キーンコーンカーンコーン。
勤務時間終了の鐘が工場内に鳴り響く。
「いやぁ長野君、ご苦労様」
いち早く帰らんとする後片付けの喧騒の中、社長兼工場長が長野の元にやって来た。
「あっ、社長、お疲れ様です」
咄嗟に作業帽を脱ごうとした長野だが、食品製造現場の真っ只中であることを思い出し、一礼に留めた。
「いやいや、もうね、ホンットに、長野君のおかげですっごく助かったよ」
「いえそんな、恐縮です」
「ウチの社員にも見習って欲しいね、まったく」
ハハ、と苦笑いで返す。
「できれば、長野君にはずっと居て欲しいくらいなんだけどねぇ」
こちらこそ、と申し出たいところではあるが、その実単なる世辞、あるいは実現を妨げる"大人の事情"が潜在しているに違いない。
「また機会があったら、もちろん長野君ご指名のつもりだから、ヨロシクね。――あっ、そうそう、これは決して賄賂なんかじゃないけど、そうだねぇ、手付金の親戚だと思って…なーんつって、ホントに個人的なお礼だから、いやいいっていいって」
長野の性格を知ってか、遠慮の言葉を欠片も挟ませず、半ば強制的に受け取らせた。
手にしてなお受領を拒むほど根性の座った、もとい義理人情に無頓着な長野ではなく、
「ありがとうございます。おいしく戴きます」
素直に受け取り、諸々の後片付けを済ませ、退勤の途に就いた。
長野隆央は、フクシマスタッフに勤務する派遣社員である。
フクシマスタッフは主に製造・食品系工場への派遣を取り扱うが、顧客からの要望で臨時のイベントスタッフ等に派遣するケースもある。
長野が例外業務に派遣されたことはないが、それには理由があった。
勤勉実直な彼の勤務態度が多くの派遣先の幹部に評価され、リピート派遣に指名されるのだ。
一時的な労働力の要員に過ぎない派遣社員の中で、長野の実績は異例中の異例だった。
にもかかわらず、長野が一般に待遇の良いとされる正社員になれない、ないしならない理由がさらにある。
彼は、数年前まで国立大学の学生だった。
諸般の事情から、休学、フクシマスタッフへの就業を経て自主退学している。
一般企業ではなく派遣会社を志望したのは、大学を中退した半端者が正社員として社会を渡り歩くのはおこがましい、との考えから。
派遣先から正社員登用へのお誘いの声が掛かることも少なくないが、アルバイトからならまだしも、長野のようなケースではヘッドハンティングに近いため、ことさら実現には遠かった。本人も断る腹積もりでいる。
工場を出た長野は、自転車に跨り市中のフクシマスタッフ本社に向かった。
それなりに栄えた国道沿いの繁華街の一角、五階建てテナントビルの三階に居を構えている。
派遣社員同士は交流機会に乏しく、明らかに同僚と思しき若者と出くわしても挨拶することは稀だが、長野はやはり「お疲れ様です」と挨拶した。
本社事務所内に入り、同じく社員と挨拶を交わしつつ長野が向かったのは、入社以来訪れることのなかった社長室である。
社長と面会したことは何度かある。従業員が登録派遣社員を含めて百人に満たない小規模企業故、事務所で社長と遭遇するのは珍しいことではなく、休憩所や事務所の一角で遭遇することもあったが、形式的に社長室に訪問したことはなかった。
事務所エリアからやや外れた通路の先にある社長室の前に立ち、簡単に衣服を整え、ノックする。
「はいはい」
「派遣社員の長野です」
「あぁ、どうぞ」
あまり音を立てぬようノブを回し、「失礼します」と入室。
八畳間、整然としたデスクと向かい合いの応接セットが設けられている。
「すまないね、仕事帰りに」
「いえ」
「まぁ、座って座って」
眼鏡を外し、椅子から立ち上がりつつ長野に着席を促すスーツ姿の社長、福島忠重は、歳も五十台、薄毛の進行が目立つ初老の男性である。
「失礼します」
社長が先に着席するのを待ち、長野もソファに腰掛けた。
通常、派遣業務の契約期間終了時の段取りは、数週間前には次の派遣先に関する詳細な連絡が行き渡っていて、最終日に事務所に立ち寄り済ませるべきは、次派遣先についての最終確認程度で、そのやりとりも社長ではなく事務員相手である。
長野の場合、派遣期間の終了日が近付いても一向に連絡がなく、数日前に突然呼び出された恰好だ。
「どうだったかな? 大通食品は」
「はい。工場長が大変良く面倒を見てくださいましたし、明るい職場で楽しかったです」
「そっかそっか。いやね。私としても、長野くんが褒められると鼻が高くてね」
「えっ」
「……あぁ、さっき、大通の社長から電話があって、次もまた長野くんで、って予約が入ってね」
「本当ですか。恐縮です」
「前の山本メタルの社長にも予約されているし、あぁ、どうしようか」
「どうしましょう」
「私が代役に出ようか」
ハハハ、と老け込みが伺える笑いに長野は愛想笑いで返した。
「――さて。じゃあ、本題に入ろう」
「はい」
福島の醸し出す空気が変わり、居住まいを直す。
「あぁ、その前に」
一呼吸置き、
「何の断りもなしに次の仕事の連絡をしなかったこと、申し訳ない」
渋い表情で軽く頭を下げた福島に、長野はやや慌てた。
「いえそんな、何かご事情あってのことでしょうし、実際こうしてお呼びいただけましたから」
福島はゆるやかに安堵に表情を変え、
「長野くんなら、そう言ってくれると思っていたよ。ありがとう」
内心、連絡が遅いことにやきもちしていたのは事実だが、遅れたとはいえ事務所召還の連絡が届いた時点で『連絡の不達』という事態は避けられたのだから、だらだらと遅延の不快を引きずる長野ではない。
「連絡が遅れてしまったのは、まぁ、訳あり、というほどでもないんだけど」
そういって福島は立ち上がり、脇のデスク上に置いてある一枚のA4紙を拾い上げて座り直した。胸ポケットから眼鏡を取り出し、掛ける。
「えー、じゃあ、次の仕事先について」
「はい」
長野が次派遣先の紹介を受ける際に目にする資料は、事務員がデスクの引き出しから取り出すバインダーの一部だったので、福島が持つ一枚の紙切れに対して妙な違和感を感じていた。
今後しばらくの働き様を決める、人間の人生のごくわずかな時間を拘束するにしては軽すぎる紙。
バインダーに収められた“書類の一部”ではない、たった一枚の独立した、“特別感”を思わせる紙。
社長直々にこのような事務作業を担う時点で十二分に特別だが、どのような内容であれ、普段と変わらぬ姿勢で仕事をこなす覚悟でいる長野にとっては、何ら特別なものでもなければ、感慨もない。
「……うーん、そうだなぁ。わかりやすく言うと――」
後頭部を掻き、難しい顔で一枚の紙を読みながら、
「ベビーシッター、をお願いしたい」
わかりました。
言おうと思ったが、
「っ……はい?」
長野にとって、無慮な聞き返しは無礼であるとの認識だが、さすがに聞き返さずにはいられなかった。
「ベビー、シッター……ですか」
「うん、まぁ、わかりやすく言うと……ね。ベビーシッターみたいなものかな、と」
柔和な声質の割に言葉の節々は切れの良い印象が福島にはあったが、この時ばかりは語尾の濁りがひどく目立った。
そして、混乱せずにはいられない。
「あの、社長、お言葉ですが、私には育児の経験はありませんし、何より資格を持っていません」
至極当然の指摘を上げたつもりの長野だが、
「いやいや、大丈夫、心配御無用。経験も、資格もいらないよ」
まさか。無認可育児施設でのトラブルが取り沙汰されている昨今、保育士の資格なしに乳幼児の世話をしていいはずがない。
「しかし、」
「大丈夫、法令に違反するようなことは絶対にない。それは私が保証するし、責任も取る」
否定の文言ばかりにいつもの切れの良さが戻っていることに、長野は正直、訝しさを感じたが、端から承服以外の選択肢を考えていない。
「……すみません、心配性なもので」
「そんなことはないよ、私も同じことを思うはずだ。それに、いきなりベビーシッターをやれだなんて、耳を疑うよね。でも、長野くんが危惧しているような違法行為は一切ないから、大丈夫」
「わかりました。ありがとうございます」
間、
「ですが、資格面でその、違法性がないにしましても、やはり経験のなさは如何ともし難いのでは……」
再度、至極当然の指摘のつもりだったが、
「うーん。私としても、無闇やたらと根拠もなく『大丈夫』と口にするのはよろしくないとは思うのだが……」
難しい顔をしつつも、福島は言葉を続ける。
「大丈夫。長野くんになら、できるさ」
俄かにシワが目立ち始めたその顔で、たおやかにも自信に満ち溢れた表情で言い放たれたら、誰しも異論など発せなかろう。
「……はぁ」
不承不承、ではあるが。
「でも、この仕事を受けるかどうかは、長野くんが決めることだ。私の一存で勝手は出来ない。普通なら、紹介された仕事を断るなんて、少なくとも長野くんでは『有り得ない』だろうと思って、こうして人払いをしてみたんだ。こういう配慮も、勝手だったかな」
「いえ、幸いです」
「それは良かった」
「そして、社長のお言葉をお借りすれば、今回の仕事を断るなどということは『有り得ません』」
厳然としたその言葉に、福島はわずかに驚いた。
「やっぱり、君にお願いして正解だった」
福島の得意げな笑みを、長野はしかし、未だ斜めから見ることしかできなかった。
長野は本屋に向かいながら、福島から承った次の仕事に関するメモを睨んでいた。
通常、次派遣先に関連する契約期間、所在地等が記された書類を事務員から渡されるが、今回はそれがなく、福島の口頭での伝達をメモするのみだった。
これは『特別だから』と考えれば済む話だが、長野は思う。
社長が持っていたあの紙をコピーしてくれれば良かったのに。
派遣社員には見せられない機密が書かれていた可能性もあるが、それをデスクの上に裸で置いておく程抜けた社長とは思えない。
しかも、メモした内容が内容である。
待ち合わせ時間が午前十時、場所はシロナガス公園。
一般的な始業時間である八時前後ではないが、と尋ねると、やはり『大丈夫』と返ってきた。
社長自ら大丈夫と言うのだから、派遣社員如きが何を懸念することもない。
ないが……。
何も持っていかなくてもいい、何も準備しなくていい、とまで言われると、心配の種は八分咲きだ。
大型本屋に辿り着いた長野は、脇目も振らず育児関連コーナーに直行した。
長野の育児能力の有無など福島が知る由もないのだから、その上大丈夫と言うのなら本当に大丈夫なのだろう。
しかし、福島が長野を過大評価しているなどということはないだろうが、万が一ということもある。
あまり想像したくはないが、将来的に無駄になる知識でもなし。
そもそも、もっぱら工場派遣に特化したフクシマスタッフにベビーシッターの仕事を依頼するとは、相当に肝の据わった親に違いない。
目に留まった適当な育児書を手に取り、パラパラと読む。
大学中退時に実家からの仕送りが止まり、フクシマスタッフからの給金のみで生計を立てている長野には書籍の一冊も経済的に重く、社長の再三の『大丈夫』も助けて、立ち読みで済ませるつもりだった。
