続・千夏の夏 最終話

「キート」
「…

千夏の声で目を覚ました。平日に目覚まし以外で起きたのは、…昨日もそうだったか。
あまりにも気分的なギャップがあり過ぎて、同じ出来事だという感覚がなかった。

目蓋を開けると、まだ横になっている千夏の顔がぼんやりと見える。

「おはよ」
「はよ。…今、何時だ?」
「六時半」

普段から比べたら一時間以上も早起きだが、昨晩は寝るのが早かったし、早起きするに越したことはない。
―特に、今日は。

しっかりと伸びをして、大きく息を吐く。

「朝飯、食うか」
「うん」

二人一緒に起きて、千夏は風呂場に、オレは台所に向かった。こんな日でも朝シャンは欠かせないらしい。
いや、むしろ今日という日だからこそ、必要なのかもしれない。



「いただきます」「いただきます」

今朝の朝食は、オムレツにした。特別何か意味を込めたわけでもなく、単なる気まぐれだ。
いつもなら聞こえる千夏の元気ないただきますも、今日ばかりは覇気なく、オレと大差ない声調だった。
それからしばらく双方無言のまま、聞こえるのはカチャカチャと鳴る食器の音だけ。
音を聞いているだけなのに、突然気持ちがザワザワしてきて、居ても立ってもいられなくなった。
このままこの音だけが続いてしまうんじゃないか、そう思って、沈黙に激しい嫌悪感を覚えて、

「なぁ」
「ふぇ…?」

沈黙を破る一言。
破ったのはいいが、別段話すことはなく(気軽に話せる空気でもなく)、言葉に詰まってしまう。

「なん、つーか…その」

沈黙のままの方が良かったんじゃないかと思うぐらい、この状況に困惑している。
何か言ってやりたい気持ちもあるが、急いてしまって気の利く単語が全く浮かんでこないのだ。
刻一刻と時間が過ぎるたびに、焦りが比例して増していく。さぁ、何か言え秋人、

「キート?」
「ぅえ?」

カウンターをモロに食らった。

「わたしは、大丈夫だよ」

そんな声で言われても、とさらに心配心が強まる。

「キートが…いてくれるから」

ドキリ、と胸が鳴った。飾りも何もない本音が、嬉しさだけではない感情を振るわせる。
しっとりとオレを見つめる千夏の瞳が、こんな状況でなければかわいく愛しく思えたろうに。

「…あぁ。がんばる」

言うと千夏は少し安心したようで、軽く微笑みを見せてから食事を再開した。

朝食を食べ終えてからは、互いに何するでもなく、好きなことをしていた。
オレはソファに寝転がって天井を眺め、千夏は普段通りに家事をこなしていた。
この、なんでもない普段の生活が、これからも続けられるように…という願いの現れなのかもしれない。
約束された時間まで、それぞれの思いを巡らせながら、無情にも時は流れてゆく。



「涼しいね」
「そう…だな」

約束された時間、AM8:00までもう間もない。あの性格だ、早くも遅くも来ないだろう。
室内で、いつやってくるかわからないまま待つのは忍びないので、玄関前の外廊下で待機することにした。
二人してベランダに寄りかかり、前方に見える北側の情景を、何気なく眺めていた。

朝方ということもあって熱気は薄く、快晴だというのにあまり汗を掻かない、快適な一日になりそうだ。
こんな日は、飽きずにまた二人でお出かけして、お弁当でも持ってピクニックに行くのも悪くはない。
…そんな話を千夏としたくてしょうがないのに、この状況がそれを許してはくれなかった。

「あっちの景色はよく見るけど、こっちの景色ってあんまり見ないよね」
「あぁ。たまには、いいかもな」

田舎と言えども街並みが望める南側と違って、北側の景色はじつに簡素であった。
林の向こうにはだだっ広い田んぼがあって、高い建物と言えば、田んぼの中を突っ切る送電鉄塔ぐらいだ。
見ていても何も感じない、つまらない光景。この何気ない光景が、かけがえのない"なにか"の一つなのだ。

…今、何時だろう。腕時計なんて西洋的な物は持ったことがない。故に、時の経過にやたら敏感になる。
まだもう少し、余裕を遊ばせられる時間があるだろうか。いや、そもそもオレ、余裕すら持ってないか。
いつ来るのか、どんな態度で臨めばいいのか、オレの力でなんとかなるだろうか、もう頭はグチャグチャだ。

