『稲毛、稲毛』
着駅アナウンスに飛び起きる。いつの間にやらうたた寝に落ちていた。
足下に置いていた重たいリュックサックを持ち上げつつ座席から立ち上がり、間もなく開いたドアからホームへ降りつつ、その勢いでリュックサックを背負う。
疲れを溜めた寝起きの身体には少々酷な急制動だったか、肺の奥から少し深めの溜め息が自然と出た。
…疲れた。
駅前ビルディングのネオンでもなければすでに宵闇に落ちているであろう二十一時も過ぎ、専門学校帰りの彼は、期限の迫る提出課題を進めるために学校施設にて“残業”に励み、著しく疲労を蓄積させていた。
決してタフな身体ではない。ましてやパソコンを相手にする以上、眼球への負担は軽微でなく、目薬と目頭のツボ押しが癖になっていた。
加えてこの重たいリュックサック、要因は他でもないノートパソコンである。自宅への“持ち帰り仕事”などこの分野では当たり前のことだ。これでも軽量な機種を選んだはずなのだが、重い物は結局のところ重いのである。
うたた寝明けでは特にやる気が起きない。Suicaをタッチして改札を出た彼は、ベッドに倒れ込むことだけをイメージして、必要だった数点の買い物を諦め、駅前のネオン通りに脇目も振らず家路を急いだ。
駅前の喧噪を抜け、車一台分の幅の、街灯もまばらな住宅街の細い路地を歩いていた。
こんな時間にもなれば人通りはほとんどない。
この路地を抜けた先に、彼の住むマンションがある。駅からは若干遠いが、道中遅くまでやっているスーパーもあるし、まずまずの住み良さを気に入っている。
そのまずまずの住み良さのまずますのマンションの、まずまずのベッドに倒れ込むことだけを考えて、ずしりと重いリュックサックを何度か背負い直しながら、ひたすらに邁進していた。
そうして歩いている内、やがて、数えたこともない街灯の幾つ目かに差し掛かった時だった。
昭和のトレンディドラマで告白した男がフラれて酔い潰れるスポット、というのがわかりやすいか、チカチカと瞬く街灯、その電信柱の根元に、
女性が膝を抱き抱えてすすり泣いていた。
……あらかじめ言っておくと、彼は基本、事なかれ主義である。
専門学校に入りプログラマを志したのも、他人との接触が極力少ない仕事に就きたかったから。
こんな、誰がどう見ても厄介事の塊でしかないものに関わろうはずもなく、見て見ぬ振りをして通り過ぎた。
――通り過ぎようとした。
正確には、少し通り過ぎた。
駅前の喧噪地帯であれば、鳥のさえずりにも似たすすり泣く声も、耳に入らなかったのに。
街灯さえなければ、その薄ぼんやりと照らされる女性を無意識に向いてしまった視線が視覚情報として認識しなかったのに。
どこでも見かける極めて普遍的なOLの制服を身に纏い、古き女子小学生のブルマのそれと同様、上層部(主に男性)の恣意的なスケベ心によって生み出されたそのタイトな制服によって浮かび上がる身体のラインから推測するに、若い。ポニーテールのようだ。膝に埋めるように俯く顔は見えない。
関わるな、と脳は言う。
しかし心はそうは言わない。
彼が少なからず健全な男である以上、若い女性に興味はある、だがそれ以上に、人気のない夜道で弱々しくすすり泣く女性を放っておきながら、あのまずまずでしかないベッドで快眠を貪れるだろうか。
イメージは得意な方である。故に、結果はわかっていた。
関わるな、と脳は言う。
人としてどうか、などと理屈や哲学の問題ではなく、放っておけない、という心理の問題だった。
……だが、どう声をかけたらいいものか。
このような状況に遭遇した経験など無論なく、状況に対する対処策など思い付きもしない。
そもそも、彼の性格上、見知らぬ他人との会話を得意とせず、ましてや女性相手、全くもって不得手中の不得手である。
どうせわからないのなら、考えても始まらない。
「あの、」
少々声が上擦った。この程度で緊張するな、と大昔から自覚しているが、直らないのも自覚している。
しゃがみ込んで目線を合わせようかとも考えたが、恥ずかしすぎた。
「大丈夫、ですか」
すすり泣く声が止んだ。代わりに、堪える嗚咽が漏れる。
膝に埋めていた顔がわずかに上がり、うるうる潤んだ瞳と痛々しく赤らんだ目の周りが、上目遣いで彼を見据える。
……わかっていたはずなのに、覚悟していたはずなのに、それでもそんな目で見られると、無実の心が意味不明な罪悪感に苛まれる。
僕じゃない、あなたを泣かせたのは僕じゃない、言い聞かせても後ろめたい、やはり声をかけなければ良かったか、たらればなんてみっともない。
「あの、」
上目遣いのまま、何も言わない彼女に続けて何か言おうとするが、案の定、単語が何も浮かばない。
基礎が貧弱な和紙なのだから、その落涙によって風穴が空くのは明らかだった。
とどのつまり、頭が真っ白。
後悔しても状況は改善しない。
とりあえずなんか言え。
「警察――」
口から転がり出た波乱の前兆に、彼女はブンブン顔を振った。再び顔を膝に埋める。
……せめて、もう少しプランを立ててから声をかけるべきだった。二言目に警察は有り得ない。そして三言目は何もない。
後頭部を掻く。
降参です、とこのまま立ち去ることもできる、元々責任などない。
そんな半端をするくらいなら、最初から声をかけない方がマシだ。
突っ込んだ首が抜けるまで、なんとかしなければ。
「こ、この辺、危ないですよ。駅前とか、明るいトコの方が」
冷静になって自分の言葉を省みる。
比較的安全な明るい駅前で思いっ切り泣け、とも聞き取れはしないか。
言ってしまったものは仕方がない。失言を取り繕える能力があれば、そもそもこんな失言はしない。
もしかしたら怒り狂って殴りかかってくるかも、などと小心者の行き過ぎた被害妄想が走ったが、彼女はまたすすり泣く声をやめ、嗚咽に戻り、また上目遣いで彼を見据えた。精神衛生には決して良くない。
そのまま、時間にして五秒程度、彼にはその五秒が数倍にも膨らんで感じた、その見据え合い。
気まずさに、彼が呻きにも似た『えーっと』を言おうとした時だった。
アスファルトに手を衝き、ふらりと弱々しく立ち上がった彼女、まずそのスタイルに目線が向いてしまう彼に罪はない、しかし直後には彼女が突如起立した行為に肝の冷えを覚えた。
涙で化粧が崩れている以外、服装の乱れ等は認められず、特段の事件性は感じられない、しかし個人的には充分大事件である。
なんだ?
なにを、する?
静かに脂汗をかきまくって表情が硬直する彼に向かって、彼女は右手の甲で涙を拭い取り、一つ二つ、鼻をすすったかと思えば、
左手で、彼のネルシャツの右裾を摘んだ。
この程度の女性からの接触で、動揺など。
内心は第三次世界大戦である。
だが、彼女は動揺させる隙すら与えなかった。
「……連れてって」
「……じゃあ」などと情けない返事を返して、何をどうしてか、来た道を引き返していた。
名も知らぬ、すすり泣く女性に右裾を摘まれて、二人で。
歩き出してからまだ二、三分ほどしか経っていない、駅前の喧噪には程遠いが、もう随分と歩いたように感じる。
なにせ、ふらふら弱々しく歩く彼女に裾を摘まれているものだから、巡航速度のまぁ遅いこと。
青春ドラマによく見られる、歩きの遅い彼女にスピードを合わせる、なんてロマンチックな情事とも程遠い。
この上また膝を抱えてしゃがみ込まれでもしたら、もう無意識に百十番に電話する自分がイメージできる。
そうならないよう、気持ち、ほんの気持ち、できるているかも判別できないようなレベルで、彼女を引っ張るように歩いた。
幸い、まだ誰とも擦れ違ってはいないが、知り合いだったら最悪で、それでなくても赤の他人にでもこの状況を目撃されたら、まず間違いなく犯人扱いされるであろう。
僕じゃない、彼女を泣かせたのは僕じゃない、自身をすら言い聞かせられないのだから、他人への釈明など通用する気がしなかった。
一般大衆の大多数がこの状況を見て推測するであろう“この程度の些事”であれば、警察ですら声をかけることもないと思うが、遅々として駅前に接近するにつれて粛々と比例する他人との遭遇率を慮ると、判別できないレベルの彼女の引っ張りも比例して重くなっていった。
やがて、朝を迎えてしまいそうな気すらしたこの旅情も、駅前の喧噪の入り口辺りに差し掛かった。
この辺ならまだ人も多いし、店頭のネオンもあるし、あんな路地に比べたら確実に治安は良かろう。
僕は出来る限りを尽くした。見知らぬ女性に声をかけ、付き添いまでやってのけた。
これで僕は解放される。そう思ったら、完全に忘れていた睡魔がぶり返してきて、次いで我が家の倒れ込みたいランキング一位のベッドを思い出した。
もういいだろう、この辺で。
僕は疲れた。
睡魔と緊張で半ば朦朧とする意識の中、そろそろこの辺で、の一言を発しようと、彼女に向けて発しようと、意を決して振り返る、振り返ろうとしたまさにその刹那、
気持ち引っ張っていたはずの右裾が、明確に、グイッ、と引っ張り返された。
カウンターとも呼ぶべきか、自分の行動が不意に相手と重なると、驚きは何倍にも膨らむものである。
彼は、そのわずかな引っ張り返しに大仰驚いて、若干顔を引きつらせて彼女に振り返る。
相も変わらず潤んだ瞳と赤くなった目の周りが彼を見据えて、精神衛生へのダメージを上乗させることに変わりはなかった。
再び彼女が小さく口を開いて、その言葉を発するまでは。
……嫌な予感はした。
彼女に振り返り様、視線の端に映った、しみったれた居酒屋の赤のれんが、風にない今夜、ようようはためいて。
「……付き合って」
「……じゃあ」などと情けない返事を返して、何をどうしてか、居酒屋にいた。
名も知らぬ、すすり泣く女性に右裾を引っ張られて、二人で。
一応、少しは抵抗した。
……否、しようとした。
未成年なんですけど、と。
できるわけがなかった、水風船をマチ針で突くなんて。
初老の夫婦二人で経営しているという個人の居酒屋で、タバコ臭い店内と、醤油で着色したような床と壁と椅子と食卓が、いかにもしみったれている。