長野の考えが甘かったようである。
『育児』という、未だ自分には“された”経験しかない世界の事柄は思いの外複雑性に富み、本によって扱う内容も微妙に異なる上、一冊のボリュームも侮れない。
到底、立ち読みで崩せる壁ではない。
財布の中身、今月の収支を大まかに照らし合わせ、苦い顔をしつつも一冊の本をレジに置いた。
長野の自宅は三階建てのアパートである。
建築年数こそやや古いが、見目にボロ臭い印象はない。
二階、手前から五つ目の部屋が長野の自宅になる。
六畳一間にテーブルやテレビやCDプレイヤー等々、ごく普通の(若干質素な)男子の単身部屋の様相だ。
帰宅してうがいを済ませ、部屋着に着替えた長野はリュックサックからビニール袋を取り出した。
中身は、大通食品の工場長から戴いた『賄賂』ことイカソーメンである。
冷蔵庫の残り物の白米をレンジで加熱し、イカソーメンに醤油を差して今夜の夕飯とした。
食後、洗濯物を片付けたりしつつ、長野は熱心に育児書に読み耽っていた。
元々生真面目な性格の長野である、仕事に関連するとなれば真剣に取り組まないわけがない。
しかし、あまりに畑の違う内容に頭を捻ることも多く、質問できる友人や知り合いもおらず、悪戦苦闘している様子だった。
派遣期間は概ね金曜日が最終となるため、長野はある種無職の土日を迎えていた。
土曜日はほとんど外出せず、自宅でひたすら育児書を読み詰める。
金曜日の時点ですでに読破しているが、一度目を通しただけであいわかったと頷けるほど育児は簡単ではない、というよりも、長野が納得する道理がない。
完全な独学と短い勉強時間の対策に、ノートに要約しまとめあげる方法を用いている。
原始的だが、これが最も手っ取り早い。
無論、大切なのは知識より慣れだが、道具や環境を整えるなどと悠長なことをしている余裕はないのだ。
土台無茶な話ではあるが、無学よりはマシだろう、と長野は遅くまで“イメージ保育”に勤しんだ。
日曜日は打って変わって、電車で数駅行った先の大きな公園に出かけた。
これといった趣味がなく、余暇の大半は読書で過ごしている長野。
自宅で読書に没頭することもあるが、昨日が昨日でもあり、今日はアウトドア読書でも、と考えたのだ。
幸いにも笑ってしまうほどの晴天に恵まれ、木陰のベンチに座り、ゆったりとした時間を過ごす、最もリラックスできるひとときである。
彼が食指を示す書籍のジャンルは特に定まっておらず、いわゆる雑食型。
流行りのエッセイからライトノベル、はたまたボロキレのような古典など、日本語であればなんでも読む。いずれは、辞書片手に洋書にも挑戦しようと思うが、どうせなら資金を溜めて電子辞書を買おう、と延期に延期が続いている。
今読んでいるのは、占いの本。
古本屋の軒先で十円セールに出されていたので衝動買いしてしまった一冊だ。
おもしろいかと言われたら返答に困るが、暇潰しにはちょうどいい。
占いを信じるタチではないのだが、ポジティブな人間が良い部分だけを掻い摘めば格段にハイな本だと思われる。
そうして、派遣初日の月曜日を迎えた。
契約期間は、わずか一週間という異例の短期間である。
夫婦が旅行で留守の間に赤子を預かるのだろうと考え、長野はその短さをあまり気には留めなかった。
服装も普段の恰好で良いとのことで、スーツで行くのもおかしいだろうと思い、日曜日に出かけた際と同様の服装を選んだ。
工場勤務の際はもう少しラフな恰好だが、貧乏なりにそれなりのジャケットとジーンズを選んだつもりではいる。
午前十時を十分後に控えた今、長野は公園のベンチに座っていた。
目立つ所が良いだろう、と広場が見渡せるベンチを選んだのだが、いい歳の若者が真昼間に公園のベンチで黙々している姿など、広場で遊ぶ幼稚園児を面倒見ている保母さん方の白い衆目の格好の的である。
一分が遠い。
工場で働いている時は、繁忙期などあっという間に休憩時間になってしまうのに。
昨日に引き続きの晴天が、キメたジャケットには少し暑かった。
そういえば。
福島は『人が来る』とだけ言い、年齢も性別も口にはしなかった。
訊けば答えたのかもしれないが、あまりに唐突な話で頭がいっぱいだった。
とはいえ、こんな時間に公園にいる若者など長野くらいしかおらず、『来る人』は恐らく福島から特徴を聞いているだろうから、さして心配することもないだろう。
五分前。
幼稚園児の一人が転倒し、保母にあやされている。
堰を切ったように、大きな泣き声が公園中に響き渡る。
いつもなら少々の耳障りを感じる程度の泣き声が、今の長野にはつんざくほどの金切り声となって鼓膜を引っ掻き回している。
まるで心臓を直接引っ掻かれているような錯覚を覚え、長野は渋面が現れるのを抑えていた。
やめてくれ、早く泣き止ませてくれ、うるさい、早く――
「あのー……」
左方から声がした。
わずか、掻き回されていた心臓が脈打った。
声の方に向くと、一人の女性が窺うように軽い上目遣いで長野を見ている。
「長野、さん……ですよね?」
「あっ、はい」
長野はすぐさま立ち上がり、女性に対して凛々しく向き直る。
女性、それも若い、十代後半から二十代前半と見える。
深緑のチュニックワンピースに裾レースのレギンスと、街中を歩いている若者そのものである。
「はじめまして、福島です」
「はじめまして、フクシマスタッフから派遣されました長野と申します。本日から一週間、よろしくお願いします」
「あっ、よろしくお願いします」
軽く礼をする彼女の頭、二つのお団子から垂れた、肩に届くほどのテールヘアが印象的である。
……福島?
彼女の明るい名乗り声が、脳内で反芻する。
フクシマスタッフの福島社長にベビーシッターを依頼した福島。
彼女が福島家の親類である可能性は非常に高い。
ことさら類推するに、福島忠重の年齢から察して、彼女は忠重の娘と見て間違いなさそうだ。
となると、その娘の子息、忠重の孫に当たる赤子のベビーシッターを務めることになる。
責任は重大である。
しかし、何故プロの業者に依頼しなかったのか。
社長令嬢に懐が寂しいとは言わせない。
謎は深まるばかりだが、今は他人の家庭事情など詮索している場合ではなかった。
通常の派遣先であれば、依頼主である彼女は零細ならば社長クラス、中小ならば総務部長クラスの立場であり、挨拶を済ませた段階で即現場投入、あるいは簡易業務説明の段階に入る。
どう見ても今時の若い女性にしか見えない彼女にそんな応対ができようはずもなく、エヘヘと苦笑いをして反応に困っていた。
これがプライベートならどうにかフォローできるかもしれないが、長野の脳内に書き込まれたワークスマニュアルにこのようなケースの対処方法は記されていない。
人が来ると言われただけで、その後の行程も露知らない長野に何が出来ようか。
「――あっ、じゃあ、とりあえず、歩きながら……」
福島の提案の長野は、
「あっ、はい、そうですね」
異論を唱える余地もなかった。
そのベンチに座ってお話しを、などと赤面必至な提案でなかったことを長野は安堵した。
歩き出した福島に伴って長野が歩き出すと、福島のわずか後ろ隣を歩いていた長野に対し、隣り合うよう歩調を合わせてきた。
警戒していると思われただろうか、と長野は怪訝になるが、意に反して福島は微笑み顔である。
「もしかして、お待たせしちゃいました?」
「いえ、私もちょうど着いたばかりで」
「あ~っ」
いきなりしたり顔で、人差し指を長野に向ける福島。
「ウソ、つきましたね?」
「えっ」
虚を突かれるとはこのことか。
「実は、長野さんのことはもっと前に発見してたんですけど、人違いだったらヤだなーって、念の為に公園を一回りしてたんです」
クライアントに合わせてついた虚偽だったが、長野程度の技量では、彼女の方が一枚上手だった。
「そ、そうでしたか。失礼しました」
「あっ、いえいえ。すぐに声をかけなかったアタシが悪いですから」
ちょっとからかってみました、と顔に書いてある福島。
長野はただ、後頭部をポリポリと掻くことしかできなかった。
公園を出ると、そこはショップとオフィスと住宅が混合したにわかに賑わしい通りだった。
何故待ち合わせ場所をあの公園に選んだのかは長野の与り知るところではないが、恐らく自宅から近いのだろうと片付ける。
歩道を歩く際も、福島は長野に歩調を合わせた。長野も今後は合わせるよう心掛ける。
「ホントは、どれくらい待ってたんですか?」
「そうですね。電車の都合もあったので、二十分ほど前には着いていました」
「えっ。そんなに早く来てたんですか?」
「はい。癖みたいなものですね」
さらりと言う長野に福島は感嘆の眼差しを向け、若干口が開いてしまっている。
「……あの、こういうのって、失礼かもしれないんですけど……」
グーにした手を口に添えて、遠慮がちに言う福島。
「はい」
「すごく、真面目な方なんですね」
その言葉が、今の長野にはひどく露骨なものに聞こえた。
ただし、それは不快な露骨ではなかった。
それでも露骨なことに変わりはなく、なんと言うべきか、反応に困る長野。
「……そ、そうですか?」
「はいっ。お友達とかに、よく言われません?」
「ああ。言われますが、あまり良い意味ではないですね。“堅物”とはよく言われます」
「か……、堅物ですか?」
「はい」
「ひどいお友達ですねー」
アハハ、と福島は無垢に笑う。
「でも、真面目なのって、すごく良いことだと思うんです」
はぁ、と小さく応える。
「アタシがいい加減な性格だから、余計にそう思うのかもしれないですけどね」
「そんなことは、」
「ありますよぉ。今朝なんか、結構余裕を持って起きたはずなんですけど、ぼーっとテレビ見てたらあっという間に時間なくなっちゃって」
「ああ、わかります」
当然ながら嘘であり、長野が無計画にテレビ鑑賞をすることはない。
「だから、そう。混じり気なしに、根っこから真面目な人って、すっごく、憧れるんです」
まっすぐ眼を合わせて言う福島に、長野は今度こそ返答に詰まった。
「……あれ。ごめんなさい、もしかして、お気を悪くしちゃいました……?」
「あっ、い、いえ。こちらこそ、すみません。その、なんと言ったらいいか、言われ慣れていないもので……」
一瞬、キョトンとした福島だったが、
「あっ。もしかして……、照れてます?」
「……そ、そうですね」
すると福島はわずかに苦味を含ませた笑みで、
「やっぱり、ごめんなさい。初対面なのに馴れ馴れしいですよね、アタシ」
「いえ、滅相もない。切に光栄です」
長野のあくまでも堅物な返答に、福島はまた無垢に笑う。
「ホントに真面目なんですね」
「……ありがとうございます」
長野は後頭部を掻いた。
「――ところで」
おもむろに福島。
「はい」
「あの、アタシから提案しておいて、なんなんですけど……」
「なんでしょう」
「えっと……。歩き話もなんですから、その、どこかでお茶でも、なんて……」
ちょっと待て。長野は思う。
歩きながら今後の予定を聞きつつ、彼女の自宅ないし赤子の元に向かう、そう思っていた。
お茶でもしながら?
