさに、その状態だった。

気が付いた時にはもう、リビングに走っていた。靴を脱ぐのも忘れて、その音を聞いて、



すすり泣く音が、聞こえて、

「千夏ッ!!」

声を出して初めて、呼吸が荒いでいるのに気付いた。感情の高ぶりのせいだろう。
しかしその高ぶりも、まるで大量の冷水をかけられたかのように、スッと消えた。
背筋が凍りついて、暑さからくるものではない、とてつもなく嫌な汗が、全身から溢れていた。

ソファに座った千夏が、大粒の涙を流していた。

―あッ…

オレの帰宅に気付いた千夏は、立ち上がってオレの所に走ってこようとする。
だが、虚脱感と焦りのせいで、倒れそうに崩れそうになる身体をオレに寄りかからせるようだった。
呆然と立ち尽くすオレの胸に千夏が身体を預けてきて、咄嗟に踏ん張れなかったらこちらが倒れていた。

うっ… ひぐっ… ふえぇ…

粗方泣き伏して山は通り過ぎたらしいが、それでも千夏の涙は止まらず、オレの服を濡らしている。
胸に顔をうずめ、オレの汗ばんだTシャツをぎゅっと掴む様を見ているだけで、頭がおかしくなりそうだった。

なんなんだ?

どうして、泣いている?

オレがなにか、悪いことをしたか?

違う、そうじゃない。

じゃあ、なんなんだ?

わからない。

近所の人に、イヤなことでも言われたのか?

千夏は、それぐらいで泣く女じゃない。

だから、なんなんだ?

千夏は今、現にこうして、目の前で、泣いているのに。

わからない。

わからないことが悔しくて、あまりに自分が情けなくて、泣きなくなった。

でも、泣いているのは千夏であって、オレじゃない。

じゃあ、泣いている千夏に、なにをしてやればいい?

わからない。

オレはこの場で、立ち尽くすのか?

わからない。

なにをすればいいのか、わからない。

…キート
「!」

千夏のかすれた声で我に帰り、胸にいる千夏を見下ろす。
涙は止まったようだが、目の周りが赤くなって、頬にはたくさんの涙の跡があって、見ているだけで胸が苦しくなる。
どうして千夏がこんな顔をしなくちゃいけないんだ。どうしてこんな思いをしなきゃいけないんだ。
世界の不条理というものはいつも身勝手で、聖母であろうが悪徳金融であろうが、誰にだって降り注ぐ。
でも、千夏にそんな不条理を受ける道理があるだろうか? 千夏が悪いことをしたとでもいうのか?
まだ原因すらわかってもいないのに、オレの中の怒りは沸々と、ひそやかに熱く煮えたぎっていた。

「千夏…」

今度は声が震え始めたが、そんなことはこの際どうでもよかった。

「なにが、あった?」

正直言って、訊きたくなかった。訊くのが怖かった。訊いてしまうことで、未知の恐怖が本当の恐怖になるから。
だが、千夏はすでに本当の恐怖を知っていて涙しているのに、オレは未知の恐怖ですら泣きたくなっている。
あぁ、そんなものはエゴでしかない。だから今、勇気を出して、千夏に訊ねた。

でもやっぱり、訊いちゃいけなかったのかもしれないな。

「あの、ね」

まだ嗚咽の引っ掛かりみたいなものがあって、うまく呂律が回らないらしい。
そのまま泣いていてくれた方がまだマシだったかもしれないと、今のオレでは思えなかった。


「…お母さん、来たの」


故アンディ・フグのネリチャギを頭部に直撃させられたかのような、しかし物理的ではない衝撃が襲ってきた。
まるで脳をハンマーで強く叩かれたような、今までに感じたことのない衝撃が、中枢神経を揺さぶっていた。
目眩までやってきた。汗を吸ったTシャツの着心地の悪さも加わって、吐き気すら催す有り様だ。
ここで吐いてしまったら、チャイルドプレイに勝るとも劣らぬバイオレンスな惨状が出来上がってしまうのだ。
ははは、想像しただけで笑ってしまう。

…笑えるもんか。

もしこの世に神がいて、世界の情事を操っているのだとしたら、オレはこの手で神を殺めることも辞さない。
例え全世界の宗教信者を敵に回しても、それこそ世界中の人間を敵に回しても、千夏を守れるならそれでいい。
そしてそれができないから、どうにもならないから、何もしてやれない自分が恥ずかしい。

みるみる体調が悪くなっていくのがわかるが、今は自分のことよりも千夏を最優先にしなければならない。
母親が来た、ただそれだけの告白で、全てを否定してしまうのは全くもって建設的ではない。
まぁ、この状況と絶望感から鑑みるに、顛末は優に想像できるが。