年季が入っている、と言えば外聞はいい。要はボロ臭い。
一人でも仲間内でも、絶対に入らない店である。
狭い店内の角、四人掛けのテーブル、対面の彼女は依然すすり泣いている。
これじゃあ僕完全に、と考え出した途端、店主の妻と思しき給仕がお通しを持ってきた。
「ハーイ今日のお通しね、飲み物は?」
慣れた手付きでお通しを置き、早口で注文を促す声に圧倒されるが、恐らく彼女が泣き伏しているためだろう、明らかに彼に向いて注文を訊いたが、俯いたままの彼女が掠れた声で「……生二つ」を注文すると、奥方は少し面食らったがすぐさま注文を伝票にとった。
そして立ち去り際、案の定、彼の耳元で、しかし店内の騒々しさに負けない声でぼそりと、
「彼女泣かしちゃダメよっ」
僕じゃない――は、絶対に通用しない相手だと悟った。
ビールは文字通り間もなく二杯届いて、当然ながら、二人それぞれの前に置かれた。
奥方に「僕未成年なんで」と言ってしまえばそれまでである、客が未成年と判明した時点で店側の提供責任が発生するからだ。
……この状況ではとても言えたものではない。
彼女が右手にビールジョッキを持つ。反射で彼もジョッキを持った。
乾杯の音頭の権利など、問うまでもない。
彼女は大きく息を吸い込んで、
「義雄の、ばかやろーっ!」
構えた彼のジョッキに彼女がジョッキをぶつけ、割れんばかりのジョッキの打ち鳴る音とともに、泡がたっぷり載ったビールの半分が活き活きとジョッキからダイブしていった。
……まぁ、うら若き女性が泣き崩れる理由など、得てしてそんなところだろうとは思っていたが。
飲む振りをして口を付けていればごまかせるだろう、と高を括っていたら、彼女はジョッキを逆さまにしてあっという間に飲み干していた。
ごまかす必要性なんてなかった。
「マスター! 生おかわり!」
あいよー、とヤニ焼けした渋い声の店主の返答が騒々しさを縫って聞こえた。とてもマスターと呼べるキャラではない。
唖然とする彼をよそに、間髪なく二杯目のビールが彼女の前に置かれた。
なんだこの人。
二杯目のビールジョッキを手に取った彼女は、また一気でもするのか、さすがに止めないとマズい、と思ったが、その手は動かなかった。
代わりに動いたのは口だった。
「……訳わかんない」
いやそれはこの状況、と叫びたかったが喉を出る直前で呑み殺す。
「ねぇ、」
ようやく上目ではない目で彼を見て、何か話し出すのかと思いきや、一瞬黙り込んで、
「マスター! おまかせフルコース!」
ないよー、と渋い声。
「じゃあ唐揚げ!」
あいよー。
……で、話が続くかと思いきや、彼女の視線は二杯目のビールの水面に落ちていた。
ええ、どういうこと?
すすり泣きは止んだが、拗ねたような表情は変わらない。
僕が拗ねたい。
沈黙に堪えかねてビールをちびちび飲んで間を埋めようとするが、不味い。逆に自らを危機に追い込んでいる気がする。
周りのおっさんチームがどんちゃん騒ぎをすればするほど、この謎の二人組の沈黙が余計に気まずい、一体全体何しに来た。
黙ったままの彼女、彼の手でこの沈黙を破る術はなく、待ちに待った山盛りの唐揚げが奥方の手によって届けられる。
「すいません、烏龍茶もらえますか」
お酒弱くて、と理由付けしたのは誰に対する言い訳だったのか、もはやわからなくなっていた。
きっと彼女はこれからへべれけになるだろうから、烏龍茶に切り替えたところで気付かなかろう、『私の酒が云々』は避けられる、という希望的観測。
そういえば夕食をまだ摂っていなかったし、未成年でも食事については何の法令もない、唐揚げくらいは有り難く頂こう、と割り箸を割った時にはすでに唐揚げは彼女がガッツリ抱え込んで食い散らかしていた。
ああ、さすがに一杯目の一気飲みは胃に来たのかもしれないな、と妙に冷静な判断がついて出る。
もう一つ唐揚げを注文した。
「ねぇ、」
あんまり彼女が独壇場だったので、自分が彼女の会話相手であることをうっかり忘れかけていた、話しかけられて双肩が跳ねる。
「どう思う?」
一杯目の一気が効いたのか、頬を朱に染めて目尻をわずかに垂らし、順調にへべれけの彼女が彼を見て問う。
ほんの少し前、右裾を摘んですすり泣いていたのは別人だったと思いたい。
「え」
何をどう、という意味の聞き返しだったのだが、
「っていうか、向こうからナンパしといてふるとか、ホンット訳わかんないッ」
ですからこの状況の方が、と喉ちんこまで出掛かったが届き立ての烏龍茶で呑み殺す。
「そりゃあ、ホイホイ付いてったアタシだって悪いけどさ、しょうがないじゃん別れたばっかりだったし、」
うわぁ、言っていいのかそんなこと。
「別れ切り出すくらいなら最初から声かけるなっての。しかも理由がさ、他に好きな女ができたって。ひどいと思わない? 付き合ってる時はやさしかったくせに、別れ際になったらド直球だよ? せめて好きじゃなくなったからとか……、あ~、もう、」
訳わかんない、と来るかと思ったが、
「マスター! 生と串盛り!」
あいよー。
少し気分が悪くなってきたのは、ビールのせいか否か。
「そう! 今考えればね、最初に気付けば良かったなって、アタシがバカだった、だってあの黒さ絶対ヤリ○ンだもん」
……うん、砂肝がうまい。
「駅弁が好きだっていうからがんばったけどさ、アレ女にしてみりゃちっっっとも気持ち良くないし、自分のことしか考えてないよあんなの」
シーザーサラダのクルトン多めは地味に嬉しい、シーザーがうまい店は本物だと思う。
「そもそもさ、あのイボイボ付きの――」
――なんだかんだで、彼女の話に聞き入っている自分がいた。
女性経験のない彼に、これほどまでに生々しく酷な話はない。
しかしそれでも、彼にとっては未体験で未経験の未知の世界の、それも異性からの、実体験の話である。
こうなってしまった以上我関せずとは行かないし、見方を変えれば、これほど貴重な機会にはそうそう出会さない。
それに、意地は悪いが、酔っ払った彼女がどこまで口を滑らせてしまうのか興味もある。
状況の終わりは到底見えてこないが、今はとりあえず、彼女の話に聞き入っていたいと思った。
「――アタシの誕生日忘れやがった!と思って、あいつんチ押しかけてったのね」
合鍵の話はすでに聞いていた。
「そしたら、部屋真っ暗なのにローソクだけ火ついててね、」
停電か、それは仕方がない。
「お前なら絶対乗り込んでくると思って用意しといた、って」
おっ、つくねもうまい。
「んー……。アレはねぇ、さすがにコロッといっちゃったなぁ……」
この店コロッケもおいしそうだなぁ。
「イイトコ……、あったんだけど、なぁ……」
メンチカツもいいけどやっぱり総菜の野菜コロッケが、
「……え」
いつの間にか、彼女はテーブルに突っ伏して寝息を立てていた。
……しまった。
こうなることは容易に予測できただろうに、怒濤の暴露トークに驚嘆して油断していた。
彼女の心地良さそうな寝息に安心感を覚えてしまうが、とても共倒れしていい状況ではない。
ダメ元で起こしてみる。
女性へのコンタクトなど造作もないが、一応、念のため、入念にセーフスポットを熟慮して、彼女が彼にしたように制服の上着の裾を引っ張ってみた。
うーん、とか、んん、とか唸り返してくれることをせめても期待したが、何の反応も賜ること叶わなかった。
ビールをジョッキにして五杯は召し上がった気がする、容易に起きそうにない。
女性へのコンタクトなど造作もないが、勇気を振り絞って、左肩を軽く掴んで揺すってみた。
笑えるほど無反応である。
しかも、今更ながら驚いたが、酔っ払いを覚醒させる際の鉄板である『肩を揺すりながら名前を呼ぶ』の『名前を呼ぶ』部分を行使できないこの状況に、むしろ呆れ返ってしまった。
「あら、彼女寝ちゃった?」
様子に気付いた奥方が声をかけてくる。
『彼女=恋人』と思い込むのは早計なので否定しないことにする。
「すいません、ちょっと飲み過ぎちゃったみたいで」
「そう。んー、できれば休ませてあげたいんだけどねぇ……」
その語調で気付く。
あれほど騒がしかった店内が、わずか一組、酔い潰れたおっさんをおっさんが介抱しているだけになっていた。
彼女の話に聴き入りすぎたせいか、店内に満ちるアルコールの臭気にやられたせいか、時間の経過の感覚が麻痺していたらしい、すでに閉店時間のようだった。
彼も無関係といえば無関係だが、首を突っ込んだ責任はあるし、店はなおのこと無関係である、迷惑はかけられない。
「えっと、とりあえず、会計お願いします」
「大丈夫? ごめんなさいね、じゃあ―」
何をどうしてか、人を負ぶって歩いていた。
名も知らぬ、寝息を立てる女性を背に、二人で。
もはや人気のない深夜、月明かりと街灯が照らす静粛な夜道を、背中に女性を、前にリュックを、右手に彼女のバッグを携えて歩く姿は、今度こそ誘拐犯に間違われても文句は言えない。
第一の問題は、お勘定だった。
多少過保護に思える両親からの仕送りによって、生活費及び少々の遊興費にはお陰様で困っていない。
だが、困ってはいないと言っても、それが手持ちにあるかどうかは別問題である。
奥方に提示された金額は、社会人水準で見れば手持ちでも支払えるものだったのだろうと思う。
バイトもせず、仕送り以外に収入のないイッパシの専門学生がホイと気軽に支払える金額ではなかった。
いや、こうして店を出られているのだから、どうにか手持ちで支払うことはできたのだ。
この一週間の飲食費分を全て犠牲にした上で、だが。
こんなことなら今朝、Suicaをチャージするんじゃなかったとやり切れない後悔を覚える。
そもそも彼は、当然のように、おごってもらえるものだと思っていた。
おごってくれる、とは一言も言われていないが、社会人が学生を酒に誘っておいて割り勘というのはさすがに勘弁願いたい、というか明らかに割に合わないアルコール比率である。
しかし、彼女が豪華客船タイタニックを漕ぎ始めてしまったが最後、頼りにしていた彼女の懐は完全に場外ホームラン、勝手に財布から拝借する度胸もない。