いや、早計はいけない。
何らかの事情がある可能性も考えられる。
どこかに赤子を預けていてまだ迎えに行くべき時刻でなく、喫茶店等で時間を潰す予定なのかもしれない。
元より、一切の事情も行程も知り得ぬ長野が無闇に顧客の提案を反故にできる道理はない。
待ち合わせの時間を遅らせれば良かったのではとも思うが、
「そうですね。そうしましょう」
やはり選択肢はなかった。
「はいっ」
屈託のない笑顔で福島が頷く。
「――じゃあ、どうします? 喫茶店かファミレスがいいかな、って思うんですけど」
「すみません、普段あまり飲食店を利用しないもので、そういったものは不得手でして」
「あっ、そうなんですか?」
「はい。なので、恐れ入りますが、お任せしてもよろしいでしょうか」
「そんな、お任せだなんて。……じゃあ、アタシが決めちゃっていいですか?」
「お願いします」
「わかりました。って言っても、アタシもあんまり知らないんですけどね」
エヘヘと照れ笑う福島に、愛想笑いを返す長野。
「じつはですね、」
手の平を合わせ、わずかに得意げな表情の福島。
「前から気になってたお店があるんです。でも、一人じゃ入りにくかったんですよねぇ」
何か期待している福島の表情を読み取った長野は、恐らく最適であろう文句を思案する。
「私でよろしければ」
「ありがとうございますっ」
期待通りだったのだろうか、その声には嬉々があった。
目的の店に向かう道すがら、やはり仕事に関連する話は一切表出せず、主に福島から長野への質問が占めた。
「あんまり外食しないってことは、ご実家なんですか?」
「いえ、独り暮らしです」
「あっ、じゃあ、料理はご自分で」
「はい。粗雑な物しか作れませんが」
「そんな、料理ができるだけでもすごいですよ。アタシなんて、チャーハンもろくに作れないんですから」
「チャーハンは意外と難しいものですよ。私もよく失敗します」
「どんな風にですか?」
「玉子をご飯全体に絡めようとして、火力調節と鍋の振りに失敗してダマになってしまったり、でしょうか」
「えぇ~。アタシなんか、フライパン振り過ぎてご飯こぼしちゃったりですよ?」
「フライパンは意外と重いですからね。力ではなく、手首のスナップを使って――」
ついぞ世間話に終始し、福島が目指した目的の店に到着した。
公園から近いと言っていただけあって、ものの十分程度の所要時間だった。
住宅街の外れの角に、その店はある。
外観は、他と比して若干洒落た普通の一軒家。しかし喫茶店であるという。その証拠に、店頭には小型黒板に本日のオススメとイラストがチョークで描かれていた。
「ここです」福島に示されて店の外観を眺めた長野は、やはり一軒家と見て取った。
「その。アットホームな印象、ですね」
抽象的な表現を得意としない長野には、これが最大限である。
「ですよね。こういう所のコーヒーって、おいしいんだろうなぁ~って思って」
福島が案内者らしい先導で店のドアを開ける。
カランカラン、と小気味良い鈴の音が店内に鳴り響き、四十台前後、白い腰エプロンにポニーテールの女性が奥から顔を出した。
「いらっしゃいませ。二名様ですか?」
「はい」
「おタバコはお吸いになりますか?」
受け答えしていた福島が長野に眼差しを向け、意図を理解した長野は「いえ」と手の平を向けた。
「かしこまりました。お好きな席にどうぞ」
白塗りの外壁とは対照的に、漆塗りのような黒に近い木造建築の店内は、ゆるやかに響くクラシックと相まって落ち着いた雰囲気に溢れている。
基本面積が一般家屋のため比較的手狭だが、かえって家庭的な印象が強調されている。
狭さ故にテーブルの数も少ないが、その中でも唯一、道路側に面した窓際のテーブルを福島は選んだ。
喫茶店は得てして窓際の座席の倍率が高いが、時間帯の影響か、客は彼ら一組のみで、一時的な貸し切り状態である。
二人がほぼ同時に対面に着席し、長野が反射的にメニューリストを探す。
何事も男がリードすべきだろう、という古典的な刷り込みによるものだ。
テーブル脇に、アクリルパネルに挟まれたメニュースタンドを見つける。
「何にします?」
長野が見つけたと同時に、福島がメニュースタンドを手に取っていた。
仕事人間として、純粋な失策感を覚える長野だった。
『いえ、私は結構です』などと空気の読めない発言は避けるべきであろう。
「そうですね。私は、コーヒーにします」
「コーヒーかぁ。ん~、どうしよっかな……」
福島が悩んでいる間に、先ほどの給仕の女性がお盆におしぼりを二つ載せて持ってきた。
「ご注文はお決まりですか?」
案の定聞かれ、決め兼ねていた福島は意を決して、
「カプチーノをひとつ」
「はい」
「私は、コーヒーを」
「かしこまりました。よろしければ、お茶菓子などはいかがでしょう」
酒で言うところのおつまみか。
福島がまた意図的な視線を長野に向け、「私は結構です」それを聞き「とりあえず、いいです」福島が給仕に伝えた。
「少々お待ち下さい」
立ち去る給仕をなんとなく目で追い、奥に姿が見えなくなって照準を失った視線が店内を巡る。
ゆっくりと回るシーリングファン、幾何学的な形をしたシルバーの調度、間接照明。
それらが一般家庭の規模に詰め込まれているのだから、雰囲気的には申し分ない。
これが仕事中ではなくプライベートであれば、なお読書に向いていそうだが――
思うところを浮かべながら視線を戻そうと意識を向けると、ふと気付く。
正面に座っている福島が、テーブルに両肘を突いて顎の辺りで手を組み、まじまじと長野を見ていた。
正直、何事かと思うが、顧客にはわずかにも引いているところなど見せてはならない。
「あの」
「え?」
「なにか」
「あっ。ごめんなさい」
組んでいた手を膝に降ろし、軽く居住まいを直す。
「じつは、すっごくドキドキしてたんです。どんな人が来るんだろう、って」
「はぁ」なるほど。
「父からは、ちょっと聞いてたんですけど、やっぱり、実際に会ってみないとわからないじゃないですか」
「そうですね」
父から、という言葉で目前の女性が福島忠重の娘であると確信した。
「怖い人だったらヤだなぁとか、色々考えちゃって」
「私のような堅物では、ご期待に添えませんでしたか」
空気に合わせた軽口のつもりで言ってみたのだが、
「とんでもないっ」
福島はブンブンと顔を横に振って見せた。
かと思えば、浅い腕組みの形で両肘をテーブルに突き、含みの全くない、純粋な微笑みで、
「とても、素敵な方で。良かったです」
確かに、彼女の言葉を悪いまま借りれば『馴れ馴れしい』と思う。
しかし、その言葉は精緻に欠いており、もっと適切な単語を用いるべきである。
『近過ぎる』。
初対面の異性にしては、発言があまりにも懐に入り過ぎている。
違和感はあったが、その違和感を長野は危機とは認識できず、単に『異常な羞恥』であった。
勉学、仕事に過剰なまでに生真面目な姿勢で取り組んできた長野には様々な要因から女性経験がなく、無論、目を合わせて素敵などと強烈な破魔矢を撃たれたことは一度もない。
長野にとっては毒であったが、毒を食らわば皿まで、と言わんばかりの開き直りで、彼の精神が仕事人間たらしめる平静さの維持に努めさせた。
「……光栄です」
謙遜な言葉に、福島はまた無垢にエヘヘと笑った。
「あっ。そういえば、まだちゃんと自己紹介してなかったですよね?」
「ああ。そういえば、そうですね」
「じゃあ、改めまして――」
どうやらよほど時間が空いているらしい。
長くかかりそうな自己紹介を覚悟した刹那、福島が不意に「あっ」と何かを思い出した風だ。
「アタシ、まだ下の名前、教えてませんよね?」
「え。ええ」
「父からも、聞いてないですか?」
「はい」
下の名前どころか苗字も伺っておりませんが。
「よかったぁ~」
福島はフゥと息をつき、若干前のめっていた身体を背もたれに預けた。
「では、問題です」
クイズ番組の司会者よろしく右手の人差し指を一本立て、持参していたポーチからラメの入ったペン(シャープかボールか)を取り出し、続いて財布から不要と思われるレシートを取り出した。
レシートの裏に、長野に見えないよう左手で覆うように隠して何かを書き始める。
レシートと顔が随分近いところを見ると、近視だろうか。
数秒で書き終え、
「さて、なんと読むでしょう?」
テーブル上を滑るように差し出されたレシートの裏には【珠璃】と書かれている。
「そうですね。ええと……」
漢検二級クラスまでの漢字であれば、特殊な読みでなければ大抵は読める長野が文字から真っ先に思い付いたのは『しゅり』だったが、
「――たまり、でしょうか」
山勘で答えてみたものの、福島はしたり顔が一気に強張り、固まってしまった。
「ウソ、つきましたね?」
「え」
また言われた。
「やっぱり、父から聞いてたんですよね?」
不満げな表情と、ほんのわずか低くなった声色が長野の背筋をピクリと冷やす。
「い、いえ」
苗字すら、とはやはり言えない。
「……ホントに聞いてないんですか?」
「はい」
疑う福島であったが、彼の真面目さは出会ってからのわずかな時間でも充分把握している。
その言葉に偽りがあるとは思えなかった。
「……正解です」
正解したところで、このような態度をとられては全く喜べない長野である。
「どうしてわかったんですか?」
不満げな表情は消えたが、今度はどことなく寂しそうな福島。
「初見ですぐに『しゅり』と読んだのですが、特段の問題として出すのであれば、そう安易ではないだろう、と思いまして」
要は裏をかいたのだ。
人の知識如何によっては『しゅり』と読むこと自体がある程度難易度を持つ問題だが、長野はそれには全く気付かない。
完璧なまでの長野の解答に、福島は寂しげな顔もどこ吹く風、感嘆、むしろ羨望の眼差しを長野に向けていた。
「すごいんですね。ホント、ビックリしました」
「いえ、そんなことは」
「一発で正解したの、長野さんが初めてです」
「本当ですか」
「はいっ」
「恐縮です」
福島はクスッと笑った。
「では。改めまして、福島珠璃と申します。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
互いに律儀にお辞儀し合う。
「では、私も」
「はい」
「フクシマスタッフ勤務の、長野隆央と申します。至らぬ点が多々あるとは思いますが、宜しくお願い致します」
「よろしくお願いします」
また、お辞儀し合う。
そうして、お互い顔を上げて目が合うと、福島がまたクスリと笑った。
「たまには、いいですね。こういうの」
長野にとっては日常茶飯事だが、彼女を代表する妙齢の女性たちが、ここまで律儀な挨拶をする姿など目にしたことは確かになかった。
「そうですね」
「長野さんは、毎日こんなカンジなんですか?」
「いえ、派遣初日以外は自己紹介する機会はほとんどありませんので」
「へぇ~。でも、挨拶は毎日しますよね? それも、こんな風に?」
「……そう、ですね」
「肩、張っちゃいません?」
やや苦笑いで言う。
「いえ、これが地ですので、むしろ肩を張っていないと落ち着かないですね」
「へぇ~」
などと平然と会話してこそいるものの。
長野はにわかに焦燥感を覚えていた。
このままでは、一生仕事の話に入らないのではないか。
楽しそうな彼女を見ている分には悪い気はしないのだが、これはあくまでも仕事なのだ。
勤務時間中は働き詰めで、業務に無関係なことは長野にとって『サボり』という認識になる。
無論、全てが全てサボりに当てはまるわけではないが、平日の真昼間に喫茶店で若い女性と談笑しているなど、長野にとってはサボり以外の何物でもない。
もしかしたら、彼女と何か認識の齟齬がある可能性も考えられる。
ここは、突き詰めなければならないだろう。
彼女の話が途切れたところにすかさず滑り込む。
「すみません」
「はい?」
「恐れ入りますが、お仕事の話に入らせていただいてもよろしいでしょうか」
「あっ」
両手を組んでテーブルに載せていた福島は、膝に手を降ろして居住まいを直した。
「そうですね。すいません、一人で盛り上がっちゃって」
「いえ」
間。
「では、今回のベビーシッターの件についてですが――」
そこで福島の『はい』が入ると思ったが、反応はなかった。
聞いてはいると思うが、たまたま返答をしなかっただけだろうとは思いつつも、無意識に彼女の顔を見やる。
……なんだ?