二人、ただただ景色を眺めながら、目下に見ゆる林の割れ目に意識を傾け―

あ…

千夏のかすかな一声。
現れたのだ。黒塗りの場違いな高級車が、また。
招かれざる、来るべきではない存在が、イレギュラーがやってきた。

―母親という、イレギュラー。

無意識に肩に力が入る。それが怒りから来るものか、緊張から来るものかはわからない。
リラックスしようと考えるが、今のオレにそんな器用なマネはできそうにない。
臨戦態勢か敗北宣言か、二つに一つの選択肢しか、余裕のないオレにはなかった。
そして、選ぶは前者のみ、ということも。

このマンションは屋内から外階段に出るため、入り口に横付けされた車の様子は窺えなかった。
だが、見えないことが尚更、母親がやってくるという事実を強く意識させている。

「千夏」
「…っ」

外階段は右手、東側にある。待機していた時にオレが右、千夏が左にいたので、自然と千夏が後ろになる。
後ろにいる千夏はまるで怯える子供のように、オレの背中の服を掴んで身を隠すようにした。

「怖いか?」
「…うん」
「安心しろ。オレがついてる」
「…うんっ」

千夏の顔は見えないが、その声色の変化だけで表情がわかる気がした。
魂を分かち合った我が子を守るような気分でもあり、同じ血の通った兄弟を守るような気分でもある。
オレが守ってやらなくちゃいけない。理不尽な脅威から、このか弱い女の子を守らなくちゃいけない。

一歩一歩、目に見えぬ脅威が階段を上っている。
もう、無駄な思考を巡らせている余裕はこれっぽっちもない。
ただ一心に、千夏を守ることだけを考え、行動すること、それだけに集中する。

心臓がドクドクと脈動する。まるでボクサーパンチを胸に受けている気分だ、まいっちまう。

さっきまで涼しかったはずが、また昨日みたいな汗が溢れてくる。クソッ、気分が悪い。

喉が死ぬほどカラカラだ。麦茶をコップ2杯分も飲み干したはずなのに。声が嗄れてしまいそうだ。

オレってヤツは本当に、正念場に弱いダメなヤツだ。つくづく自分が嫌になる。
もっと男らしく堂々と、胸張ってかかってこいと言える度胸はないのか。
あぁ、そんなもんがあったなら、車が来た時点でこちらから乗り込んで行ってるはずさ。
オレは臆病だ。最愛の人のためなんて大口叩いたって、できることは所詮蟻畜生と一緒だ。
否、それでは蟻に失礼だ。蟻ができることすら、オレは千夏にしてやれていないかもしれない。
目前の脅威に腰を抜かしてしまう小心野郎が、人間世界に勇敢に立ち向かう蟻と比較になろうか?
なるわけがない。そうだ、オレは蟻以下で、どうしようもなくダメで、ダメでダメでダメで―

それでもオレは、やらなくちゃいけない。

例えこの命に代えてでも、蟻以下だろうとも、やらなくちゃいけない。

あの日交わした契りを、人生をかけて全うするために。

約束したんだ。

千夏を…守るって。

―来た。
エレベーターがないことが至極嫌そうな顔で階段を上り切り、四階。
こちらの存在に気付いて、悠然と、しかし厳めしげに、紺の三点フォーマルに身を包んだ女性が歩み寄る。
実際、千夏の母親とは昔も含めて何度か会っているが、全くもって近付き難いオーラを放ち続けている。
千夏の言う『やさしい母親』が微塵も想像できない。

ゴクリ、と無い唾を飲む。空威張りでガンを飛ばすが、裏を返せばビビっている証拠だ。
無論、その程度で動じるような相手ではないことはわかっているし、現に動じていない。
母親が一歩進むごとに鳴るハイヒールの音が、オレの鼓動と同調して気持ち悪い。
千夏がオレの服を掴む力が、さらにぎゅっと強くなった。昨日ほどではないが、小さく震えている。
オレだって助けて欲しい。だが、千夏はオレを頼っていて、頼られているオレが弱音を吐くわけにはいかない。
オレなりにできる最大限の、出来得る限り最高の徹底抗戦を見せてやる。

遠くもなく近くもない距離で、母親が立ち止まった。もはやここは戦場で、マンションの一角ではない。
東京で驚愕の一言を放たれたあの日以来、もう二度とないと思っていた対峙だ。