こんな時間では金融系のATMも営業外だし、彼女ならまだしも、烏龍茶しか飲まず常連でもない彼にツケを許容するほどこの店に余裕があるとも思えず、提案されても断っただろう。
いやもう手段を選ばなければ、素知らぬ顔で彼女の財布から諭吉を拝借すれば良かったのだ。
冷静に考えれば、もっとスマートな解法があったかもしれない。
今、こうして彼女を負ぶっているということは、往々にして取り乱したという証だった。
彼女という財布を失い、彼女というへべれけ完全体が現れ、その全ての対処を担わされた彼に完璧な収束を求める方が酷というもの。
ヤバい、とりあえず金払って出よう、ヤバい、
手持ちほぼ全額を銭受けに叩きつけ、店主に手を貸してもらってどうにか彼女を背負い、店を出て……。
酔っ払いを手軽に輸送する手段と言えば、誰もが第一にタクシーを思い付くだろう。
……財布に眩しく光る、ペットボトル一本分の残金で初乗りを営業しているタクシー会社が存在すれば大団円だったのに。
ああ。
重い。
本当、なんでこんなことになってしまったのか。
今頃は、ベッドの上で惰眠を貪っていたはずなのに。
ただでさえメチャクチャな積載量なのに、上層部のスケベじじいどものせいで、このタイトなスカートのせいで、彼女の足が思うように開かず、脚を抱え込むのも一苦労である、背負いにくさこの上ない。
背中に当たる二つの膨らみ、とか、ストッキング越しの美脚の感触、とか、鼻の下がどうにかなってしまいそうな鉄板のマブいハプニングも、閻魔様も唾を飲むであろうこの過酷な人間タクシーの前では、見事なまでに、どうでもいい。
もっと軽いノートパソコンにすれば良かったなぁ、などとは二度と思わないことにする。人間様の重さに比べたら、数百グラムで争う世界がバカらしくなってきた。
自宅マンションが死ぬほど遠い。
ふらつく彼女を引っ張って歩いていた時の方が、よっぽど速かった。
第二の問題は、彼女の身柄である。
名前も知らない彼女である、住所など知る由もない。
負ぶうのにも人の手を借りなくてはならないのに、こうして荷物まで完全装備した状態ではちょっと下ろすだけでも容易ではない。
下ろしたとして、もはや一人では負ぶえない。
今この状態で出来ることと言えば、ただ、歩くことだけ。
死ぬ気で彼女を下ろして、なりふり構わず彼女のケータイを駆使しようにも、パスワードロックがかかっていたら。
いやそもそも大前提に、彼女の素性すらろくに知らないのに、その上見知らぬ誰かに電話をかける勇気など毛頭ない。
警察が関わることをブンブン嫌がった彼女だ、起きたらブタ箱でした、なんて、女性にとってはそこそこの致命傷だろう。
ビジネスホテルに放り込むことも考えたが、ペットボトル一本分で泊まれるホテルなど野宿しかなかろう。
……もう、脳が働かない。
こうするしか、思い付かない。
ああ。
重い。
ようやく辿り着いた彼の自宅マンション、エントランスにセキュリティのない前時代的な建築で、治安に多少の不安を思っていたが、手の自由が利かない今の彼にはこれほど有り難いこともない。
だが、その先に待ち構える関門に、彼は息を呑んだ。
エレベーター、そのボタンが押せない。
正直、この満身創痍で階段を四階まで上り切れる自信はない。あっても上りたくない。死んでも嫌だ、ではなく、死んでしまう。
このエレベーターには絶対に乗りたい。
しかし、どう足掻いてもこの格好では上昇ボタンに指が届かない。少しでも抱えた腕を外せば、彼女をずり落としてしまう。
……やむを得ない。
鼻で押す。
一階で待機していたカゴが開き、狭い間口に彼女をぶつけないよう慎重に乗り、行き先階のボタンを、鼻で押す。
顎でも良かったか、なんて考えると尚更空しい。
四階に降り立ち、廊下を少し行ったここが、彼の自宅である。
ドアの前に佇む彼は、しかしそのまま、しばし硬直した。
……さて、どう鍵を解錠したものか。
いくらなんでも鼻や顎で鍵は回せない、それ以前に、前に抱えたリュックの中から鍵を取り出すという高難度ミッションを完了せねばならない。
彼女が有意識でさえあれば、背負われたままでもリュックから鍵を取り出して解錠してもらえるのだが、居酒屋を出てから今の今まで、耳元にある彼女の口鼻からは、寝息しか聞こえてこない。
どうせ自宅は目前だ、一度彼女を下ろして両手の自由を得ない限りは埒が明かない。
ただ、無意識の彼女を下ろそうとすると、背後に倒れ込んで後頭部を打ってしまう可能性がある、壁に背を預けさせながらでないと危険だ。
しかもここはマンション四階の廊下、外側の塀では転落の危険性がある、内側の住居側の壁を使う。
もはや足腰はぐにゃぐにゃだが、ここで下手を打っては今までの苦労が台無しだ、慎重に、慎重に……。
そうしてどうにか、彼女を座らせる形で下ろすことに成功した。
しかしここは共用廊下である、このままにしておくわけにはいかない。
まず解錠して玄関を開けっぱなしにし、抱えていたリュックと彼女のバッグを適当に部屋に放り投げる。
彼女の元に戻り、負ぶう……のはもう無理、ええい、いわゆる“お姫様だっこ”で対応するしかない。
肩に手を回し、膝下に腕を差し入れ、立ち上が――
疲労困憊だからかもしれない、ドラマやアニメの見過ぎかもしれない、“お姫様だっこ”がこんなヤバいものだったなんて。
ドラマやアニメで新婦を颯爽と抱き上げる新郎、ありゃウソだ、ワイヤーアクションだ、CG合成だ、そうじゃなきゃ、こんな…ッ!
さっき大量に飲んだビールがそのまま体重に影響していることを思うと、ちょっと彼女が恨めしい。
――弱音を吐いていられる余裕があるなら。
全身全霊を込めて、一気に立ち上がる、台所とユニットバスに挟まれた細い廊下を転ばぬよう必死に踏ん張りながら横歩きで抜け、放り投げたい気持ちを死に物狂いで抑え込んで、彼女をベッドにそっと下ろす。
……ああ。
終わった。
まだ座れない、彼女の履きっぱなしの靴を脱がして、開け放していた玄関を閉め、施錠し、部屋に戻る。
そしてようやく、ようやく彼は、へなへなと床にへたり込むことができた。
疲れた、なんて口にするのも辛いほど、疲れた。
彼の部屋は、十畳一間、フローリングにカーペット敷きの単身部屋である。
平日は寝に帰るだけと言っても過言ではなく、インテリアへのこだわりもほぼ皆無で、男の独り暮らし然としたそれなりの散らかり具合を見せている。
その散らかりの中にあって、十畳一間の多くを占領する、彼の手に余る上等なベッドで安らかに寝息を立てるのは、家主であるところの彼ではない。
構わず布団の上に寝かせてしまった以上、掛けてあげられる物が何もないが、この時季なら問題ないだろう。
その、何も掛かっていないがために何も隠れていない彼女の寝姿を、読み終えて放り投げていた雑誌の上にへたり込んでいる彼が何気なく見やる。
……本音を言ってしまえば、何気はある。
いいだろう、明日には筋肉痛で動けそうにもないほど尽力した、少しくらい眼福を拝んだってバチは当たるまい。
……。
良くできているな、と思う。
上層部のスケベ心によって生み出された、眩しいほど純白のブラウス、シックに飾るベスト、ラインを浮かばせるタイトなスカート。
妙な趣味でも覚えたかと自身を懐疑に思うが、健全な男子である、心身衰弱の現状にあっては否応でも無意識に取り込んでしまう。
独り暮らしを始めてこっち、女性を部屋に入れたことなど母親以外になく、イレギュラーな事態というのは特に印象に残りやすい。
壁を背にこちらを向いて寝ていた彼女が、不意に寝返りを打ち始めた。
衣擦れの音とともに身じろぐ、ストッキングを纏った二本の脚。ただそれだけの挙動すらも、うぶな彼の神経を、色々な意味で逆なでする。
別にこれくらい、なんということはない。
ただ人間が、寝返りを打っただけだ。
綺麗な脚だな、とか、見えてしまいそうだ、とか、そんな下世話な妄想は欠片もない。
……。
ふと、何故だろう、それが目に付いた。
寝返りを打ってこちらに背を向けたことで露わになった、彼女のポニーテール。
普通、髪を結ったまま寝ることなどないだろう、横になるにはいささか邪魔ではないか。
余計なお世話かもしれない、と一瞬思ったが、あくまで一瞬である。
へたり込んでいた姿勢から、音を立てぬよう、四つん這いでベッドに這い寄る。
下心なんて微塵もない。
髪に癖が付いてしまうから、とか、必死で正当化策を模索している時点で信憑性は皆無だが、断じて親切心からの善意である。
そろり、彼女のポニーテールに接近する。
無意識な背徳心がそうさせるのか、どうせ見えもしないのに、壁を向く彼女の顔が視界に入らぬよう伏せてしまう。
髪は女性の命なのだ、出来る限りのケアをするのが男たる者の役目である。
下心なんて微塵もない。
頭皮を引っ張らぬよう、髪留めゴム直上の束髪を右手でそっと摘んで支える。
左手の人差し指をゴムに掛け、刺激を与えぬよう、
――ッ。
お肉が舌の上で溶ける、なんて冗談のようだと嗤っていた。
シャンプーのCMを見るたび、冗談のようだと嗤っていた。
これは冗談などではない。左手に掛けた人差し指、ほんのわずかに力を入れただけで、自ら抜け出さんと言わんばかりにゴムが滑り抜けた。
そうして、ゴムに伴ってしたたか暴れた毛先がふわりと宙を舞い、あの冗談のようなシャンプーのCMの再現を見ているような、しなやかでやわらかに、解かれた束髪が次々シーツに軟着陸していく。
……ああ。
ダメだ、ダメだこれは。
静かに、しかし機敏な所作で立ち上がった彼は、心の中で、もしかしたら現実でもそうしているかもしれない勢いで、この自身を狂わせる雑念を振り払わんと頭をブンブンブンブン全力で振る。
重労働の後の軽い脱水症状で錯乱しているのかもしれない、何か飲もう、冷蔵庫
「……ねぇ」
街灯の数も数えたこともないくせに、今日、十三回目の『ねぇ』が、彼の心臓を背後から鷲掴みにする。
起きて……、いた?