福島のパッチリと大きな目がさらに見開かれ、また、硬直していた。
「……はい?」
「え」
「ベビー、シッター?」
「はい」
「……えと、すいません。何のことでしょう」
じんわりと胸が熱くなる。
やはり、そうだった。
決定的に何かがズレている。
「今回の、私が承りました業務についてです」
「ベビーシッター、ですか?」
「はい」
「父が、そう言ってたんですか?」
「はい」
福島は難しい顔をして、右手の二本指でこめかみを押さえていた。
「失礼ですけど、その、お聞き間違えとか」
「普段は扱っていない仕事ですから、失礼ながら何度も聞き直しましたので、間違いはないと思います」
福島はさらに首を捻った。
長野は思い出し、さらに続ける。
「あぁ、でも、ベビーシッター“のようなもの”とは、最初におっしゃっていましたが」
うーん、福島は唸る。
「……とりあえず、」
福島は姿勢を正し、背筋を伸ばして、
「ごめんなさいっ」
頭を下げた。
「えっ」
頭を上げ、真摯な目で長野と目を合わす。
「父が、なんでそんなことを言ったのかはわからないですけど、」
そしてまた難しい顔をして、首を捻る。
「……もしかしてアタシ、子供扱いされてるんですかね?」
「え。ええと、どうでしょう。そんなことは――」
「意味わかんないですよね。ちょっと、聞いてきます」
ポーチから携帯電話を取り出して立ち上がろうとした福島を、長野は即座に制する。
「いえ、あの、恐らく社長は取り込んでらっしゃると思いますし、きっと何か事情があったのだと思いますから」
「……でも……」
少し考えてから、立ち上がり掛けていた腰を下ろす。
しかし、不満げな表情は直らない。
「ひどくないですか? ウソを教えるなんて」
「え、ええ、まぁ」
長野が曖昧に答えたのは、社長を信頼しているからである。
只ならぬ事情がなければ、一代で会社を発展させた敏腕社長が虚偽を伝えるはずがない。
社長から直接話を聞くまでは、悪く言う気にはなれなかった。
「あっ……!」
福島の目がまた大きく見開いたかと思うと、苦い顔になり苦い声を出す。
「もしかして、長野さん」
「はい」
「……ベビーシッターのお勉強なんて、しちゃったり、とか……」
それの回答には一抹の不安を予感するが、嘘を申告するわけにもいかない。
「……して、しまいましたね」
恐る恐る真実を報告すると、不満げな福島はいよいよ怒った。
「やっぱり、電話してきますっ」
「ちょっ、ちょっと、待ってください」
立ち上がろうとする福島を、長野も慌てて立ち上がってキーパーの如く制する。
「だって、」
「私は気になどしていませんし、その、将来無駄にはならない知識ですから」
「でも、」
「何にしましても、やはり、今は取り込んでらっしゃるでしょうから」
若干躊躇ったものの、福島はまた少し考え、むくれ顔で座り直した。
「ホントにいいんですか?」
「はい。先ほども申しましたが、無駄にはならない知識ですので」
すると福島は、むっとした表情をわずかに和らげ、クスッと笑った。
「優しいんですね」
照れる長野だが、
「恐縮です」
今度こそ不自然な間を置かず応えられたと思う。
「じゃあ、アタシがあとで長野さんの分も怒っておきますねっ」
ここは空気を察して、
「お願いします」
言ってのけた。
「お待たせしました、カプチーノとコーヒーです」
注文しておいた飲み物がやってきた。
それぞれ注文した物が目の前に置かれ、最後に砂糖やミルクが載ったシルバーの台が置かれた。
「ごゆっくりどうぞ」
給仕の女性が奥に戻るのを互いになんとなく待ち、
「いいニオイ」
福島がカプチーノに顔を近付け、見た目と香りを楽しんでいる。
長野が頼んだコーヒーは極めてシンプルなブラックで、見た目こそ楽しめないが、香りは確かである。
「長野さんはコーヒー好きなんですか?」
「はい。贅沢品なので、あまり飲めませんが」
福島はクスリと笑い、
「贅沢品って、普段からそんな良い物を飲んでらっしゃるんですか?」
「いえ。単なる貧乏性です」
「大変なんですねぇ。でも最近、安くて結構おいしいインスタント、増えてますよね」
そこまで興味はない長野だが、存在は知っていたので、
「そうですね。専門店で飲むのが、雰囲気的にも一番良いのですが」
「そうですよね。アタシも、お店で飲むのって好きなんです」
砂糖なしのミルクのみの長野に対して、福島は砂糖をコーヒースプーンで三杯ほど投入した。
「アタシ、苦いの苦手なんですよねー……」
何か応答しようと思う長野だったが、聞きようによっては独り言にも聞こえた為、少し悩んで何も言わなかった。
それぞれ好きなタイミングで飲み、長野はウンと独りごち、福島は「おいしい」と感想を漏らした。
「――じゃあ、改めて、お仕事の話をしましょうか」
コーヒーをカップに置くと同時に、長野の心臓がドクリと脈打つ。
仕事の話?
しくじった、と長野は思う。
そう。つい先刻までしていた話の結末は、ただ『虚偽の判明と混乱の沈静』としかオチていない。
結局のところ、未だ『真実』には至っていなかった。
混乱が落ち着いたところに飲み物が届いたことがトドメで、完全に気が抜けてしまっていたのだ。
福島に言われなければ、このままコーヒーと談笑で終わってしまっていたかもしれない。
帰ったらヒヤリハットの復習を――
「そうですね」
ベビーシッターが嘘だというのなら、では、真実は何か。
全く想像がつかないし、検討もしていなかった。
常ならば冷静沈着な長野も、今度ばかりは焦りが募る。
ただでさえ特殊なケースである上、予定していた業務に根本的な変更が生じたのだ。
言うなれば、期末テストのヤマが外れたような感覚に近い。
「えっとですね。今回、長野さんにお願いしたいのは――」
テーブルの上で組んでいた手に、無意識に力が入る。
強いて想像がつくとしたら、家庭教師か。
大学中退とはいえ長野の成績は上の部類であったし、勤勉実直な姿勢は福島忠重も熟知しているところであるから、可能性は低くない。
しかし、それもプロに頼んだ方が、という矛盾がある。
そういえばさっき、福島は『子供扱いされている』などと言っていた。
彼女の容姿から推測する年齢でいうところの子供扱いとなると、およそ小中学生……いや、違う。
赤子――
「そうですね。父の言葉を借りると、『ガールシッター』でしょうか」
「……は」
なんだって?
「わかりやすく言うと、アタシのおしゃべり相手になって欲しいんです」
あくまで笑顔の福島に、言葉を失ってしまう長野。
死んでも口には出せないが、正直、正気の沙汰か、と思う。
喫茶店でコーヒーを飲みながら異性と楽しくおしゃべりをする“仕事”?