この距離から見る母親は意外なほど若く見えるが、近くで見れば皺だらけに違いない、と
心の中で無意味な遠吠えをかます。茶髪の長い髪だって白髪隠しに違いないのだ。
…口に出して言ってみろ、秋人。

母親は不敵な笑みを見せ、長い髪を邪魔くさそうに手で後ろに払った。

「ごきげんよう、沢口さん、、、、?」

チッ…。
今まで名前ですら呼んだこともないくせに、名字にさん付けとは、嫌味の結晶が歩いているみたいだ。
あえて返答はせず(返答の余裕がないとも言う)、ただひたすら敵に睨みを向け続ける。
千夏の状況が心配だが、大丈夫、オレと千夏は服を通してつながっている。

「わざわざ家の前で千夏の見送り? ろくでもない男だと思っていたけど、殊勝なことね」

落ち着け、秋人。敵のペースに乗るな。そこに反論してはならない。

「でも、あなたのような下種に見送られる義理はないわ。そうでしょう? 千夏」

服の引っ張りが動いた。母親に名前を呼ばれ、引っ込んでしまったのか。直接攻撃はマズい。

「こんな所でこんな男と暮らすよりも、あなたには約束された明るい人生が待っているのよ?」
…ヤだ…
「私だって忙しいの。さぁ、早く一緒に東京に、」
「ヤだッ!」

千夏の叫びに、母親の左眉が吊り上がった。あからさまに不愉快な感情を露にしている。

「千夏がこう言ってるんだ。子供の自由を尊重してやるのが―」
「これは私と千夏の問題よ。赤の他人は引っ込んでなさい!」

先ほどまでの柔和な態度は欠片もなかった。

「他人なもんか。オレと千夏はもう、切っても切れない絆で結ばれてる。親子だけの問題じゃない」
「ふざけないで。何が絆よ。親でも兄弟でもないアンタに、千夏の何がわかるっていうの!」
「確かにオレは、親や兄弟よりも千夏と過ごした時間は短い。でも、それは誰だって当たり前のことだろ?
これから長い長い時間をかけて、肉親よりも長い時間をともに過ごして、互いに分かり合っていこうとしてるんだ」
「その考えが甘いって言ってるの。千夏はアンタの浅はかな頭脳で理解できるほど不出来な子じゃないわ。
私が手塩にかけて大切に育ててきた、誇りある一人娘なのよ? 下流階級で育ったアンタなんかが、
ウチの千夏と釣り合うわけがないわ!」

緊張していたオレも、そこまで言われておとなしく反論できるほど肝は据わっていない。
握っていた拳は緊張による筋肉の攣りではなく、怒りによる筋肉の奮えに変わった。

「このご時世、下流だの上流だの言ってる方が浅はかだ! 恋愛感情が歳も身分も国境も超える時代に、
武家みたいな考え方に縛られてる方がおかしいだろ!」
「フン。そんなもの、低俗な人間の僻みに過ぎないわ。自分の位の低さを認めたくない、そうでしょう?」
「違うっ! 位が高いとか低いとか、そんなくだらないもので人生を左右されてたまるか!」
「くだらない、ですって…? まったく、これだから…。いいこと? その子には、その子に相応しい約束された
相手がいるの。あなたのような下劣で野蛮な男と一緒にさせてしまったら、杉本の名に傷がつくわッ」
「じゃあ、下劣で野蛮なオレと一緒にいる千夏はどうなんだ? 今ここにいるのは、千夏本人の意思だろう」
「そうね。でも、どこぞの下劣で野蛮な人間が誑かさなければ、千夏は間違った選択をしなかったわ」
「…そうやって、娘の意思を否定して…楽しいか?」

またピクリ、と左眉が釣り上がった。

「私は、私がしていることは、全て千夏のためなのよ! 子供を持ったことがないアンタには到底理解できない
でしょうね、私がどれだけ苦労して千夏をここまで育ててきたか。ただでさえ睡眠時間もろくに取れないほど
忙しいっていうのに、どうにか産んだ子は放蕩息子に成り下がって、私の人生で唯一の汚点よ。
だから次の子には、千夏にはこうなって欲しくないと思って、全身全霊をかけて育てようと決めたわ。
親の死に目よりも優先した仕事を後回しにして、持てる時間のほぼ全てを千夏の育児に注いだ。
成績優秀、明朗活発、容姿端麗。料理以外は、私の思い通りに育ってくれたわ」