ヤバい。
何をしていたの、などと詰問されて、しまった、外したゴムが未だ手中に、ああ、まだ前科は持ちたくなかった、平々凡々な人生でいたかったのに、しかしこれも自己責任、覚悟を決めろ男。
ゆっくり、ゆっくり、おそる、おそる、彼女の方を振り返る。
この数時間で彼女の喜怒哀楽全てをこの目で見届けた彼である、鬼の形相を想定するのはさして難儀なことではない。
だが、その表情は、彼の想定とは違っていた。
眠っていたまま半目を開けたような、寝起きの、とろんとした双眸。
それでいて、酩酊が故に頬を朱に染め、まるで恥じらいでいるようにも錯覚させる、危うげな相貌。
憤怒を表しているわけではないようだ。
寝惚けている?
少しは酔いが醒めて、ここはどこ、だとか、水が飲みたい、だとか、
「……する?」
――。
一瞬、彼女が何を口にしたのか、理解できなかった。
主語を聞き逃してしまったか、と思った。
でも、彼女の綺麗なストッキングの脚が目に入るのと同時に理解が追い付いて、
「え」
漏れた悲鳴がそれだった。
だって。
だってである。
確かに彼女をそういう目で見ていたかもしれない、だがそれはそう、グラビアアイドルの写真集を眺めるようなもので、
居酒屋で聞かされた彼女の数々の“経験”だって、対岸の火事、異次元の世界、パラレルワールドの空想のようだと思っていた。
決して自分には縁がないと、無関係の話だと、思っていた。
違う。
彼女は当然、大人の女で。
彼だって、もう、大人の男である。
男と女が一室を共にすれば、できないことは何もない。
理解してしまった自分が呪わしい、自信過剰などではない、彼女のたった二文字の言葉は確信的だった。
正直、下半身が反応した。
本当に、そんな下心は微塵もなかったのだ。
そういった対象に見たことはなかったし、見ていたとして、部屋に連れ込むなどと大胆極まりない策に打って出られる彼ではない。
迂闊だった。
彼女がこちらを対象に取るなど夢にも思わなかった。
ヤバい。
今日一日掻いた分を優に凌駕しそうな量の脂汗が、背中中の汗腺からどっと溢れ出る。気がする。
本当に脱水症状を起こしてしまうのではないか、いっそ起きてしまえ、自暴自棄もやむを得ない、しかし一般人が失神をコントロールする術はない。
顔中からも汗が噴き出ている。気がする。
どうしよう。
……どうしよう?
とうに身体は成熟している。
本能的な欲求だって、ある。
据え膳食わぬはナントカ、なんてことわざもある。
男なら、
――でも。
酒で殺したどじょうも同然の据え膳を、か。
「あの、」
目線を合わせられない、下を向いてしまう。
「お気持ちはすごく、嬉しいです、でも、その、……そういうのは、勢いとかじゃ、なくて、」
緊張でどもってしまう自分が恥ずかしい、構っていられるか。
「お互いのこと、だから、その、僕は……」
もはや自分でも何を言っているのか、何を言いたいのかわからなくなって言葉に詰まる。
理屈はどうあれ、これは据え膳食わぬで、男の恥で、無論、彼女にも恥を掻かせる。
きっと怒っている、鬼の化身が、いやあるいは泣き出すか、犯人のレッテルがマンション中に、
ヤバい、
おそる、おそる、上目遣いで彼女の表情を窺う。
――全てを無に帰す、と言っても過言ではない、極めて安らかな寝顔がそこにあった。
こんなトドメって、ありか。
今度こそ完全に打ちのめされた彼は、無脊椎動物と見紛うなめらかさで床にひしゃげた。
もはや出る溜め息もない、悲鳴もない。
ああ。
僕が悪かった、半端に首を突っ込んだ僕が悪かった、だから、もう……。
急激に襲ってくる睡魔、そのまどろみの最中、汗まみれになった全身が不快感を訴えかけてくるのは辛うじて知覚できた。
シャワーを浴びたい。
だが、もし、彼女のここまでの言動が演技だとしたら。
彼がユニットバスに入った途端に覚醒して、こそ泥されたら。
いくら半分寝に帰るだけの部屋と言えども、そこに生活がある以上、価値はなくとも盗まれて困る物は山ほどある。
こんな夢うつつにあってすら出しゃばる疑心暗鬼を恨むべきか、判別すらももはや叶わない。
寝るな、寝たら同じだ、彼女はスパイだ、女スパイだ、美人スパイ、OLスパイ、酩酊、スパイ、美脚……スパイ……、スト……キン――
南側の窓、閉め切ったカーテンの隙間から漏れる陽光が、照明を付けたままの部屋、眠る彼女の目蓋を差した。
「……ん」
鋭く熱い日差しに次第に意識を引き起こされ、わずかな目ヤニで開きにくくなっている目蓋が、光を取り込まんと緩慢に瞳を露出させていく。
ぼんやりと、彼女の視界が白い天井で埋め尽くさせる。
見覚えのあるその天井に、一瞬、いつもの朝を錯覚してしまうが、次第に覚醒する意識が違和感を覚えさせ、非日常を認識させていく。
まず、見なくても肌触りでわかる、制服のまま就寝した事実。
有り得るわけがない、パジャマ好きな私が、部屋着ならまだしも制服のままだなんて。
次に、布団を被っていない。
就寝中の自身を客観的に裁定するのは難しい、確たる証拠は何もないが、寝相によって布団をどかしたことはあっても、布団の上に寝ていたことなど記憶する限り一度もない。
そして、頭が痛い。
……やってしまった。
半ば以上に覚醒した意識にあって、ハッキリもスッキリもしない頭、むしろズキズキする頭、久しい二日酔いだとわかる。
正直、あまり記憶がない。
ここが自室ではないことも、なんとなくわかる。
『誰かの部屋』というのはわかるが、『誰の部屋』かはわからない。
後悔はする、しかしやってしまったものは仕方がない。
その上記憶も曖昧とあってはどうしようもない。
失われた記憶を回収するのが最優先だった。
ズキズキと痛む頭を押さえながら、刺激しないようゆっくり上体を起こす。
この程度の姿勢変更でも参ってしまうほど呑んだのか、と昨晩の自分を恨んだ。
上体を起こしたことで視点が高くなり、ぼやける視界で部屋を見回す。
やはりどこか見覚えのある、しかし確実に自室でないことはわかる、こんなに散らかってはいないし、服なんて脱ぎ散らかして――
床に脱ぎ散らかされたいくつかの衣服の中、誰かどう見ても気付くであろう、異様に質量感のあるひしゃげた衣類があった。
もとい、いた。
彼の姿を目にした途端、彼が失われていた記憶の鍵であること、そして、失われていた記憶がみるみる蘇っていくのを感じ取った。
“彼”にフラれてヤケを起こして、彼と呑んで、呑んで、呑みまくって――。
どうやってここに運ばれてきたのかは定かではないが、ここは彼の部屋であると考えて間違いないだろう。
名前も知らない彼である、彼女の住所など知る由もない。
ぶっ倒れた私に困り果てて、やむなく連れ帰ってくれたのだと思う。
感謝とともに、罪悪感で胸が苦しい、二日酔いのせいかもしれないが。
その彼は、今は――眠っている。
そんな気は毛頭ないが、このまま逃げてしまうこともできなくもなかった。
だが、寝ている間にどんな個人情報を押さえられたかわかったものではなく、逃げおおせるとは思わない方がいい。
それ以前に、これほどまでに壊滅的な迷惑を掛けておいて逃げるなど、社会人如何ではなく人間失格である。
ひとまず脚を床に下ろし、ベッドに腰掛ける。
彼を起こさなくてはならないのだが、シャワーも浴びていない、恐らくメイクも悲惨だろう、そういう意味では逃げ出したかったが、そうは問屋が卸さない。
――なんとなく、自分が眠っていたベッドを見やる。
男性のベッドで寝たことは少なくないが、当然ながら、このベッドは初めてである。
……そう、男性。
今更になって、着衣に乱れがないこと、身体に違和感がないことを確認する。
男性のベッドで寝るということは、イコールで、そういうことだった。
今までは。
別に、目の前の彼を男として見られなかったとか、そういう話ではない。
ただ、彼はそういう人ではない、酔った女を食ってしまうような、そんな男ではないと、おぼろげな記憶の中の彼の印象だった。
だから、自分の身の“無事”を確認する必要性に駆られなかったのかもしれない。
改めて、彼を見る。
脱ぎ散らかされた衣類と同化するように、床にゴロリ、小さく丸まっている。
まるで彼の方が酔っ払いみたい、と不謹慎だが愉快に思う。
……起こさなくては。
雑貨や衣類の散らかる床を、音を立てぬよう、四つん這いで彼の元へ這い寄る。
どう起こしたものか、わずかに逡巡して、彼が枕にしている伸びきった右腕、その先の裾を、クイクイと引っ張る。
「……ん」
寝心地の悪い床で眠りが浅かったのか、彼の反応は思いの外早かった。
少し身じろいだ後、彼の目蓋がゆっくり、半分ほど開いたところで、
瞬く間に全開になった目蓋、文字通り飛び起きた彼が、ちょこんと正座する彼女を寝惚けた頭で視認して、
「あ、」
彼自身、驚いた。
へべれけの彼女相手ならそれほどでもなかったのに、シラフの女性が目前にいると意識しただけで、フッ、と息が詰まる。
しかし、彼女も彼女で彼が飛び起きたことに驚いて、目を見開いて彼を凝視してしまっている。
驚かしたら予想以上に驚かれて逆に驚かされた、そんな妙によって置かれたわずかな沈黙の後、
「あの、」
彼女が口を開く。
「……おはよう、ござい、ます」
照れながら、おっかなびっくり、そう言った。
え、え?