顔を洗ってきた千夏が戻ってきて、テーブルを挟んで対面でソファに座った。
水で洗顔した程度で文字通り水に流せるのならば、どんなに大量の水を運んだっていい。
そう思いたくなるぐらい千夏の顔は沈んでいて、オレの胸がキリキリ痛んで止まない。
胸焼けと呼ぶにはかわい過ぎる、焦がし溶けそうなほどの胃酸の逆流が絶え間なく続いているようだ。

いざ対面になってからも互いに一声を切ることができず、痛々しい沈黙が続いていた。

「わたし…ビックリしちゃった」
「え?」

沈黙を破ったのは、千夏だった。
沈んだ気持ちを隠すかの如く、無理に明るく努めようとしていた。

「興信所みたいなの使って調べたんだって、ココ。―お母さん、人脈広いから」

あの母親ならそれぐらいの力は持っているだろうし、娘のためなら躊躇いはまず有り得ないだろう。

「パートから帰ってきて、ちょっとゴロゴロしてたら、ピンポーンって。キートが早く帰ってきてくれたのかな、って
最初は思ったの。でも… そんなわけ、ないもんね」

最後の一言が矢になって、心臓に刺さった。胃酸が心臓に流れ込んでいるようだった。

「1人で…来たのか?」
「うん。あっ、でも、ここまで車で来たろうから、向井さんも一緒だと思う」
「…向井?」
「お母さんのお付きの運転手さん」

専属の運ちゃんを雇っているってことは、車も高級な…

…高級?

「あぁ、」

そうか。あの時出ていった場違いな黒塗りが、そうだったのか。
そうだとわかっていれば、エイトマンもビックリの音速突破で追いついて、そして―

本筋を辿るのが怖くて出た質問が、本当にどうでもいい話に展開してしまったことを後悔する。
それに気付いて考えていた先のセリフを飲み込んで、バツ悪そうに千夏との目線を外した。
本題から逸れれば逸れるほど、千夏が恐怖に怯える時間が長くなることはわかっているのに、
自分のことばかり考えて話を先延ばしにして、本当にオレはどうしようもなく最低の男だ。
だからこそ今、更なる勇気を振り絞って、千夏に訊ねなければならない。

その勇気を捻出する間も、肌が痺れるように痛い沈黙が続いた。そして、

「―なんて…言ってた?」
「―うん…」

千夏はそれだけ返した後、オレから見えなくなるほど顔を俯かせて、黙り込んでしまった。
訊かねばならぬことではあったにしろ、こういう展開になってしまうと、複雑に心が痛む。

声を掛けられそうにもないので、そのまま黙って返答を待つことにした。
ただの沈黙に『返答待ち』が加わっただけなのに、こうも時が経つのが遅く感じるとは思わなかった。
さらにこの状況下での心痛も加味されて、むしろストレスすら感じていたが、それは千夏にぶつけるべきではない。
今、一番苦しんでいるのは千夏なのだ。オレの何倍も苦しんでいるはずだ。
今感じているこのストレスを千夏のせいにするなど、勘違いも甚だしい。オレがまだ、未熟なだけだ。

「…ねぇ」
「ん」
「そっち…行ってもいい?」
「あぁ」

明らかに先ほどまでより弱々しい声で千夏は言い、ゆっくりと立ち上がって、オレの隣に座った。
いつも見慣れている千夏の横顔が、人生お先真っ暗とでも言わんばかりに落胆の色を見せている。
いつも見慣れているはずの千夏が、いつにも増して弱く小さく、矮小な存在に見えてしまう。
こんな小さな身体に今、どれだけの重圧がかかっているのかは計り知れないだろう。
堪え切れずに爆発してしまったら、そう考えただけで、気が狂ってしまいそうになる。

その重圧を、オレが肩代わりしてやることができるだろうか?
肩代わりできたとして、オレが持ち切ることができるだろうか?
できなかった時は――考えたくもない。

「…帰ってこい、だって」

予想通りの返答だった。というか、それ以外にはフレーズが思い付かない。
理不尽なやり方でココを見つけられた以上、おだやかな日はそう続くまい。
案の定の返答と報告に、思わずひとつ溜め息をついた。

「それで、千夏は?」
「もちろん、ヤだって言ったよ? わたしたちはここで暮らすから、東京には帰らないって」

さすがは千夏だ。思ったことをちゃんと、意思表示している。

「―でも、」

意思表示しただけであの母親が引き下がっていれば、千夏が泣いたりすることはない。

「わたし… 昔から、怒ってるお母さん苦手だったの。普段はすっごくやさしいのに、キートのことになると
人が変わったみたいになって…。だから、何度もケンカしたし、怒ってるお母さん見るのもはじめてのこと
じゃないの。―でも、あの時だけは違った」