そんな、(人によっては)夢のような仕事、聞いたことがない。
久しぶりに頭痛がした。
これも嘘ではなかろうか、親子グルで騙そうとしているのではなかろうか。
さすがにそこまで邪推はしないが、しかしそれほどに信じがたい内容である。
思考が堂々巡りで方向性を得ない。
明らかに当惑していた。
すると福島、
「……あの」
「っ、はい」
また、不自然な間を作ってしまった。
「やっぱり、お断りします……?」
恐る恐る尋ねる福島の表情は、悲しげだった。
返答もないまま硬直する長野を見て、不安になったらしい。
「い、いえ、一度お受けした仕事をお断りするわけにはいきません」
それを聞いてわずかに安堵するが、すぐに不安な表情に戻り、
「でも、仕事内容、思いっ切り変わっちゃいましたよ?」
「はい、」
ここで『それでもお受けします』などと上辺だけの言葉では説得力がなかろう。
「――では、念の為、詳しい内容をお教えいただけますか」
「あっ、はい」
不安げな表情を努めて明るくし、姿勢を正す姿は健気そのものである。
「と言っても、そんな大したことじゃないですよ? こんな風に、お茶しながら世間話をしたりとか、悩みを聞いてもらったりとかして、あと、ちょっとお出かけしたりです」
聞けば聞くほど、夢のようである。
「なるほど」
「こんな仕事、聞いたことないですよね。長野さん、経験あります?」
「いえ。フクシマスタッフは、工場への派遣が主ですので」
「ですよねぇ」
「しかし、裏を返せばまたとない機会と思いますし、貴重な経験にもなりますから、ぜひともお受けさせてください」
「えっ。いいんですか?」
「はい」
「……後悔、しないですか?」
「それは、わかりません。ですが、私を指名したことを後悔させてしまわぬよう、最大限の努力は致します」
頻繁に喜怒哀楽が変化する福島の表情が、またエヘヘと笑う。
「じゃあ、今度こそ改めて、」
何度目か居住まいを直し、
「これから一週間、ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
「こちらこそ、ご迷惑お掛けしてしてしまうかもしれませんが、宜しくお願い致します」
互いに礼をして顔を上げ、目が合うと、今度は長野も少し笑ってしまった。
「それで、ですね」
「はい」
「その、契約締結の記念に、と言いますか、ずっと、思ってたんですけど……」
「なんでしょう」
福島は少しもじもじしながら、
「そんなに、硬くならなくてもいいですよ?」
なんとなく、いずれ指摘されそうな気はしていたが、タイミングとしては最適か。
「そう、ですか?」
「お仕事と言っても、アタシにとってはなんてことないおしゃべりですから、長野さんも、友達感覚で大丈夫です」
「……友達感覚、ですか」
それは無理な相談だった。
どうも折れそうにない長野に、福島は秘策を打つ。
「それに、一週間のお付き合いでずっととなりますと、本音言っちゃうと、ちょっと、疲れちゃうかなぁ……って」
申し訳ないとは思いつつ、長野の誠実心を利用して、福島はワガママのフリをしてみせた。
「それは、失礼しました。では、少しだけ崩させていただきます」
この物言いでは、秘策が成功しているか否かわかりづらい。
「……まだ、ちょっと硬いですね」
「……少しだけ、崩させてもらいます」
「はいっ」
弾けるように頷いた。
以後、二人は“忠実に”世間話を続けていた。
にわかに不安であった長野も、いざ放り込まれてしまえばどうということはなかった。
何はともあれ、今置かれている状況は確固たる『仕事』の真っ最中であり、それ以外の何物でもない、それが数少ない長野の救いであった。
仕事なら、本気でぶつかっていける。
仕事なら、踏み止まらない。
仕事なら、どんなことだってできる。
長野にとっての『仕事』とは、一種の支えでもあった。
もう一つの救いは、皮肉にも彼女自身。
わざわざ派遣会社に“おしゃべり”を依頼してくるだけあって、なかなかに話し上手なのだ。
会話に身振り手振りを織り交ぜるのは当然、長野の知識外の内容もわかりやすく、なおかつ楽しそうに解説する。
それでいて、一方的に喋り好きというわけでもなく、比較的口数の少ない長野の話も訊き、首肯しながら聞いている、ひそかな聞き上手でもあった。
一筋縄では行かないな、と長野は改めて気合いを入れ直す。
そうして、二人は“忠実に”世間話を続けていた。
その中でも、今後に響く重要な会話を取り上げる。
「ところで、長野さんはおいくつですか?」
「そうですね。いくつに見えますか?」
崩せと指示された以上、多少なり会話を盛り上げるよう意識しなければならない。
正直に答えようものなら、また『硬いですね』と言われてしまう。
「うーん……。二十、五?」
「違います」
「二十四」
「違います」
「ううーん……。二十六っ」
「違います」
「あれぇ。もっと上かな……」
「どうして、上だと思うんですか?」
「え? でも、アタシよりはお歳は上ですよね?」
「どうでしょう、わかりませんよ」
「ちなみに、アタシは今年で二十二です」
「あぁ。なら、俺は年下ですね」
「えぇっ!?」
またもや大きな目をさらに見開く福島。
なお、長野の一人称が『私』ではなく『俺』に変わったのは、無論福島の指摘(要望)によるものだが、公衆では『私』の方が言い慣れている長野にはさすがに抵抗があった。
福島の『普段は自分のことはなんて?』の質問にバカ正直に答えたのが間違いだった、と後悔先に立たずである。
「えっと、おいくつですか?」
「二十一です」
「今年で?」
「先月、誕生日を過ぎたので」
福島は唖然とした。
「意外。すごく意外」
「そうですか?」
「傍から見たら、絶ッッッ対長野さんの方が年上に見られると思いますっ」
「それは、俺が老け顔だからですか?」
「あっ、いえいえいえ、その、オーラ的なもので」
「加齢臭ですか」
「ち、違いますよぉ」
ヤだなぁもぉ、と言わんばかりに笑顔で手ではたく仕草を見せる。
「でもホント、ビックリです。アタシより若いのに、こんなにしっかりしてるだなんて」
「年甲斐がない、とはよく言われますね」
「それは、良い意味でですよね?」
「どうでしょう」
「アタシだったら、憧れるなぁ。アタシ、この歳になっても平気でワガママ言っちゃう時があるから、もっと大人になりたいな、って思うんです」
「我が侭に大人も子供もないと思いますよ。むしろ、大人の方が我が侭が多いんじゃないですか? 子供の場合、それを実現できないから目立ってしまうだけで」
「……なるほどぉ」
だいぶ納得したようで、うんうん何度も頷く福島。
「あっ。どうしよう」
「はい?」
長野が聞き返すが、福島は返事をせずウーンと少し考え込んで、
「……うん、いいや。やっぱり、今のままで行きましょう」
「え。なんですか?」
「ほら、さすがに初日だし、いきなり年上年下でどうこうって話でもないじゃないですか。歳だって、一つしか違わないですしね」
年齢の話か。
「そ、そうですね」
「明日からは、わかんないですけど」
イタズラに笑う福島に、長野は崩した上でも言葉に詰まってしまった。
会話も一段落した頃。
「そろそろ、お腹空きません?」
「そうですね。若干、鳴りそうです」
「じゃあ、せっかくだから、ここで食べてっちゃいましょうか」
「いいですね。そうしましょう」
『食べてっちゃいましょうか』の『っちゃいましょう』は何を示した上での『っちゃう』なのかはわからないが、空腹であることに変わりはないので、長野は異論なく同意した。
この喫茶店はコーヒー等の飲み物以外にも軽食を扱っており、満腹を望まなければそれなりの食事が可能となっている。不景気が続く昨今、わずかでも小銭を稼がねばならぬ経営者側の苦心も垣間見えた。
今度は長野がメニュースタンドを取り、互いに見やすいよう傾ける。
「どれにします?」
福島が尋ねる。
「そうですね。俺は……」
ふと気付く、
「福島さんは?」
聞いて欲しそうな雰囲気を察して尋ね返したが、メニューを見ていた福島の目線が、少し驚いたように長野に向く。
「そ、そんな、福島さんだなんてっ、いいですよ、珠璃で」
やはり、そう来たか。
「いえ、でも、俺も苗字で呼ばれてますし……」
「あっ、じゃあ、アタシが隆央さんって呼べばいいんですね?」
困り顔でいると、福島は少しイタズラっぽく笑い、
「初日ですもんねぇ」
「……そうですね。親しき仲にも礼儀あり、ということで」
「あっ。今、“親しき”って」
「あっ、いや、」
イタズラっぽく笑い、
「ところで長野さん、好き嫌いとかあるんですか?」
だいぶ振り回されている気がする長野だが、不快ではないのが救いだった。
「ちょっと苦手かな、というのはありますが、基本的に食べられない物はないですね」
「へぇー、すごいですね。アタシ、ピーマンがホンット駄目なんですよ。苦いの全般ダメなのかな……」
「苦さは本来、毒味ですからね。むしろ、苦手なのが当然なのかもしれないですよ」
「そうなんですか!?」
「記憶が確かなら、はい」
「じゃあじゃあ、ピーマン残して怒られるのは、不条理なんですよね?」
「そ……、それは、どうでしょう。作った側からしたら、悲しいのかもしれないですし」
福島は腕を組み、少し考えて、
「それも、一理ありますね……」
さらにもう少し考えてから、腕組みを解き、
「料理、頼んじゃいましょっか」
無垢に笑う。
「はい」
長野も愛想笑で返した。
ソレにしようコレにしようの定番の問答もそつなく済ませ、長野がハンバーガー、福島がスパゲッティとなった。
他愛もない話をしていると、やがて注文した料理が届いた。
ごく一般的なスパゲッティミートソースと、思いの外サイズのあるハンバーガーである。
「いただきます」
「いただきます」
“律儀”のブームに乗ってみましたと言わんばかりに長野の後についた福島に、決して嫌な気は持てなかった。
「おいしいですね」互いに言いつつ箸(双方不使用だが)を進め、半分ほど胃袋に入った頃。
福島が、ハンバーガーを齧る長野をやたらと眺めていた。
「おいしそうですねー」
『食べたいなー』としか聞こえない。