「え、あ、……ます」
緊張は自覚している、仕方ない、だがこれくらいは日頃挨拶を心がけている者なら意識せずとも出てくる言葉である、今なら教師連中の口酸っぱい説教が正しかったと信じてもいい。
いや、というかこの状況で朝のご挨拶って、もしかしたら彼女にとってはこれがないと一日が始まらないとか、寝惚けて僕を元彼と勘違いしているとか、
「……えー、っと」
わずか俯いた彼女が、ポリポリ、照れ隠しが如く頬を掻く。
常に自己責任がついて回るとは言え、寝起きにOL、これは辛い、息が詰まって何も喋れる気がしない。
幸いにも彼女が何か言いそうなのが唯一の救い――
「ごめんなさいっ」
ちょこん正座の彼女の上体が、斜め四十五度、美しい所作で折られる。
……って!
「いや、あの、あ、上げてくださいっ」
あんまり焦って『頭を』を入れられなかった。
ゆっくり上体を起こした彼女は、初めは彼の目を見据えていたが、すぐにまた、申し訳なさそうに目線を伏せてしまう。
「……ホント言うと、あんまり、覚えてないんですけど……」
へべれけ完全体と目前の女性を比較して、その豹変ぶりを鑑みれば、記憶を失してしまうのも無理はないと頷けた。
何か返さなきゃ、と彼は思うがやはり適切な言葉が思い付かず、彼にとっての居たたまれない沈黙が続く。
「あっ」
彼女が、何か思い出したのか、目を大きく見開いた。
「あの、私、」
もじもじ、
「……喋っちゃい、ました?」
これは難しい質問だ、と思った。
「え、……っと、まぁ」
適当に濁しておけばいいかなと思ったが、
「……どこまで?」
知らぬが仏、とは良く言ったものだが、訊かれた以上は答えねばならない。
「え、その、……根掘り、葉掘り?」
彼の答えを受けた彼女は、酔いとは異なる頬の赤らみを一瞬見せた後、はぁ~と深い溜め息をついて頭を垂らす。
「すみません……」
両手で顔を覆ってしまい、小声でそう呟いた。落ち込んでいるらしい。
確かに女性として致命的な卑語を公然で撒き散らしたし、自らの性的な嗜好をも赤裸々に語った、もはや彼を口封じでもしない限り彼女の“淫行”は取り消せない。
「あの。気に……しないで、ください」
彼の言葉が彼女の顔面を覆う両手を剥がす。現れたのは、メイクの崩れてしょげ込んだ顔だったが。
「誰でも、辛い時は、ある、と思うので」
『ありますから』とビシッと締めたかったが怖じ気付いた。彼女の目を見て話せないのも、格好悪い。
「助かります。そう言って、いただけると」
伏せていた目線を上げ、彼女の顔をチラと伺う、幾分か柔和な表情になった気がした。
「あっ」
彼女がまた、何か思い出したように言って、
「ごめんなさい、お金、」
言いながら、部屋中を見回して自分のバッグを見つけ、四つん這いから手を伸ばしてバッグを引き寄せる。
いきなり四つん這いになられて彼は再び息を呑む。叶うことなら予告して欲しかった、目のやり場が、
彼の前に居直った彼女は、バッグからどこぞのブランド物と思しき財布を取り出した。
「居酒屋の分、立て替えてくださったんですよね?」
あれほど酩酊しながら、そういう記憶が確かなところは好感だった。
「あ。ええ、まぁ」
ここで格好良く『いえ、結構ですよ』などと見栄を張りたいところだったが、本気で財政難のため口が裂けても言えない。
「あの、当たり前ですけど私、全部払いますから、ごめんなさい、おいくらでした? あ、遠慮しないでください、私が悪いんですから」
金銭関係は几帳面なのか、借りを残すのを嫌うのか、いきなりグイグイ来た。
金融関係の仕事?とわずかに模索を巡らすが、詮ないことか。
「……いいん、ですか?」
内心『待ってました―!』だが、表面上は取り繕う。
「はいっ」
彼女は努めて快活に返答した。
彼の中での彼女は号泣と酩酊の側面しかなかったが、言わずもがな、今目の前にいる彼女こそが、彼女を構成する“素”なのである。
緊張は未だに凄い。凄いが、彼女という、本来であれば全く接点のなかった一般女性と自宅で会話しているこの現状に、少しそぞろな彼がいる。
「じゃあ……、すいません、9000円、で」
個人の店でもさすがにレジスターはあって、レシートくらいは出たはずなのだが、その辺りはあまり覚えていない、当時はとにかく精算して退散することで頭がいっぱいだった。
本当は8870円だったのだが、端数ままで伝えて細かい男と思われるのを嫌った。のだが、
「細かいのがないので、これで」
諭吉を一枚渡された。彼がおつりを払おうとするのを予測していたのだろう、
「大丈夫です、その、迷惑料込みで」
好意なら受け取ってもいいだろうと思い、「すいません」と諭吉を両手で受け取る。財布すらズボンのポケットに入れたまま寝てしまったので、その場で財布にしまう。
助かった。色々と思うところはあったが、金の問題が一番の懸念材料だった。
銀行から引き出しさえすれば手持ちはどうにでもなるが、無収入の学生にとって万単位の前後は大きい。
もし今回の分が回収できなかったら、きっと彼の性格ではしばしば悩み、気になって仕方がなかっただろう。
助かった。
本当に助かった。
――そうして、二人の間に再び、沈黙が訪れて。
彼は、ふと、気付くものがあった。
最大の懸念が解消されて、スッキリしているはずが、この、もやもやした気持ち。
散々迷惑は掛けられたし、疲れたし、十二分に引っ掻き回されたはずで、
でも、彼女の謝罪の誠意はストレートに伝わってきたし、査定額はさておき、迷惑料という名目で黒字も出た。
人助けをしたという自己満足も鑑みれば、ちょっとばかり強烈な落雷に当たったと考えて納得できなくもない。
ひとまず、思い残すことはもう、何もないはずで、
この、厄介事の塊との関係も、もう、
――もう。
なにも、ない?
金で解決した、謝罪した、示談成立。
もう、加害者と被害者の関係は、解消された。
最大かつ唯一の接点であった貸借関係の決着によって。
それで、いいはずなのに。
目の前にいる、台風の目であるところの彼女と、無関係になってしまうことを思うと。
赤の他人になってしまうことを思うと。
互い、大衆の一部に掻き消えてしまうことを思うと。
今ならハッキリとわかる、この、胸のざらつきが。
……でも、仕方がない、元々赤の他人で、無関係なのだから。
台風は、いずれ温帯低気圧と化して、消えてしまうのだから。
だから――
「あの」
頭の中でぐるぐる渦巻くものに意識を奪われていた彼を、彼女の問いかけが叩き起こした。
「もし、良かったら、なんですけど」
照れ隠しか、手を口元に寄せながら、
「お食事、ご馳走させて、もらえませんか」
ビックリするくらい、腹の底が熱くなったのがわかる。
まさか。
思ってもみない誘いだった。
いや、待て、落ち着け、
「あ、でも、居酒屋の分、ご馳走に、なりましたし」
がっついたらみっともない。一応、遠慮と見栄を込めてそう返す。
「あれじゃあ、ご馳走したなんて言えませんから。ほとんど私のビール代ですし」
照れ笑いの彼女。
「……いいん、ですか?」
再度用いたその言葉は、彼女への問いかけとともに、自分自身への問いかけでもある。
いいのか。
厄介事の塊だぞ。
突っ込んだ首はもう抜けているのに、また突っ込むのか。
自問自答する。
「もちろんです」
気持ちに、嘘はつけない。
「……じゃあ、お言葉に、甘えて……」
彼女は微笑みながら、
「はいっ」
頷いた。
……ああ。
ダメだ、これはダメだ。
この人は、へべれけでもシラフでも――
「あっ」
もはや何度目か、彼女はまた思い出したように、
「すいません。ちょっと、確かめたいことがあるんですけど」
……確かめたいこと?
まぁ、彼女にとっては確認したいことが山積しているのだろう。
「カーテン、開けていいですか」
暗いから、というのは照明が点灯しているから違うし、空気が悪いから、というなら窓を開けるだろうし、そもそもそれは確認行為ではない。
彼が了承すると、彼女はたおやかに立ち上がり、申し訳程度に床の衣類を避けながらカーテンに接近、レースごと掴んだカーテンを、景色が覗ける程度に小さく開ける。
そうして数秒間、たまに顔を動かして、広く景色を観望する彼女の後ろ姿を眺めながら、スカートのシワはクリーニングだなぁとか、結構髪長いんだなぁとか、
「すいません」
びくっ、
「ここ、何階ですか」
別に見抜かれたと思ってビクついたわけでは決して、
向こうを向いたまま彼女が訊ねる。
「よ、四階です、けど」
彼女からの返答はなかった。にわかに顔を俯かせて、考え事でもしているのだろうか、景色を見ているようではなかった。
「すいません。ちょっと、廊下見てきていいですか」
許可を求めるほどのことでもないのだろうが、連れ込まれた身とはいえ他人の部屋、気を遣っているのだろう。
了承すると、彼女はまた申し訳程度に衣類を避けながら部屋を縦断し、台所とユニットバスに挟まれた廊下を抜け、玄関のドアを解錠した。
…あれ。
逃げる?
……いや、バッグと携帯電話を置いて?
取り越し苦労か。
恐る恐るゆっくりとドアを開けた彼女は、隙間から顔を出し、キョロキョロと外を窺っているようだった。
「あの、すぐ戻りますっ」
彼女は慣れた足つきでハイヒールをサッと履き、ドアを開けて廊下を“左に”向かった。
逃げた?