一呼吸間を置いて、続ける。

「ココを知らないはずのお母さんがいきなり来たことと、ココを調べた方法を聞いて、…なんていうのかな。
驚き以上に、ここまでやるのか、っていう怖さみたいのがあって、怖じ気づいちゃったんだと思う。
いつもなら言い返せる言葉も、全部聞き入れてた。むちゃくちゃなこと言ってるのわかってても、聞き入れてた」

興奮ぎみに話す口調とは裏腹に、千夏の表情は心なしか青ざめて、自虐告白のようにも見えた。
当時の状況を思い浮かべただけで千夏の苦しみがわかり、幸せ気分に浸っていた自分を殴り飛ばしたい。

「言いたいことを全部話して、わたしが何も言わないから、お母さん、一言だけ残して帰った」

生活の自由を親に束縛され、非道な方法でプライバシーを探られた千夏の心が負った傷は、
オレが帰宅するまでの数分間、千夏にどれだけの孤独感と苦しみを与えたのだろうか。
そして、千夏を涙させた母親の一言は、何だったのだろうか。

だが、千夏はその一言を口にはせず、奇妙な間が空いた。

「その…一言って?」

次の言葉を催促する、ただそれだけの、何気ない一言だと思っていた。

「―千夏?」

その一言がまさか引き金になって、千夏が震え出してしまうとは、思ってもみなかった。
俯いて見えなくなった顔がどんな表情をしているかは、想像はできてもしたくはなかった。
小刻みに震える肩が、手が生々しくて、今目の前にいる千夏を千夏だと思いたくなかった。
しかし今、千夏は本当に震えて、恐怖を露にしている。逃れられない事実なのだ。

突然のことでオレも動転して何もしてやれず、動けなかった。

「迎えに…来るって…っ」

震える身体から発せられた震えた声が、頭の中で反芻する。胸の締め付けが一層強くなって、
何か一言でも喋ろうものなら吐血してしまいそうだ。しかし必死に堪え、口を動かす。

「いつだ!?」

無意識に声が荒がる。そうでもしないと、喉から声が出てきそうにない。

「…明日」
「なっ…!」

早すぎる。強行手段も有り得るとは思っていたが、いくらなんでも急すぎだ。

「八時頃、って…」

ご丁寧に時間指定までするとは。千夏の母親は、オレの予想を大きく上回るほどの"大物"だった。
最後に残した一言の内容のあまりの衝撃の強さに、もはや言葉が出なかった。

迎えに来る、だと…? 子供の自由を奪おうとしてるくせに、何が迎えに来るだ。
時間まで指定しやがって、ふざけるにも程がある。その身勝手がどれだけ子供を苦しめているのか、
わかっているのか? わかっているはずがないな。尋常な親の所業ではない。

今まで生きてきた中で最も強い、憎しみにも似た怒りを感じている。思わず拳に力が入る。
歯を強く食い縛り、髪の毛が逆立つような錯覚まで覚える。オレが誰かに対して怒りを感じることは稀、
ましてや人の親に憎しみを覚えるなど経験したことがないが、今のオレは、全身の血が煮えくり返るほど
怒っているのだ。自分でも驚くほどに、怒っている。それこそ、当人がいたらこの拳で―

「キィト…っ」

千夏の震えた声で、沸点に達していた怒りが一気に冷めた。
母親に憎しみの思念を向けるより、何倍も大切なことを忘れてしまうところだった。

「わたし…、こわいよぉ…!」

俯いていた顔が、目が、オレの顔を見やった。涙を堪える顔が、涙を溜める瞳が、オレの顔を見やった。
でもすぐに堪え切れなくなって、また大粒の涙が頬を伝い、悲しさで顔がくしゃくしゃになった。

「わたし、たちっ、ずっと、一緒に、」

悲しみに溢れる千夏の顔を見ているのが、堪えられなかった。
千夏の頭を胸に抱きしめ、そしてまた千夏も、オレにすがるように抱きついた。

「ふえぇぇぇぇん!」

腕の中で泣き叫ぶいたいけな少女は、いつも元気で明るくて夏が大好きな、14年来の幼なじみだった。



千夏が落ち着いてから話し合って、明日は店を休むことになった。
電話で連絡を入れた店長は呆れるほどに寛大で、入って数週間の新米調理師に有給休暇を出してくれたのだ。
本当に、笑ってしまうぐらい心の広い人だ。

そして夜、独りで眠りたくないという千夏のお願いで、一緒に寝ることになった。
泣き疲れと心労が重なって、千夏はベッドに入ってすぐに寝入ってしまった。
幸せそうな寝顔がどこか辛そうで、オレの胸がギシギシと、本当に音を立てているかのように痛む。
これからもずっと、千夏の寝顔を見ていたい。幸せな寝顔でいられるよう、がんばらなくちゃいけない。

全てを背負った明日が、やってくる。