この修羅場の中、"料理以外"のフレーズに興を取られたのは不謹慎か。

「…沢口 秋人という害虫さえ現れなければ、全部私の思い通りだったのよ!」

ほぼ完全にこの人間の気質はわかった。どんな雑言も、もうオレには通用しない。
少しの間を空け、軽い溜め息を吐いてから開口する。

「さっきから聞いてりゃ思い通り思い通りって、それじゃ子供の意思はどうなるんだ!?
本当に子供のためを思うなら、自由意志を尊重してやるのが一番大切なはずだろ!」
「馬鹿なこと言わないでちょうだい! 子供に自由を与え続けて、良いことなんか一つもないわ!
好き勝手やって親に反抗して、それこそウチの馬鹿息子みたいなのが、東京にはうじゃうじゃいるのよ!?
親が敷いたレールの上を走っている方が、子供の為に決まってるわ!」
「いーや、その考え方は間違ってる。アンタは意思尊重と放任主義を履き違えてるんだ。
規律と自由、世界はその二つで出来ていて、どちらも均衡して両立してなければバランスが崩れる。
子供も同じだ。マナーやルールを学ばせ、その中で自由を与えてやることで、人間らしい人間になっていく。
規律か自由、どちらかに偏った育て方されたら、アンタみたいな人間がどんどん増えちまうよッ!」
「なんですって!? 今まで何不自由なく生きてきた木偶の坊に、私のやり方を否定される筋合いなんかないわよ!」
「不自由なんか、山ほどあったさ! 両親を失ったあの日から、オレは懸命に独りで生きてきた。
自由という名の不自由を無数に体験してきたからこそ、人らしい人の在り方がわかるんだ!」
「そんなもの、自分の勝手な価値観に当てはめてるだけじゃない! 都合いいように解釈して、
両親がいないからって被害妄想? 私の方が、もっともっと辛い人生を送ってきたわよ!
自分だけが辛い思いをしてきたような言い方するヤツなんか、大ッ嫌い!」

今、怒りとは少し違った感情が熱くなっている故に、正常な思考判断ができているかわからない。
しかし、今の母親の発言で、ほんのわずかながら彼女の見えない一面が垣間見えた気がした。

「度合いは違えど、誰だって辛い思いをして生きてるんだ。オレだって、自分が一番苦しい人生を送ったなんて
思っちゃいない。ただ、辛い思いをしてきた分だけ、世渡りする上での様々な知識を多く身に付けてるんだ。
アンタがどんな人生を送ってきたのか知らないが、そうして得た知識が捻じ曲がってひん曲がって、
こうなってしまったんじゃないのか?」
「捻じ曲がっているのはアンタの方よ! 私は、自分の正しいと思ったことをしているだけ!」
「じゃあどうして千夏はオレに付いてきた!? 本当に正しいことをしているのなら、間違いなく母親であるアンタに
付いていってるはずだろ!?」
「だから、それはあなたが、」
「オレがオレがってすぐ人のせいにして、自分の行いは顧みないのか? 自分のしていることが全て正しいなんて、
エゴイズム以外の何物でもない! アンタが言ってることは、全部自己弁護だ!」
「…クッ」

よし、と思わず胸の中でガッツポーズを決める。敵の猛攻を止めることができたのだ。
顔には出さないが、勝負で優勢を取ったことで身体に力がみなぎるような快感を覚えていた。

だが、この程度で引っ込む母親では、やはりなかった。突如、その表情に余裕が戻ってきていた。

「…なら、千夏の手の傷はどう説明するのかしら?」

…!

「あなたに付いていったことで、そのコは一生消えない傷を負った。それが正しい事だったと言えるのかしら?」

劣勢を一気に覆された。避けられない道だと思っていたが、このタイミングで引き合いに出されては、
さっきまで有頂天になってこともあってたじろいでしまう。―しかし、負けられない。

「確かに、オレのせいで千夏をあんな目に遭わせてしまった。もちろん、それが正しいわけがない。
でも、その罪を償いながら一緒に歩んでいきたいっていうオレの言葉に、千夏は付いてきてくれたんだ。
だから、オレは… 消せない傷の罪以上に、千夏を幸せにしてやりたいって思ってる」