「お分けしますよ」
「えっ、いいんですか?」
「はい」
「じゃあ、アタシのと交換で」
「いえ、俺はいいですよ」
「いえいえ、悪いですから」
そこまで言うのであれば、別段拒む理由もない。
ハンバーガーの口を付けていない部分をおよそ一口大に千切ろうとした長野だったが、食べていた状態そのままのスパゲッティを皿ごと寄越す福島に戸惑った。
「くださいな」
「え。――あっ、はい」
求められるがまま、食べかけのハンバーガーの載った皿を渡す。
嫁いで行った娘(ハンバーガー)の処遇も相当に気になるが、さておき重要なのは身内の姑(スパゲッティ)の対処である。
そうか、替えのフォーク――は、ない。
わざわざ給仕を呼んで替えをもらうのは躊躇われる。福島になんと思われるかわからない。
長野がハンバーガー以外の、せめてスプーンを用いる料理であればなんとかなったのだが。
当惑している間にも、食べ掛けのハンバーガーは何の躊躇いもなく福島の口に――唇に――飛び込んで行った。
配慮を失念しているのではという希望的観測は打ち砕かれ、確信する、食器を使い回せ、ということらしい。
ここで躊躇していては信頼を失うかもしれないが、猪が如き迷いなく行けという方が無理難題である。
「――あれ。もしかして、スパゲッティお嫌いでした?」
助け舟のような、見抜かれたような。
「あっ、いえ。その……」
「あっ。大丈夫ですよ、アタシは全然気にしないですから」
この際、長野の羞恥心は無視前提である。
致し方ない、覚悟を決め、長野はフォークを手に取った。
もはやこの世界に『間接接吻』などと洒落た単語は存在しない。
同じヒトである以上、唾液を共有することに何を躊躇うのか。
フォークで麺を巻き取り、気持ちフォークに舌が触れないようにして食べた。
「どうですか?」
まだ咀嚼している内に訊ねてくるのが彼女らしい。
咀嚼したスパゲッティ以外の何かも飲み込む勢いで嚥下し、
「おいしいです」
「ですよね」
嬉しそうに言う彼女に、長野は複雑だ。
やはり、『近過ぎる』。
気分的には『あーん』をされたのと変わらない。
長野の感覚がずれているのか、それとも。
少なくとも、出会ったばかりの男女の昼食風景でないことは間違いないはずだ。
しかしそれも、顧客が望むとあらば応じる他ない。
顧客の要求にNOを返すことは、長野にとっては犯罪にも近い、最大級の不誠実なのだ。
彼女の近さも、仕事と思えばなんということはない。
――そう、思いたい。
「これから、どうします?」
昼食を終え、食後の飲み物を口にしながら福島が尋ねた。
「そうですね。どこか、行きたい所はありますか?」
「行きたい所、ですか? うーん、そうですねぇ……」
すぐに候補が挙がってくるものと思っていたが、意外にも考えあぐねている様子の福島。
「行きたいなぁと思うことはいっぱいあるんですけど、いざとなると、結構出てこないもんですねぇ」
「あぁ、わかります。俺も、いざスーパーに着くと買うべき物を忘れてちゃって、最近は携帯にメモするようにしました」
「あっ、それいいですね。アタシもやってみます」
「ぜひ」
「はいっ」
間。
福島、
「――で、どうしましょうか」
「うーん、そうですね……」
数秒考え、
「ペットショップなんて、どうでしょう」
「ペットショップですか?」
「はい」
ペット嫌いの女性はそうそういないだろうと妥当な当たりをつける。
「いいですね。長野さん、何か見たいものでもあるんですか?」
「特にはないんですが、変わったペットが好きなので、まぁ、暇潰し感覚ですね」
「なるほど。じゃあ、行きますか」
「はい」
それぞれ退店の準備をし、レジに向かう際、
「ここは、俺が払います」
「えっ。ダメですよ、アタシが誘ったんですから」
「いえ、ここは払わせてください。良いお店を教えてもらったし、格好付けたいんです」
格好付けたい、とわざとらしく幼稚な言葉で謙遜する話術は福島に的確に通用し、彼女はクスリと笑った。
「じゃあ、おごってもらっちゃおっかなぁ」
「喜んで」
長野が支払い、ご馳走様でしたと挨拶して退店した。
「おいしかったですねー」
「はい。雰囲気も良かったですしね」
「また来ましょうか」
「そうですね」
また、来ましょうか。
その言葉が、この不可解極まりない仕事が一日限りでないことを表していた。
ペットショップは、シロナガス公園のある通りに一軒あったのを福島が覚えていて、そこに向かうこととなった。
「ここらへんの土地には詳しいんですか?」
長野の問いに福島、
「うーん。詳しいというほどではないんですけど、何度も来てるから、覚えちゃうんですよね」
「なるほど。何度も来ているというのは、どこかお気に入りのお店でも……」
誰しもそう連想するとは思うが、思いの外福島の返答は鈍かった。
「うーん……。なんででしょうね。――好きな街、ってカンジかな」
その表現もあまり本意ではないようだが、長野も別に明確な返答が欲しいわけではない。
「いいですね、そういうの。俺もどこか、好きな街を探してみたいです」
「はい、ぜひ」
心なしか生返事に聞こえたのが、長野には気掛かりだった。
到着したペットショップはこじんまりとした個人経営で、故に種類は少ないが、その分濃度は若干濃くなっている。
「へぇ~」
場所を取る大型犬や鳥類は扱っていないが、小型の犬、猫、カメレオンに代表される爬虫類、そして亀。
「長野さんは、どんな動物が好きなんですか?」
「やっぱり、亀、ですね」
「亀ですかぁ」
店舗が狭い分、ケージやら水槽やらが所狭しと配置されているため、狭い通路を隣り合って歩くことはできず、なんとなく福島が先行して歩いていた。
「やっぱりちょっと、ニオイがキツいですね」
店主に届かぬよう、小声で話す福島。
女性には少々酷だったか。反省しつつ、ごまかすように言う。
「憎さ余ってかわいさ百倍です」
福島はクスッと笑って、
「長野さんって、おもしろいですね」
「……どうも」
照れつつ頬を掻く長野。
「うーん。ゴールデンはいないですねぇ」
「小さいお店ですから、諦めましょう」
移動中に交わした会話によると、福島は犬が好きらしいが、あまり小型犬には興味がなく、ゴールデンレトリバー並の大型犬を好むらしい。
何故、昨今大流行の小型犬を好まないか尋ねると、『小さくて飼っている気がしなさそう』という。
長野、
「今は、何も飼ってないんですよね」
福島、
「はい。今はもう、自分を飼うのに精一杯っていうか」
「それは、大変ですね」
「そうなんですよぉ。――あっ」
何かを見つけたらしく、福島はしゃがみ込んでケージを覗き込んでいた。
「チワワですか」
「小型犬も、たまにいいなぁって思う時はあるんですけどね」
「やっぱり、大型犬がいいですか」
「でも、実際に飼ってみないことにはやっぱりわからないですよね」
「そうですね」
「昔は、長野さんが世話してたんですか?」
実家で犬を飼っていた、という話も済ませている。
「はい。兄が拾ってきた犬なのに、何故か俺が面倒見させられてました」
「ひどいお兄さんですねー」
悪意なく、思ったことを率直に言う福島には一切の憎さがない。
「まぁ、実際に世話をしていると、これが結構愛着が湧くものですよ」
「その分、別れ際、辛くないですか?」
「……そうですね」
「ですよね」
ケージを覗き込む福島の表情はここからでは窺えないが、声色から背中から、チワワを見つめる目が切なそうに感じた。
「よしっ」
膝に手を置き、スッと立ち上がって振り返った福島の表情は、何ら平然だった。
「今度は、おっきぃペットショップ行きましょっか」
「え。えぇ、そうですね」
ただの思い過ごしか、長野は片付ける。
「亀見ましょうか、亀」
「はい」
金魚や熱帯魚を扱っていない分、様々な亀が飼育展示されている。
多くの亀は水槽に陸地をこさえねばならず、青臭さは抜きん出ている。
それにこの量は、福島には少々堪えた。
「……鼻が……」
「でも、慣れれば感じなくなりますから」
「はひ……」
鼻を摘む福島の鼻声が、少し可笑しかった。
「あっ、いた。これです」
長野が指差す水槽の中に、水中を悠々と泳ぐ亀がいた。
しかしそれは疑うところなく亀なのだが、何かが他の亀とは違っていた。
動き回っていてその姿を注視できなかった福島は、必死に目で追いかけて違いを探していた。
「……なんか、顔、変ですね」
「はい。豚みたいな鼻なんです」
「……あっ、ホントだ」
違いさえ判明していれば、あとは目で追うのもそれほど労さない。
「確かに、変わってますねぇ」
「スッポンモドキと言って、別名『ブタガメ』と呼ばれたりします」
「へぇ~」
スッポンモドキに注目していた福島の目が若干長野に向き、
「動物博士みたいですね」
「しょうもない薀蓄です」
「そんなことないですよぉ」
言って、スッポンモドキに視線を戻す。
チラと横目に見る福島の瞳は、好奇心の色、表情は、楽しげであった。
目当ての動物がいないのは残念だったが、自身で案内したのではないとはいえ、少しでも楽しんでもらえたならば達成感があるというものだ。
今後も様々な苦労があるだろうとは思う。
今回の仕事が容易でないことは、もはや充分把握している。
しかし、その苦労が達成感として多少なりリターンされるのであれば、辛い仕事も報われ――
「長野さん」
思考から戻される。
「あっ、はい?」
スッポンモドキを見たままの福島が、ややの憂いを伴った表情で尋ねる。
「一年中発情期の動物って、人間と、あとなんでしたっけ」
「っ」
何故か、吹きそうになる。
何か聞こえたか。
聞き返すべきか。
否、愚問だろう。
耳を疑うどころの沙汰ではない。
人並みの聴力の長野の耳に、その言葉は鮮明に刻まれた。
いっそ聞き逃せば曖昧に出来たかもしれないのに、無茶な渇望が過ぎる。
……なんだって?
発情がどうとか言ったか。
こんな、妙齢の可憐な女性の口から?
まさか、と思いたい。思いたいが、それは己の勝手な都合であって、事実が捻じ曲がることなど有り得ない。
猫か何かの鳴き声の空耳か、己の奥底に眠る変態癖の劣悪な妄想だと思いたい。
どうしよう。
今、俺はどんな表情をしている?