逃げるなら、エレベーターや階段のある右方向に向かうだろう。
パタリ、玄関が閉まってから待つこと、十数秒。
ガチャリ、ドアノブを下げる音が聞こえ、キィィと弱々しくドアが開かれる。
入室する彼女を外光が逆光で照らし出し、やがて、ドアクローザによって玄関が自ずと閉められた。
彼女は、土間に凛々しく佇立したまま、心なしか顔が引きつっているように見えなくもない。
……なんだ?
「えー、っと」
ポリポリ、頬を掻いている。
彼は、床にくずおれたまま、彼女の言葉をただ待った。
「――初めまして。隣の、田折です」
小さな会釈に乗せて、彼女はそう言った。
……いいや、今回は主語も述語も欠けていない。
聞き違いようがないし、勘違いのしようもない。
とどのつまり、文言通り、そういうことらしい。
「……え、え、ええええ、」
間抜けな悲鳴しか出ない。
そんな、バカな。
現住所に転居してきた時、西側の隣室にはすでに入居者がいた。
だが、彼の性格上、いわゆる『引っ越しの挨拶』なんて古臭い慣例だと切って捨てた。
近所付き合いも無論なく、越してきてから今日までの数ヶ月、西側の隣人とは一度も顔を合わせることはなかった。
……まさか。
会釈から顔を上げた彼女の、なんと気まずそうな表情が印象的で。
「あの、すいません、バッグ取ってもらえますか」
顔を引きつらせたままの彼女に乞われ、バッグを手に取り玄関にいる彼女に手渡す。
「すいません」とバッグを受け取った彼女はまたブランド物の財布を取り出し、たっぷり入ったクレジットカードやポイントカードやレシートの中から、運転免許証を取り出して、彼に差し出した。
律儀に両手で受け取った彼は、その運転免許証をまじまじと見る。
さすがの彼も隣室の『田折』という名字は珍しくて覚えていたし、住所は間違いなくこのマンションである。
加えて、本人の証言も取れたとあらば。
「……マ、ジですか」
彼まで顔が引きつっている。
「……みたい、です」
彼女も依然、引きつっている。
少しの間を開けて、
「ど……、どうも」
逆再生が如く、免許証を差し出し返す。
受け取った彼女がそれを財布に戻し、財布をバッグに戻し、
そうしてまた、互いに顔を俯かせ、沈黙が訪れる。
しかしそれは、先刻の沈痛なものとは異なる、どこか珍妙で、可笑しくて、
「――プ」
吹き出したのは、彼の方だった。
口を押さえて、顔を逸らし、溢れる笑い声を懸命に堪える。
あまりにも唐突で、度肝を抜かれる珍事ばかりの連続で、緊張の糸が切れたというか、もう、笑うしかなかった。
ああ、これでもう変人扱いだな、ドン引きされたな、と思ったが、
釣られて彼女もクスクス笑い出す。彼に調子を合わせているのかは計り知れぬが、綺麗な笑顔だな、と彼は思った。
「す、すいません。ちょっと、驚いちゃって」
互いに笑い合った直後だけあって、彼の緊張もいくらか緩んでいた。
「あるんですね、こういうこと」
少しおどけて言う彼女。
本当、ドラマか演劇の世界かと突っ込みたくなる。
今にして思えば、一番最初、彼女があんな所で泣き崩れていたのは、単に帰宅途中だったということ。
世の中は狭いものだ、とはまさにこのことだと彼は大いに得心した。
「――えと、それで、」
落ち着いてきた頃合いで、彼女が開口する。
「お食事の件、なんですけど」
ああ、少々忘れかけていた。
事なかれの主義の彼にとってはもはや気絶してもおかしくないレベルの怒濤を味わった、ある程度の間抜けは許されよう。
彼女はおもむろに、左腕の腕時計を見やって、
「お昼なんて、どうですか」
えっ……、今日?
今日は土曜だが、翌週の土日辺りを想定していた、随分と早い。
だがここに来て、思い出さなければ良かったと、忘れてしまったとごまかしの利きそうな、しかし歴とした口約束を思い出してしまった。
「あー……、すいません、お昼は、ちょっと」
やむを得ない、気に病むなと自身に投げかけるが、貴重な女性からの誘いをはねている事実に変わりはない。
「そう、ですか」
表情は変わっていないが、かすかに声のトーンが落ちたのが聞き取れる。
「じゃあ、また今度、お暇な時にでも」
そう来るだろう、とは思っていた。
だが、彼は紛れもない、小心者である。このままうやむやになって、“今度”なんてなくなってしまうのではないか、と。
思ってしまったら、もう、取り消すことなんてできない。
「あの」
無意識に溜めてしまう、思考は複雑だった。
「夜なら、大丈夫です、けど」
言ってしまってから気付く、女性にそう軽々とディナーを提案していいものか、いくら彼女が別れたばかりとはいえ“一股”とは限らない、女性の夜はドラマチックでロマンチックで、重いのだ。
「あっ、」
彼女の目がより大きく見開かれたように見え、パッ、と明るくなった。
「でしたら、はい、夜に」
酩酊していた時とも、先ほどのクスクスとも違う、彼女の微笑みが寝起きの彼の脳みそに刺さる。
彼女だって寝起きで、メイクも崩れているはずなのに、それはあまりにも眩しかった。
携帯電話の赤外線機能で、互いの連絡先を交換し合う。
少なくとも高校以降の数年間、女友達などいなかった彼にとって、親類以外の女性の連絡先を知り得たのはこれが人生初であった。
彼女は今日は特に予定がないとのことで、彼の方から用事が終わり次第連絡することとなった。
「――それじゃあ、また」
彼女が小さく会釈をし、彼も小さく返す。
振り返って玄関のドアを開け、一旦廊下に出た彼女はまた振り返って小さく会釈、静かにドアを閉めた。
――ああ。
長かった。
寝ても覚めても出来事ばかりで、彼の処理能力はパンク寸前、もはや思考が何もまとまらない。
とりあえず、もう一眠り――
「あ」
言おうと思っていたのに、忘れていた。
靴下のまま土間を踏み、玄関を開けて廊下に一歩出る。
顔を出して西に向けると、彼女は自室の玄関の鍵を開けている最中で、それで全てが事実であることを物語っていた。
今さっき離別したばかりの彼が飛び出してきて驚いたのか、また大きく目を見開いていた。
「あの、」
大したことでもないのに妙な焦燥に駆られて飛び出して、自分の思慮のなさに辟易するが、引っ込むわけにもいかなかった。
「すいません、引っ越しの挨拶、サボっちゃって」
何がサボっちゃってだ、ああやっぱり出てこなきゃ良かった、こんなどうでもいいこと、と後悔の渦巻きに苛まれるが、彼女は優しく微笑んで、
「うん」
それだけ言い、また小さく会釈して、自室に入っていった。
今度こそ、変人だと思われたかもしれない。
――でも。
彼女の笑顔は、やっぱり綺麗だった。
そして彼は、死んだように二度寝した。
昼まで寝ていた彼は、身支度を調えて家を発った。
隣室が気になってチラと視線を向けてしまうが、意味のないことだった。
駅までの道のりはもう何度も往復しているのに、この慣れ親しんだ道で、昨晩あんなことが起きたことを思うと、非日常はごく身近にあるものだと実感した。
Suicaをタッチして彼が向かったのは、一つ隣の駅。
電車に揺られ、駅を出て数十分、住宅街の中に目的地はあった。
彼の住むマンションと比べて一段ほど格調低いものの、決してボロではないバブル時代のマンション。
同じくセキュリティのないロビーを抜け、二階のとある部屋の呼び鈴を鳴らす。間もなく若い男が出てきた。
「うい」
彼は同じ学科の『鳥嶋』。先生やクラスメイトからは主に『とりとり』あるいは『しましま』と呼ばれている。
若干やせ気味で端正な顔をしているが、休日は髭も剃らず、もっぱらジャージ姿で家に引きこもっているという。
同じく「うい」と返して上がった鳥嶋の部屋は、彼の部屋と比べると若干手狭だが、寝るだけに帰るような部屋だからと口を揃える。
部屋は男の独り暮らし然とやはり散らかっていたが、部屋の中央にある小振りなテーブルと座布団だけの周囲だけは軽く片付けられていた。
そこに座した彼は、リュックサックから持参したノートバッグを取り出してテーブルの上でセッティングを始める。
「醤油でいいか」
鳥嶋が流し台下の食品棚を漁りながら彼に訊ねる。
「んー、いや、シーフード」
鳥嶋の方を向かず、パソコンの起動時パスワードを入力しながら彼が答える。
「えー、ラスイチなんだけど」
鳥嶋が不機嫌に返すと、
「わかったわかった、醤油でいいよ」
彼は渋々了承した。
彼が電車代を負担して訪問する代わりに、鳥嶋が昼食をご馳走するルールになっている。
男の無精なやもめ暮らし、料理は可否にかかわらず面倒として嫌がり、常にストックのカップ麺である。
出来上がったカップ麺醤油味を啜りながら彼は、もしかしたらこの昼食が女性とのランチになっていた可能性を思い、むしろ彼女との約束を思い出して意味もなく緊張した。
食後、彼はテーブルで、鳥嶋はPCデスクにオフィスチェアで、黙々とパソコンのキーボードを叩いている。
学科を共にする二人は、提出された課題をこなすため、時折こうして“合宿”を開いていた。
個々人の得意とする分野は多岐に渡るが、学科という一単位の共同体である以上、個別の課題を用意するわけにもいかない。
彼はプログラミングを得意とし、鳥嶋はデータベースを得意とし、互いに欠点を埋め合い円滑に課題を進めようというのがこの合宿の意図である。
故に、たまに不明点を教授する以外にこれといった会話もなく、ジュースもらうね、とか、トイレ借りるね、といった彼の声ばかりであった。
そんな状況がしばらく続いて、夕刻が迫ってきた頃。
こんなことを訊いても仕方がない、それはわかっている。
わかっていても、このそぞろな気持ちは抑えられないし、同い年の同性であることが敷居を下げた。
「あのさ」
何の気ない風を装って声をかける。
「ん」
鳥嶋は依然、パソコンに向かったまま。
「シマって、……女の人と、食事したこと、ある?」