するとまた母親は左眉を吊り上げたが、嘲笑うかのように一笑して切り捨てた。

「やっぱり、知能の低い人間に口で説いてもわからないようね」

いきなり場の空気が変わる。修羅場ではなく、物凄く嫌な、圧迫されるような空気になった。
母親が右手を挙げ、指をパチンと鳴らした。

「なっ…!?」

母親の背後から、二人のスーツ姿の男が隠れていた階段から現れた。
米国のボディーガードとまではいかないまでも、服越しにもかなり屈強な身体つきをしているのが見て取れる。
車から降車するところは死角だったため、何も対策を練っていない。母親一人だと思っていたからだ。

マズい。いくら元運動部で日本縦断者とはいえ、それらを専門にやっている、、、、、、、、、、、、人間には到底勝ち目がない。
しかも、一対一ならまだしも相手は二人。ますます目の前がホワイトアウトしてしまいそうだ。
―諦めるな秋人。可能性はゼロではない。もしかしたら、レッカマンが助けに来てくれるかもしれないぞ。

…。

豊満についた筋肉が邪魔くさそうな歩き方で、男二人は母親の背後に揃って立ち止まった。
狭いマンションの外廊下では、ガタイのいい男二人が横に並ぶと非常に窮屈そうだ。

「力説ご苦労様。でも、親は私で、あなたは赤の他人。所詮、千夏の身柄をどうにかすることなんて不可能よ」

見下すような目付きで、人を指で指して強調までしてくる。やっぱりこの女は歩く嫌味の結晶だ。
自分の力じゃないくせして、勝ち誇った顔しやがって―そんな虚勢を張っていられるのも今の内だ。
力勝負では、武器でもない限り敵いそうにない。そして、周囲に武器になりそうなものはない。
…四面楚歌とはまさにこのことか。

「…やりなさい」

男二人がズンズンと進軍してくる。そこら辺のチンピラなら相手したことはあるが、格が違いすぎる。

「千夏、下がってろ」
「で、でも、」
「いいからっ!」

千夏は唯一つながっていた服をそっと手放し、ゆっくりと数歩下がって身体を縮こませていた。

彼我戦力差は圧倒的、彼我相対距離はみるみる縮まっていく。
このまま黙って突っ立っていただけじゃ、為す術もなくボコボコにされておしまいだ。
諦めるくらいなら、何かやってから終わった方がいいだろう? 男らしく、華々しく散った方がマシだ。
このまま犬死したんじゃ、あの世にいるおとんもおかんも喜ばなねぇだろうしな。

…違う。そうじゃない。

オレが散るんじゃない。

相手を散らすんだ。

ダメだから仕方なくやるのではない、諸共玉砕覚悟で突撃するのだ。

それこそが、日本男児の精神。―そうだろう、オヤジ?

最愛の人を守るため、この身を捨てて挑むんだ。―そうだろう、おふくろ?

「うぉぉおおおおぉお!!」

頭を前に突き出して、持てる力を全て放出して突進する。

が。

「ぅぐっ!」

まるで赤子の手を捻らんばかりに頭を掴まれていなされ、マンション側の壁に激突した。
痛みには慣れている、すぐに反撃の手に回ろうと体勢を整え―

「ガッ…!?」

ヤツの手が、見えなかった。瞬く間に右手で首を掴まれ、そのまま絞め上げられた。
すぐに振り払おうとするが、壁に押さえ付けられる力と凄まじい握力でビクともしない。
払うどころかどんどん身体を持ち上げられ、首を絞める力が次第に強さを増しているのだ。

「ゥ…グ…!!」

声が出ない。意識が朦朧としてくる。かなり持ち上げられているはずなのに、男の目線はオレと同じ高さにある。
…今、オレ、浮いているのか? 信じられない。足をバタつかせるが、もうバタついているかもよくわかっていない。
無表情で淡々と仕事をこなす男の顔を見て、猛烈な怒りが湧いてはすぐに苦しみで掻き消える。
金的でも狙おうか、ダメだ、もう足の感覚がない。目の前が霞んできた。抵抗する力も起きない。

オレの玉砕なんて、こんなもんなのか。敵に一撃も入れられぬまま、本当に犬死しちまうのか。
情けねぇ。やっぱりオレは、口だけの―

「い…、いや…!」

…この…、声…?

「来ないでッ!」

濃霧のような視界で、声がした方向を見やる。
薄ぼんやりと、腰を抜かした女の子の前に、もう一人の大男が迫っているのが見える。

…千夏?