平静としていられているだろうか。
事実は事実として受け止めるが、大事なのは自身の有り様と、その後の行動である。
こんなことで混乱していては、一会社の社長から大事な娘を預かった身として恥ずかしい。
そう、こんなことで。
こんなことでである。
たった一つの質問だ。
何を戸惑っている。
さっさと答えればいい。
違う、そうじゃない。
答えを知っているからどうという程度で収まる事態ではない。
質問の意図など汲めたものではないが、それでも推察はせねばなるまい。
土台無理な話だが、駄目元でも何か、彼女が唐突に質問したその意図を掴まなければ。
こんな短時間で彼女の人となり全てを把握するのは不可能だが、何も知らないわけではない。
だが、知っているからこそ、“あんな質問”をするとは心底思えなかった。
やはり、俺の感覚がズレているのか。
自分の感覚を疑う人間など居やしないだろうが、今ほど疑うことが安堵への道だと思える事態はない。
すみません私の狂った感覚であなたの質問に対する返答が見出せません。
……言えたら、どんなにか。
「ウサギでしたっけ?」
ことさら平然と、先刻の茶会の一環のように話す福島。
何故そんなことを無邪気に訊けるのか。
どうしても、俺の感覚がおかしいとは思えない。
答えなど知る由もなく、正直に答えるしかない。
「恐れながら、わかりかねます」
どうにか絞り出した白旗で、福島は長野に向く。
当の本人が最も困惑したのだが、それだけで心臓が一つ、脈打った。
「硬いですよっ」
無邪気な笑顔で、指摘する。
「そうですかぁ。じゃあ、帰ったらインターネットで調べてみますね」
ではまた明日、この話題が再生するということか。
――今さらながら、女子の愛嬌の象徴とも言える『ウサギ』が通年性欲の候補として挙げられたことに、痛々しいまでの寂寥感を覚えた。
「いい天気ですねー」
「そうですね。絶好の散歩日和です」
ペットショップを出た二人は、さらに近所の雑貨店に立ち寄り、それから散歩と称して街をブラブラと歩き、通りかかった露店でソフトクリームを購入、緑道のベンチに座っていた。
「やっぱりミックスが一番ですよね」
「どうしてですか?」
「だって、バニラも楽しめるし、チョコも味わえるし、両方混ざったのも食べられるんですよ? 見た目も綺麗だし」
そういって、長野とは違い透明プラのスプーンでソフトクリームを掬って食べる福島の姿は、ペットショップの一件の後では尚更女の子らしく長野の目に映っていた。
気にしていてはいけない。
恐らく、そういった事柄に興味が盛んな年頃なのだろう。
長野も年齢的にはほぼ変わらないが、男女では性に対する価値観が違う。
そういうものなのだろう。
自己を納得させつつ、あまり褒められたことではないが、“今の福島”と“ペットショップの福島”を分けて考えることに努めた。
「ソフトクリームはよく食べるんですか?」
「いえいえ。好きだけど、やっぱり、太っちゃうじゃないですか」
体重を気にするところも、女の子らしい。
「無脂肪でなおかつおいしい牛乳を使ったソフトクリームができれば、いいですね」
「ですよねー。そしたら、ホットケーキもプリンもいっぱい食べられるのになぁ」
甘い物好きなところも。
考え過ぎなのだ。
あれが普通、とは思えないが、“ちょっと変わってる”程度なのだろう。
今は、今にだけ集中しよう。
反省会は、家ですればいい。
長野は気持ちを切り替え、福島との“おしゃべり”に意識を向ける。
「最近は、代替甘味料というのが開発されているらしいですよ」
そうすれば、多少は気も紛れる。
「え。だいたいかんみりょう、ですか?」
「はい。砂糖と同じくらい甘くて、糖分やカロリーが低く抑えられている甘味料の研究だったかと」
「へぇ~。完成したら、全国の女の子が大喜びですね」
「俺だって、嬉しいですよ」
「でも、ほら、女の子は男性の三倍甘いものが好き、ってよく言いません?」
自身らを『女の子』と表現する彼女が、どれほど微笑ましいものかは長野にしかわからない。
「いえ、初耳ですね」
「いやー。女の子は砂糖でできてるっていう話もあるくらいですからねぇ」
どこから出た話だ。
――しっかりと気が紛れていることに、否、気を紛らわせてもらえていることに、長野は安堵する。
これでいい。
こうして、“ペットショップ福島”の影が薄くなっていくことを、
しかし、それに反比例して増していく背徳感が、長野の胸を緩慢に締め付けていく。
それでも、発情期事件に懊悩としているよりかはだいぶ気が楽だった。
「じゃあ、舐めたら甘いんでしょうね」
「あはは。舐めてみます?」
「い、いえ」
気を抜き過ぎたか。
コーンを噛み、気合いを入れ直した。
時刻は十六時半を回っていた。
なんとなく入ったレンタルショップから退店した二人は、ゆっくりと歩きながら話し出した。
「あっ。そういえば、いわゆる『勤務時間』って、どうなってるんですか?」
一日の行程に関わる重要事項を伝達していなかったことに長野は軽いショックを受けるが、今日ばかりは、とさすがに弱気だった。長野も人の子である。
「基本的には十七時までですが、」
「えっ、じゅうしちって言うと、えっと、」
「あっ、五時です」
エヘヘ、とはにかむ福島。
「ですが、五時以降も世間で言う『残業』として扱われるので、定時の縛りはありませんよ」
へぇーと福島、
「でもそれって、ベビーシッターとして聞いた説明なんですよね?」
軽く吹いてしまいながら言う福島に、あぁ、そんな話もあったなと長野、
「名目上はそうでしたが、社長は恐らく、嘘が判明しても意味が残るように伝えたのだと思います」
「なるほど。敵ながら、うまくできてますねぇ」
「敵って、」
「今日に限って、お父さんは敵ですからッ」
ツンと言ってのける福島の『父』から『お父さん』への変化が、何故か安心材料となった。
ハハ、と苦笑いで茶を濁す。
間。
「――で」
「はい」
「あんまり、したくない、ですよね? 残業」
「いえ、そんなことは」
「いいんですよ、本当のこと言っちゃって」
そんな、少し拗ねた風に言われても困るのだが。
「むしろ、好きですよ、残業。生活費には余裕があった方がいいですからね」
拗ねた風だった福島が、今度は寂しげである。
「そうですよねぇ。仕事なんですもんねぇ」
しくじった。
これは、痛い。
長野が仕事に忠実に取り組むことが、福島にとっては『仕事で付き合ってもらっている』という、揺るぎない権利者と義務者の関係をより強く認識させてしまっていたのかもしれない。
長野にはどうしようもない相関関係だが、それを紛らわすことも仕事の内だと思うと、己の未熟さを悔やむ。
残業だの生活費だの、露骨な言葉は避けるべきであった。
しかし、口にしてしまったものは取り返しようがない。
今は現況を立て直すことに注力すべきだろう。
意識の方向を操舵している最中、
「ま、初日ですからね。とりあえず、今日はここまでっ」
明るく努める福島の声が胸に刺さるが、現況の立て直しという意味では助けられた。
「わかりました」
返して、せめても懺悔と明るく努めた。
「長野さん、電車で来たんですよね?」
「はい」
「じゃあ、アタシも電車にしよっかなぁ」
地元の人間ではないと思っていたのだが、電車でもよい、という表現では確証は得られない。
行きの電車が重ならなかったことから反対方向という見方もできるが、長野の方が早期に公園に到着していたし、単に福島が後の便だった可能性もある。
いずれにしろ、あまり重要ではないか。
思考を片付け、福島とともに駅に向かう。
ここからだとそう遠くはない駅に近付くにつれ、お互い、ほんのわずか口数が減っていた。
話題の引き出しの不足や疲れもあるが、減少の原因となっているのは主に『寂しさ』である。
丸ではないが一日、行動を共にしたのだ、長野ですら何も感じずにはいられない。
福島の話に齟齬がなければ、明日もまた、こうして顔を合わせることを頭では理解しているものの。
なんとなく、駅に向かう足が遅れていた。
単路線の小規模な駅のプラットホームで、電車を待っていた。
福島は長野とは反対方向で、改札側からでは歩道橋を使って反対ホームに渡らねばならず、歩道橋の階段付近の鉄柱のそばに隣り合って立っている。
ここまで来てしまうと、寂しさというよりは開き直りの感情が強くなり、それは特に福島が顕著であった。
長野は出来る限り話題を振ろうとするのだが、今日一日の多くは福島が話題提供者であったことと、拒んでいるでもないのに話しかけづらいオーラをまとっていて、踏ん切りが付かない。
話下手であることを長野は改めて思い知る。これには性差の言い訳など通用しない。うまくこなせている感はあったが、福島のおかげであったことも思い知った。
根本の性格は簡単に変えられるものではないが、後悔はさせないと約束した以上、せめて会話についていく――そんな根性ではいけない。
この人を選んで良かった、そう思って終われるよう、努力しなければ。
目に見えぬものほど難しいものだが、いずれ努力は報われる。
いずれではなくすぐに結果が欲しいのだが、それもまた、無駄になる知恵ではあるまい。
「長野さん」
今日一日の彼女の言動に比して、抑揚の薄い声で長野は呼ばれた。
「はい」
見つめているのも憚られ、ホーム中央の方向に流していた視線を福島に戻す。
その、戻した一瞬に垣間見えた、今までの福島には一度も見られなかった、切なげな微笑みを浮かべる横顔が、長野の心臓をゆるく、しかし確実に脈打った。
見慣れた笑みに戻った福島が、長野に向く。
「あの」
「はい」
「もし、その、差し支えなければ……」
「はい」
「良かったら、で、いいんですけど」
「はい」
短絡な返答を繰り返していることに、長野は気付いていなかった。
「ケータイの、番号とか、交換してもらえたら、嬉しいなぁ~、なんて……」
言葉を探り探り、慎重に発言する福島。
雰囲気的にはそのような類であろうとは思っていた。
少し、考える。
派遣社員クラスの長野が会社支給の携帯電話を所有しているわけなど無論なく、個人で一台所有しているのみである。
取引相手に個人情報を開示してしまうことは躊躇われるが、今回はケースがケースであるし、今後、待ち合わせ等で円滑に落ち合う為にも連絡手段を確保しておくのが得策と思われる。
長野としても、ここで断ることで不快感を与えてしまうのは非常に心外だった。
「いいですよ」
「え。ホントですか?」
「はい。俺からも、お願いしようと思っていたところです」
「そ、……そうだったんですかぁ」
ふぅ、と福島は一つ安堵の息をついた。
「お断りされちゃうんじゃないかって、ちょっと不安だったんです」
『不安』の言葉に、かすかに埋もれていた記憶を掘り起こされる。
発情期事件。
いや、あのような偶発的(現段階の推論上)な事故が連絡先の交換を拒否する理由にはならない。
忘れよう。
もし万が一、また起こったとしても、“ペットショップ福島”の所為にしてしまえばいい。
「そんな、滅相もない。それに、これから先を考えたら、お互いに連絡先を知らないと不便でしょうしね」
「そうですよね。アタシも、そう思ったんです」
その言葉にはにわかに虚偽の色が見えたが、この際どうでもいいことだろう。
折り畳み式の携帯電話を取り出し、手馴れていない赤外線通信であるが故に少々手間取ったが、お互い正常に交換できたことを確認する。
「じゃあ、あとでメール、送りますね」
「お待ちしてます」
福島は『ケータイの番号』を所望したが、昨今、携帯電話の番号とEメールアドレスを別個に扱う方が手間であり、いっしょくたにしてしまうことが常である。赤外線通信の際も、分離して送信する機能などはない。
「あっ。電車、来ますね」
反対ホームへの到着案内のアナウンスが響く。
「お送りします」
反対ホームまで伴おうとする長野だが、
「あっ、ダイジョブです」
ごく普通だと思っていた親切を静止され、訝しむ。
「向かいから、バイバーイって、してみたかったんで」
「なるほど」
女性独特のこだわりがあるらしい。