一瞬詰まってしまったことに他意を感付かれないことを祈る。
「あるよ」
なにー!と彼は内心叫ぶ。
「いとこの姉ちゃんとマック食った」
なにー…。
「なに、お姉さんと食事する予定でもあんの」
いかにも意地悪そうな声で訊いてくる鳥嶋が、ようやく彼に振り返る。
「い、いや、そんなわけないでしょ」
わたわた取り繕う彼に鳥嶋は「ふーん」と半信半疑の様子だった。
「で?」と促され、彼は躊躇いながらも口を開く。
「シマは、女の人と話してても、今みたいに普通に会話できる?」
なんて女々しいことを訊いているんだと思うが、大事なことだ。
「できるよ、別に」
しれっと返す鳥嶋の態度を見て、見栄や冗談ではないと思った。
彼の訊かんとすることを悟ったのか、鳥嶋の方から語り出した。
「女だって人間だし、見えないトコじゃ結構男みたいな生活してるもんだぞ。神格化したって男にメリットなんかないさ」
チェアの背もたれに顎を乗せ、衒わずそう語る鳥嶋が、今日ばかりは物凄く頼れる存在に見えた。
だからだろう、あまり訊くべきではないと、交流が始まって以来なんとなく避けていた質問を投げてしまったのは。
「シマってさ、」
やはり一旦躊躇うが、鳥嶋の「おう」とぞんざいな応答が、何をどうしてか自信から溢れる余裕に見えて、彼の好奇心に拍車を掛ける。
「彼女、いるの」
訊いてしまった。
この分野に携わる以上、禁忌にも似たこの質問を、訊いてしまった。
「いる部屋に見える?」
見慣れた部屋を改めて見回して、人のことも言えないのだが、その散らかりようには痛く納得させられた。
鳥嶋宅を出た彼は、地元の駅前に戻っていた。
たった一駅間の電車内で、彼は必死に懊悩していた。
さて、これからどうしたものかと。
答えは何も出なかった。というか、何も考えられなかった。
ただ、一つだけ思い付いたことはあった。
彼女には用事が済み次第連絡すると伝えていたが、帰宅してから連絡すると彼女の支度を急かしてしまうのではないかという懸念。
今の内に連絡しておけば、彼が帰宅する間に彼女の支度が調うだろうと思い立った。
男の支度など高が知れているし、この配慮はナイスだ、と我ながら名案を褒める。
夕刻の駅前広場の喧噪を避けるように静かな路地に入り、ポケットから携帯電話を取り出す。
少ない電話帳の中から、登録したばかりの彼女の電話番号を選ぶ。
……別に、何も構えることはないのだ。
送話ボタンを押す。
耳に当て、数回のダイヤル音の後、
『もしもし』
彼女の声を聞いた途端、虚勢が一気に霧散した。
「えと、すいません、突然お電話して。今、大丈夫ですか」
相手の姿が見えなければまだ緊張は薄い。『はい、大丈夫です』との返事に応じて話を続ける。
「用事の方なんですけど、終わりました。ので、えっと、ご連絡します」
もっと格好の付いた喋り方はできないのかと自分が嫌になる。『わざわざすいません』と彼女の労いが温かい。
「今、どちらですか」
彼女に問われる。「駅前です」と素直に伝えると、
「あっ、じゃあ、今からそちらに向かいますので、お待ちいただいてもよろしいですか」
そんな提案は電車の中では想定していなかった。ノートパソコンの入った重たいリュックを置いてから動きたかったが、せっかくの提案を反故にするのは気が引ける。
それに、自宅から店まで彼女と同伴する様を想像して気が重かったのも事実。
駅の改札前で落ち合うことを約束して、駅前近くの本屋で時間を潰すことにした。
結局、待ち合わせ時間が気になって立ち読みしたコンピュータ雑誌はほとんど頭に入らなかったのだが。
待ち合わせ場所に戻ると、彼女の姿はまだなく、携帯電話をいじくったりして暇を持て余している内に彼女は姿を現した。
さすがにOLの制服姿ではなかった。
スタイルの良い彼女にスキニージーンズは似合っていたし、レースのポンチョがかわいらしい。
髪型もポニーテールではなく、毛先にカールのかかったセミロングだった。
女性は、化粧に始まり、ヘアスタイル、ファッション、その一つ取っても印象を大きく変えることができる。
OL姿も今の彼女も魅力的だし、変貌した彼女の様を見て、彼は何故だか“楽しい”と思った。
「すいません、お待たせしました」
小さく会釈する彼女。
彼女の容姿と自身を見比べて、もっと粧し込めば良かったと一瞬後悔するが、粧し込む術も材料もなかった。
「あの、今更なんですけど、何か苦手な食べ物、ありますか」
ないことはないが、死んでも食べられないような物はないし、やはり好き嫌いのない男らしさを見せたい。
「良かった。じゃあ、ぜひお連れしたいお店があるんですけど、よろしいですか」
そういえば、ご馳走してもらう、という約束を交わしただけで詳細を全く詰めていなかった。あの状況ではそれも致し方なかろう。
ごく普通のOL、といった印象の彼女はきっとランチは毎日外食で、飲食店に明るそうだし、全て任せるのが最善と見た。
彼女の案内に従いながら、二人は並んで歩き出した。
わざわざ駅前での合流を要求してきたということは電車移動ありかと思ったが、駅に近いというだけで、歩いて行ける距離のようだ。
見慣れた駅前の喧噪の中を、若い女性と、歩く。
普段なら気にも留まらない自分の足音も、そこにローヒールの踵を打ち鳴らす音が伴うと、異様に気持ちがぞわぞわする。
これが、たまたま歩く速度が同じになって隣り合ってしまった赤の他人であったりすれば何ということはないのだが、今隣にいる女性は、相違なく彼と随伴している。
千鳥足を引っ張られたり、負ぶられたりした彼女が、凛とした姿で、自らの意思で、力で、歩いている。
極めて普通なことのはずなのに、初めて彼女を目にした時の弱々しさがあまりに印象に残るもので、このギャップには驚かされる、というか……。
やはり、昨晩の彼女は別人と思ったままでいた方がいいのかもしれない。
「あの」
終始無言に終わるとは思っていなかったが、彼の性格上、話題提起など難易度が高すぎて、案の定、彼女が先に口火を切った。
「この辺、お詳しいんですか」
これから食事をしようというのに、互いのことはほぼ何も知らないに等しい。無難な会話が続くだろう。
「いえ、あまり詳しくは。駅と自宅を、往復するくらいで」
そうなんですか、と彼女の柔和な返答で、
……会話が、止まってしまう。
「え、と、お詳しそう、ですね」
姑息に振り返すことには成功した。
「いえ、私もあまり出歩かない方で。でも、この辺って結構“隠れた名店”が多いから、探すの楽しくなっちゃうんですよね」
彼が細切れに終わってしまったのと対照的に、彼女の口ぶりは流暢だった。当たり前のことかもしれないが、個人の人となりを知るにあたっては重要だ。
その後もどうにか苦し紛れ、彼女の流暢に助けられながら、やがて目的の店に到着した。
女性が紹介する店、というものに過度の期待と緊張を膨らませてしまったが、男でも入りやすい、ヨーロッパ調のパスタ料理の店だった。
確かにこの辺りは駅前の喧噪からも離れ、人通りも少ない。“隠れた名店”とはこういったものを指すのだろう。
パスタなどスパゲティミートソースか冷凍食品のカルボナーラくらいしか食べたことがない。そういう意味では、実に女性的な選択だと思う。
初めての慣れない洒落た店はおっかなかったが、少しくらいは男を見せたい、率先して入口のドアを開け、辿々しい挙動でレディファーストを決め込む。
店内は波塗りされた漆喰の白壁で、木目の調度も多用され、まさにヨーロッパ然としたレトロな装いだ。
ウェイトレスに案内された木の丸テーブルに、対面で着席する。
二人分置かれたメニューを取って、パラパラと眺める。
学生が気軽に頼める低価格ファミレスには敵わないが、パスタの単品料理程度であれば、彼の財政事情でもたまの贅沢感覚で頂ける値段だった。
ただ、これにサラダやドリンク、デザートが付属する『セットメニュー』ともなると、学生の財布には荷が重い。
「あの、遠慮しないでくださいね。お詫び、なんですから」
苦笑いを返しておく。遠慮しすぎると逆に気を悪くしてしまうかもしれない、が、単品を越える物はこのセットメニューしかなく、自分が彼女の立場だったらこれを頼むのは遠慮願いたい。
無難に謙虚な姿勢で挑もう。単品を注文して遠慮を疑われたり、彼女がセットメニューを頼んだりしたらその場で変更すればいい。
そんな器用な臨機応変を実行できるのかは定かではないが。
互いに注文が決まったところで、再度男を見せようとウェイトレスを呼びつけようとする彼だったが、彼女の視線上ですでにウェイトレスが待機していたらしく、彼女のわずかな動きを察知して瞬く間に飛んできた。悔しい。
どうぞどうぞ、と彼女に先に注文させ、彼女は単品パスタを注文、彼もすかさず単品を注文した。
メニューを下げられ、ウェイトレスも下がり、改めて、対面の二人となる。
……ああ。
これは、辛い。
彼女と対面になることは何度かあった。でも、今の彼女はへべれけでもなければ寝起きの崩れメイクでもない、素の、標準装備の彼女だ。
歩きながらであればまだ隣り合うだけで、視線上にいるわけではないのに。
「改めて――」
彼女は居住まいを直して、
「本当に、ごめんなさい」
会釈よりもやや深く、彼女は上体を傾けた。
彼の中ではすでに一度、寝起きの際に決着していて、全くと言ったら嘘になるが、もはや今回の事件に気を負ってはいなかった。
しかし、この食事会がお詫びの形を成している以上、彼女はそれを律儀に履行したのだろう。
彼としても、まさかここまで厚い待遇を賜れるとは思ってもみなかった。
事件の内容が内容だっただけに、彼女の方が思いの外、気に病んでいるのかもしれない。
「い、いえ、もう全然、気にしてませんから」
顔を振ったか手を振ったか、謙虚な姿勢で答える。
「こうして、その、お食事に誘っていただいただけでも、もったいない、くらいです」