「イヤッ! やめて、離してェ!」

嫌がる女の子の手を大男が掴んで、それを振り払おうとしていた。

…そうだ。オレ、千夏を、守らないと…

「たすけてっ! キートォ!」
「……ち…か…」

万事、休すか…。



「おやめなさいっ!」



オレも含め、その場にいた全員が、突然の怒鳴り声に反応してその方向を向いた。
もっともオレは、目を向けたところでぼやけすぎて何も見えないのだが。

「あ…」

皆呆然とする中、最初に口火を切ったのは母親だった。

「あなた…」

とびきり驚いたと言わんばかりな声で言った。

「どうして、ここに!?」
「近頃のお前の行動が怪しかったのでな、探偵を雇わせてもらったよ。いや何、じつにおもしろい余興だった。
探偵が探偵を尾行するなんて、前代未聞さね」

声しか聞こえないが、やや年老いた掠れ声をしていた。その割に喋りのテンポはしっかりしている。
声の方向から察するに母親の後方、階段を上り終えた所に立っているようだ。乱入者が多い日だな。

「そこの二人。放しなさい」

掠れた声が言うと、オレの視界にあったものが急激に上に流れた。
…否、オレが下に落ちたのか。足で立てるわけもなく、尻からズドンと廊下に落ちた。
首の絞め付けによる苦しみから解放され、大げさなくらいゲホゲホとむせた。男が手を放したらしい。

「キートッ!!」

潤んだ声が聞こえて左方を見る。ぼんやりとだが、千夏がオレに駆け寄ってきた。
膝をついて、心配そうにオレの顔を覗き込んでくる。どうやら、また涙を溜めているようだ。

「大丈夫!? ケガない!? 息できる!?」
「…あぁ、どうにか…。千夏は…平気か…?」
「わたしのことより、キートの方が!」
「心配、すんな…。これぐらい…なんともねぇから…」

オレのことをここまで心配してくれて、心から嬉しく思う。千夏も大丈夫みたいだし…よかった。

「静香。今日は、森田屋の重役との打ち合わせがあるだろう? お前こそ、どうしてこんな所で油を売っている」
「油? 大事な一人娘の行く末がかかっているというのに、あなたはそれを油売りだと言うの!?」
「あぁそうだ。千夏はもう子供じゃない、自分の人生ぐらい自分で決められる」
「決められっこないわ! こんな男と一緒に行こうと考えている時点で、間違った選択をしているのよ!」
「お前は最初から、たった一つの出来事で人間の価値を決めてしまう女だったか?
人様のせがれに向かって『こんな男』と言い捨てられるほど、驕り高ぶった人間だったか?」

母親は何も言い返せなかった。さすがである、あっという間に言い伏せてしまった。

…って。

やっと視界が意識がハッキリしてきたが、あのおっさん、誰だ?
パジャマ姿にカーデガン、松葉杖を突いている上にお付きの女性が肩を支えていた。
だいぶ白髪が占領し始めた頭髪と、さらりと生えたあごヒゲがミックスされて、いかにも金持ちそうである。

「そんな単純な人間だとしたら… 静香、お前はやはり、私の財産目当てに―」
「ち、違うッ! 私は、あなたの財産なんてちっとも、」
「だったら」

語調を強め、区切るようにおっさんが言った。

「だったら何故、二人のことを認めてやろうとしない。どうして立場を置き換えて考えてやろうとしない。
あの時、私の両親が、静香の両親が少しでも結婚を反対したか? 反対どころか凄まじい賛成っぷりだったろう。
親になった私たちが今、その恩を子に受け継がせ、祝福してやるべきだとは思わんのか?」
「そ…、それは…」
「いつも私に話しているじゃないか。千夏は私の誇りだと、誇れる私の一人娘だと。そこまで誇りに思うのなら、
娘の意思で決めたことに、誇りを持って賛同してやるのが親の務めではないか?」
「…っ」
「私は、わかっているつもりだ。静香。お前はただ、一生懸命育ててきた我が子を手放したくないんだろう?
本当は秋人くんにこれっぽっちも恨みはないし、秋人くんが悪くないことは最初からわかっていたはずだ。
でもお前はそれらを認めたくなくて、手放したくない理由を秋人くんに責任転嫁して、ひどいことをしてきた。
お前はこれからもそうやって、無意味な争いを繰り返すつもりか?」
「…」