階段を上がる福島を目で追――おうとしたが、レギンスを履いているとはいえチュニックの中身を下から覗くのは破廉恥行為と思い、曖昧に注視を外す。
少しして、階段を下りた福島の姿が反対ホームに現れた。
距離を置くと何故か恥じらいを覚えたが、しかし堪えて福島の手振りに同じく手を振って返した。
間もなく電車がホームに入り、福島の全容は捉えられなくなり、乗車した福島がガラス越しに口パクで何か話しているように見え、やがて発車、手を振る姿は遠く離れていった。
電車が完全にカーブの向こうに消えるとほぼ同時に、長野は溜め息を鼻から吐き出した。
肩を張らないようにするのは肩が張るな、と独りで嘆き、到着した電車に乗り込んだ。
「お疲れ様です」
同僚と思しき人物、事務員に挨拶を交わし、昨日と同じく社長室の前に立つ。
仕事が終わったら、来室するよう言われていた。
もしかしたら、言われていなくても訪ねていたかもしれないが。
ノック、
「はい」
「長野です」
「あぁ、どうぞ」
相変わらずの端麗な振る舞いでドアを開け、入り、閉める。
「ご苦労様。座って座って」
「失礼します」
ここまでは、昨日と同じである。
「さて、と。どこから話そうかな」
長野も話したいこと訊きたいことが多すぎて、事前の整理も間に合わなかった。
「まぁ、まずは一つ、言っておかないとね」
ゴホン。福島忠重の咳払いが唸り、
「嘘の仕事を依頼して、申し訳ないっ」
言葉面こそ厳格だが、彼の声色は、昨日の連絡不達の謝罪の半分も気持ちが篭っていなかった。
「いえ、そんな。業務に支障を来たしてはいませんし、恐らく、何か事情があったものと思いますから」
「……そう。事情は、あったのだけど」
間、
「内容が内容だからね。さすがの長野くんにも断られてしまうんじゃないかと、ヒヤヒヤしていたんだ。だから、申し訳ないとは思いつつ、妥当な嘘をついてしまった」
むしろ、長野以外の一般男性社員にありのままを依頼していれば、まず間違いなく受託していたと思うのだが。
下卑た下心だけでこなせるほど容易な仕事でないことは、フクシマスタッフ登録の男性派遣社員の中では恐らく長野にしかわからない。
福島忠重は、それを見据えての長野選抜だったのだろうか。
「どうだろう。後になって訊くのも変な話だけれど、もし本当のことを話していても、受けてくれただろうか」
「私がお断りする仕事は、犯罪に加担するもののみです。どのような内容であれ、必ずお受けします」
「――ああ、涙が出そうなほど、頼れる言葉だよ。ありがとう」
福島忠重は、前のめっていた身体をソファの背もたれに預けた。
「さっき、娘から電話があってね」
早い。
よほど鬱憤が溜まっていたと見える。
そして、ようやくこれで福島忠重と福島が親子であることが確信できた。
「なに、本当にベビーシッターの勉強をしてしまったそうだね」
「はい」
謙虚さを抜きに、ただ事実を伝える。
「申し訳ない。長野くんの誠実さがわかっているなら、簡単に予測できただろうに。自分の都合で、いっぱいいっぱいだったみたいだ」
「いえ。無駄な知識ではありませんし、思いの外、楽しかったですから」
そう返すと忠重、「たまには怒ってもいいんだよ」と渋く笑った。
「まぁ、この件はいずれ、お詫びしたい。プライベートの時間を奪ってしまったのは、私としても非常に心苦しいからね」
「いえ、そんな」
「大丈夫。誰も気付かないようなところで、ひっそりとお詫びしておく予定だから」
それでは本末転倒な気もするが、生真面目な長野の気を遣わせないという点においては大いに助かる。
「わかりました」
答えると、懸案事項の一つが落着したことを安堵する忠重の表情が見られた。
「しかし、私も『ベビーシッター』と言い切ってはいなかったんだけどね」
「そうでしたね。そこは、確かに気掛かりでした」
「さすがは長野くん、鋭い」
これは余談として。
「では、仕事の話に戻ろう」
「はい」
もののわずか、姿勢を直す。
「ベビーシッターとして伝えた詳細は、そのまま残ります」
「はい」
「それに加えていくつか、話しておかなければいけないことがあってね」
忠重はまた、デスクの上から例の紙を取り上げた。
「えー。まず、休日出勤について」
若干の間、
「娘からの希望があれば、お願いすることもあるかもしれない。可能性としては、今度の土日かな。まぁ、何もなければ、何もなしと」
「はい」
そこに付加して説明された残業について、深夜残業となる場合もある、無論給料は割高になる、という。
今日のような健全な“おしゃべり”に終始するならば、多少の残業は想定できても深夜に至るケースは全く想像できない。
あくまで『万が一』を考えた保険的な話なのかもしれないが、絶対にないわけではないことを暗に明示していることにもなる。
業務内容の性格上、休出は有り得ると思うが……。
この仕事が、あまりにも多くの秘匿を抱えていることを今さらながらに思い出した。
「それと、必要経費の補充について」
じつは長野は昨日、『ベビーシッター執行に伴う諸経費』という名目で、数万円、忠重から手渡されていた。
この資金は忠重の虚偽発覚後、いわゆる『交際費』に化けたものと思うが、金額が金額だけに手違いがあってはならぬと思い、長野は本日の支出をそのプールからは充てなかった。
「基本的には、いくら使っても構いません」
「えっ」
わずか動揺する。
“いくらでも”という響きは、裕福ではない長野の懐を揺るがした。
「だって、足りなくなってしまったら、格好が付かないじゃないか」
「……そ、そうですね」
格好を付けることがこの仕事においてどれほど重要な行為かを、長野は喫茶店会計の時点で理解していた。
持ち合わせが不足するなど、絶対に有り得てはならない“ダサい”失策である。
「もし、あらかじめ渡した額で足りなくなってしまったら、申し訳ないけれど、立て替えておいてもらいたい。何、領収書なんていらない。長野くんがネコババするなんて、想像もできないからね」
その信頼はむしろ危険だと思うが、しかしそれに応えるのが長野の勤めである。
「あと、できれば、利用使途を明らかにしてもらいたい。もちろん、“できれば”でいい。覚えておくのも面倒な細かいものは他のに足してしまえばいいし、まぁ……、そうだね、あんまり公にしたくない支出ってのもあると思うから」
……公にしたくない支出とは、なんだ?
長野には想像がつかない。
忠重は、今後の展開をどう見ている?
単なる冗談で言っているのかもしれないが、冗談でも上長の指示であることに相違なく、従う他ない。
――『細かいもの』の相場はいかほどか。
「わかりました」
補充に付随して、毎日勤務終了後は社長室に立ち寄って欲しいとのこと。
業務報告を兼ねているものと思えばいい。
「あとは……、んー、以上かな。何か、質問は?」
「いえ。業務に関することは、特には」
「うん。まぁ、基本的には二人の自由だから、私はそれを出来る限りバックアップするだけだね」
改めて思う。
この仕事の、不可解さというものを。
娘の我が侭ならまだしも、親、それも社長クラスが全面的に支援するというのだ。
傍から見れば、凄まじいまでのドーターコンプレックスである。
「――すみません」
「ん?」
「一つ、質問よろしいでしょうか」
「あぁ、はい、どうぞ」
依頼内容の詳細など、掘り下げたところでそれは単なる好奇心の奮いでしかない。
「何故、私なのでしょう」
主語を抜かしたのは、今回の仕事が、重要な“何か”が未だ見えていない気がするから。
仕事だからという理由ただ一つでしか動いていないから。
「うーん……。難しい質問だけれど、今なら、答えるのは簡単だ」
その矛盾には、忠重が担当者選定にいかに苦心したかが窺えた。
「大変、真面目だから」
そんなことは、わかり切っていることなのに。
コイツはクソ真面目だから頼めばなんだってやるだろう、というその言葉は、すでに昨日の時点で聞いていた気がするのに。
長野はたまに、わからなくなる。
自分の誠実さが、重用されているのか、利用されているのか。
利用されていたところでその真面目さが不変であることは絶対だが、考えてしまうことがある。
今回もまた、利用されているのだろうか。
そんなことはない、でなければ、忠重がここまで長野を信頼し切るはずがない。
そう思っていなければ、この仕事を一週間、耐えることが出来そうになかった。
「ご期待に添えられますよう、がんばります」
頭を下げる長野の表情は、やに複雑である。
帰宅後、部屋着に着替えた長野は、反省会及び予習復習に取り掛かって――はいなかった。
テレビをつけ、適当なチャンネルを見るともなく眺め、掛け布団を抱えるようにして寝床で横になっていた。
夕飯を作らなければ。
空腹は知覚しているのに、食欲が湧かない。
本でも読もうか。
読む気になれない。
長野は、味わったことのない倦怠感に戸惑いつつも、その苛みから逃れられないでいた。
ただ、女の子とおしゃべりしていればいいだけだろう。
何をうだうだ考えている。
いつも通り、ひたすら真面目に仕事に取り組めば、たった一週間で終わることだ。
たった、一週間。
気が滅入る。
テレビを見ていた視線を外し、抱えていた掛け布団に顔を埋める。
反省会、やらなきゃ――
ブーン、ブーン。
唸るような振動音が、沈んでいた長野の意識を叩き起こす。
枕元に置いてある充電器に挿してあった携帯電話が、バイブレータをこまめに震わせていた。
慌てて携帯電話を取る。電話ではなくメールだった。
こんばんは。メールでは初めまして(ペコリ)福島珠璃です。今日は本当に楽しかったです。一緒にいる時は恥ずかしくて言えませんでしたが、ありがとうございました。よろしければ、明日もまた、私のワガママに付き合ってください(ペコリ)
福島からのメールは、彼女の陽気な性格から、絵文字攻めになるものと思っていたが、勝手な先入観であった。
かしこまり過ぎている。まるで、長野を模倣しているようだ。
しかし文体に違和感がないところを見るに、少なくとも、文章ではこれが地なのかもしれない。
大和撫子よろしく、文章の体裁には気を遣っている可能性もある。
何にしろ、この意外性は長野にとっては好印象だった。
初めまして、長野隆央です。こんばんは。こちらこそ、大変楽しませていただきましたし、楽しんでいただけて光栄です。ありがとうございました。私の不慣れな案内でお暇を感じさせてしまうこともあるかもしれませんが、出来る限りを尽くさせていただきます。明日もよろしくお願いします
こんなものか。
大学を中退してからというものめっきりメールのやりとりが少なくなってしまい、久々の作文に違和感がないか、二度ほど読み直して送信ボタンを押した。
携帯電話を手に持ったまま、またボンヤリとテレビを見ていると、しばらくして返信が届いた。
お互い楽しめたみたいで、良かったです。私だけはしゃいでたんじゃ、悲しいですからね(涙)仕事だからといって、気負わないで下さい。友達と遊んでいるみたいに、どこ行く何する、も楽しみの一つですから。
あ、ところで、明日はどこで待ち合わせしましょうか?
勤務時間の伝達失念もそうだが、今日の長野は凡ミスが多い。
もし連絡先を交換していなかったら、明日どこで待ち合わせすればいい。
連絡先を交換したことで、気が緩んでいたらしい。
身体が奮い立たないのは癪だが、精神的に疲れたのだ、明日には回復する、長野は前向きに考えた。
その後何通かメールをやりとりし、福島と別れた駅の近くにあるファミリーレストランに十時、となった。
電話で話した方が手っ取り早いとも思ったが、彼女のことだ、あえてメールで話してみたかったのだろう。
福島が風呂に入ると言い、メールのやりとりが終わった。
『おやすみなさい』
の一言が、仕事から完全に解放されたことを意味しているように聞こえ、長野は大きく息を吐いた。
正直、疲れた。
良い意味でも、悪い意味でも。
明日、地球がどう回るかなんて、考えたくもない。
今日ばかりは、反省会も控えよう。
困憊し切った長野は、風呂にも入らないまま、まどろみの底に落ちていった。