あの母親が押し黙ってしまった。おっさん、すげぇ迫力だ。

「…わかってるわ、そんなこと。わかっていて、千夏を嫁になんか出したくないから、こんなことして…。
でも私はあなたのために、杉本のためにがんばってきた! 私のせいで跡継ぎがあんな風になってしまったことに
強く責任を感じて、だから次こそ、千夏を良い子に育てて、良い家に嫁がせて―」
「そんな気負い、しなくてもいい。する必要はない。私は、杉本の家柄には縛られたくないんだよ。
跡継ぎがどうだの考えたってつまらなかろう? 子供たちが生きたいように生きれば、私はそれでいい。
…そうか。お前には、杉本の名で要らぬ苦労を掛けてしまったようだな。―すまなかった」

今度こそ完全に母親は言い伏せられて、(自分の目を疑ったが)顔を俯かせた。

「秋人くん」
「えッ、あ、はぇ、ははハイ!!」

いきなり呼ばれて驚いて、ぐだっていた姿勢から何故か正座してしまった。

「私の妻が、随分と迷惑をかけたね」
「あ、い、いえ、そんな、」

…エ? つ、つつ、妻ァ!?

「この償いは、私たち杉本家が誠心誠意―!?」

言い掛けて、"父親"は急に胸を押さえて苦しみ出した。むせるのとは違う、嫌な感じの咳だった。
肩を支えていたお付きの女性が慌て始め、俯いていた母親も慌てて父親に駆け寄った。

「お父さん!」

千夏も駆け寄ろうとし、

「そこにいなさいっ!」

母親に制止され、立ち止まる。止まりはしたが、何故止められたかわからず鳩が豆鉄砲な顔になった。
母親は千夏と顔を合わさず、向こうを向いたまま言う。

「っ…。そこで…、診ていてあげなさい…」

ひどく辛そうに言って、オレたちが見送る中、父母とお付きの三人は慌しく階段を降りていった。

「…」
「…」

オレと千夏、きょとんと目を合わせている隙に、忘れ去られた大男二人は焦って父母らを追いかけていった。



それからしばし、互いに目をパチクリさせていると、二台の車の排気音が遠のいていった。



「…ねぇ、キート」
「…おぅ」
「これ、って…?」
「そういう、ことか…?」

今さら、自分が正座したままなのに気付いた。まぁ、千夏も膝立ちのままだし、気にするな。

「…夢じゃない、よね?」
「あぁ」
「今、わたしたち、ここにいるよね?」
「あぁ」
「わたしたち、ここで暮らしてもいいんだよねッ!?」
「あぁ!」

今日初めて、千夏の顔から満面の笑みが溢れた。

マンションの前だということも忘れ、コンクリートの上だということも忘れ、二人仲良く抱き合った。

ちょっと気を緩めれば涙が出てきてしまいそうなくらい嬉しくて、二人仲良く笑い合った。



朝方ということもあって熱気は薄く、快晴だというのにあまり汗を掻かない、快適な一日になりそうだ。









「あっ」

身体を密着させたまま、千夏が顔を離してオレの顔を見つめた。コロコロと嬉しそうな顔をして。

「ねぇ、キート?」
「ん?」
「一つ、名案があるのっ」
「…妙案?」
「名案ッ」
「な、なんで急に名案」
「いーの、とにかく聞いてっ」
「はいはい。名案ってなんですか?」
「…あのね…」

さっきまでハイテンションだったくせに、急に恥ずかしそうに照れ顔になって身体をくねくねさせ始めて、
人前じゃなかったら思いっ切り抱きしめちゃいたいかわいさだ。

「お母さんの許しももらったしぃ…。キートとわたしのお仕事も決まってぇ…。だから…ね?」
「…なんだよ」
「だーかーらぁ」

胸の前で祈るような感じに手を組んで、それをくねくね動かしながら千夏が言う。
キラキラした目でじっとオレの目を見つめて、男としては色んな意味でものすごく困る間そうして、

千夏がまた、満面の笑みを見せて勢いよく抱きついてきて、

「結婚しよ♪」

…はい?

「な…なんだって?」
「だから、結婚♪」

…結婚、ですか。
あの、男と女が夫婦になるっていうアレ、ですか。

…オレと、千夏が…夫婦?

あーなーたーとわたーしがー ゆーめーのーくにー?

「…マジか」
「まじまじ♪」

…。

ええええええええええ!?