言葉は稚拙かもしれない。でも、どんな形であれ、伝えなくてはならないこと、あると思う。
「そう言っていただけると、……本当、嬉しいです」
彼女は少し照れながら、そう微笑む。
もったいない。その笑顔は、もったいない。
「……ちょっと、お伺いしたかったんですけど……」
なんでしょう。
「その。我ながら、大層なことをやらかしたなーと、思ってるんですけど。こう、もっと、怒られる……と言ったら失礼ですけど、こんなに親切にしていただけるなんて、思わなくて」
彼女も慎重に言葉を選んでいるのがわかる、選ばれているのは嬉しい。伝えようとすることも、なんとなくわかる。
……だからなおさら、本音なんて言えない、言えるわけがない。
鼻の下を伸ばしきって寝姿を眺め倒したことの罪滅ぼし、なんて。
「えと、そう、ですね。大層なこと……だったかも、しれません、けど、やっぱり、辛い時は、誰にでも、ありますから。辛い時に怒られるのは、辛いです」
何を臭いことを言っているのか、自分を殴りたい。
「お優しい方、なんですね」
――えっ。
否、濁点を付けよう。
え゛っ。
「いえ、あの、そんな、」
落ち着きかけていたのに一瞬で真っ白になった、まさかそんなことを言われるとは、
「謙遜なんて、もったいないですよ」
事実はどうあれ、彼女の言葉がお世辞だろうが本音だろうが、そんなことは関係ない、女性にそう評されるのは初めてで、いきなりそんなことを言われたら、ああ、
落ち着け、
「……ありがとうございます」
若干早口気味に、照れ隠しのつもりで。
顔が赤くなっていないか心配だ、トイレで確認してこようか、いやこういった場で男はトイレには行かな――くはないか。
その後も苦し紛れの会話がいくつか並んで、そうしている内、注文していたパスタが彼らのテーブルに届けられた。
彼女はシーフードパスタ、彼はたらこスパゲティ。
食事の準備が整ってもなお、彼は当然のようにレディファーストを決め込むが、
「あっ、どうぞお先に」
彼女に促されて一度は遠慮したが、客人歓迎、の旨で咎められて素直に頂くことにした。
別にフォークでパスタを巻くのが苦手というわけではないが、見られていることへの意識、専門店という重圧が、気を抜くと本気で震えてしまうのではないかと思わせる。
一つ巻き取って、口にした。
「どう、ですか」
わずかに身を乗り出して、ズイ、と訊いてくる彼女は案内人として重責を感じているのだろう。
カップ麺や冷凍食品、出来合いの総菜ばかりで腹を満たしている彼は決してグルメではないが、専門店補整も相まって、
「おいしいです」
良かった、と彼女はまた微笑んだ。
彼女もフォークを取り、互いに食事を始める。
このテの店に造詣の深そうな彼女だけあって、スプーンを用いたフォーク裁きはさすがに上品だった。
食事中は会話すべきか迷ったが、“提起担当”の彼女が静かに食事を続けるので彼もそれに倣った。
食後、サービスのホットコーヒーを飲みながら、二人はまたいくつか会話をしていた。
「あの、お仕事は、何をされてるんですか」
……ん?
ああ、そうか。
彼女は、彼を社会人だと思い込んでいるらしい。
だが、質問を綺麗そのまま受け取れば、この返答だっておかしくはない、立派な職業だ。
「専門学生です」
――。
彼女の動きが、明らかに止まった。ピタリと、パントマイムのそれと見紛うほどに。
「え、……っと」
この引きつった顔は、隣人だと発覚した時以来に見る。
「そ、そうなんですか」
ハハハ、と後ろに付けても違和感ない、引きつった笑みが目立つ。
彼女としては、一度会社員を経験した後、スキルアップのために学問に進んだものと考えた。思い込んだ。逃避した。
そうでなければ、彼は――
「あの」
彼女は、いつになく真剣なまなざしで、彼を見つめる。
「失礼ですけど、……おいくつ、なんですか」
いや、まさかこんなに睨まれるような話とは思わなかった、怖い、これも素直に答えるべきか。
「19です」
一瞬、ほんの三秒ほど、世界は時間が止まって、
「えぇぇぇぇっ!?」
うわっ、
閑静な飲食店では絶対に出さないような悲鳴が上がる。
彼女はテーブルに手を衝いて、無意識に中腰になっていた。
数少ない店内の客の視線が一斉に彼女に集まり、
「あっ、」
気付いた彼女は頬を真っ赤にして、しゅんと小さく座り込んだ。
「すみません……」
まるで小動物のよう。
突然のことに何と言っていいかわからず、状況を傍観していると、恥ずかしさに目を伏せていた彼女が上目遣いで彼の目を見た。
「あの、もしかして、」
溜め。
「――私より、年下、なんですか、」
まだ続きそうな気配を察知、
「あっ、私、24なんですけど」
そんなに驚かれることだったのだろうか。
彼女が彼を社会人だと思い込んでいることは把握していたが、『うっそー見えなーい』程度に落ち着くものと予想していた。
なんだろう、彼女にとって年下の男にはコンプレックスがあって、いつの間にやらプライドを傷付けていたのだろうか。
その事実に相違ないことを伝えると、彼女はまた上目遣いを伏せてしまう。
「あの、すいません、何か僕、失礼なことを――」
伏せていたはずの彼女の顔が上がったかと思えば、目をパチクリさせて、素っ頓狂に彼を見て、
「いや、あの、」
今度はわたわたと、表情が一気に焦る。
「違うんです、その、失礼だなんてそんな、ただ、」
また少し、照れながら目を伏せて、
「すごく優しくて、大人っぽく見えて、私の方こそ、勘違いしちゃって……」
どうやら彼女の中では、年下かもしれない、という可能性は一切微塵もなかったらしい、完全に彼を年上だと思い込んでいたらしく、それ故この驚きようか。
「その、大人っぽいだとか、言っていただけると、すごく、光栄です。ですから、その、お気に、なさらず」
彼が言うと、彼女はまた伏せていた目を上目にして、少しの間、そうして彼を見つめてから、寂しそうに微笑んだ。
「本当、どっちが年上だか、わかんないですよね」
――こういうことも言う人なんだな、と彼は思った。
シラフの彼女は完璧ウーマンで、清楚で、上品で、話し上手で。
彼女の最も落ちた状態を目の当たりにした昨日の今日なだけに、スイカに塩、その反作用は凄まじい。
『もったいない』と言ったのは本音だった。こんな根暗なプログラマーには到底不釣り合いで、食事を共にすることすらおこがましい、そう思った。
でも、そうじゃなかった。
いきなり驚いてみせたり、恥ずかしさに俯いてみせたり、焦ったり。
シマの言葉を思い出す。
神格化したって、メリットなんかない。
そうだった。
冷静でいるばかりが完璧なんじゃない、クールな大人が完璧なんじゃない。
完璧な人間なんて存在しない。
今、目の前にいるのは完璧でも神でもない、ごくごく普通の、ちょっとお転婆な、年上の女性なのだ。
「あっ、すいません、私、また失礼なことを――」
顔をハッとさせ、口元に手を当てて動転した様子の彼女、
「い、いや、大丈夫、大丈夫です、聞こえてませんからっ」
――彼女と、もう何度目か、目が合って。
お互い、身振り手振り、訳もわからず必死になっている。
そうしてそのまま目を合わせている内、なんだかくすぐったいような、可笑しな気持ちになって、
「――クスッ」
今度は、彼女が先に笑った。
釣られて彼もクスクス笑い出す。
今度は、自然に笑えている気がする。
彼女の調子に合わせるとか、そんなものではない、可笑しな気持ちが沸き上がってきて、笑いたくて、笑いたくて、
彼女と一緒に、笑いたくて。
どうせ隣室同士、家路も共にすることになった。
互いの都合を慮って現地解散も検討されたが、彼女はこのまま帰宅すると言い、彼も特に寄り道すべき用事はない。
合流前に感じていた気の重さは、とうになくなっていた。
道中、例の居酒屋に差し掛かった際は、それはそれは気まずかったが……。
「あのお店――」
歩きながら、前を向いたまま、彼女が憂った風に言う。
「おいしいって評判で、ずっと、行きたかったんです」
そうなんですか、と普通なら合いの手を入れる、彼女の声色がそれをさせなくて。
「でも、一人で行ってもつまんないですから、……二人で」
彼女がどんな意図をもって、このタイミングで、彼に伝えたのかはわからない。
ただ、その声はどこまでも寂しげで、独りぼっちで。
努めて明るい彼女と接している内、すっかり忘れてしまっていた。
彼女はまだ、彼女をあれほどまでに貶めた失恋ショックの、未だ真っ只中であるということに。
恋愛経験のない彼には、同調することも、慰めることもできない。
あの店で共に食事をしたこと、それが少しでも慰めになっていれば。
希望的観測は、しかし切実だった。
自宅マンションの、エレベーターの中。
密室で女性の背後に立つのは失礼であると、進んでエレベーターボーイを買って出た。
四階に到着、彼女の部屋の方が奥になるため、レディファーストを決め込んで、彼女の先に廊下に歩かせる。
並んだり対面したりはしたが、こうして彼女の歩く後ろ姿をまじまじ見ることはなかった。
その背中の、なんという儚さが、店での楽しそうな笑い声と重なって、
――ッ。
「あの」
いつの間にか、手前側、彼の自室前に達していた。
「今日は、お付き合いいただいて、ありがとうございました」
小さく会釈する彼女。
「い、いえ、こちらこそ、ご馳走様でした」
――そのまま、会話が止まってしまう。
どうして。
なんで、何も言ってくれない。
彼女は憂った瞳のまま、俯いて。
今日、何度も僕の口下手を救ってくれたように。
取り留めのない世間話を、振ってくれればいいのに。
どうして。
……僕が。
僕が、何かを言えばいいのか。
何を言う、何を言えばいい。
こんな状況で振れる話題なんて、
こんな状況で言えることなんて、
「――それじゃあ、おやすみなさい」
彼女は、振り返る。
振り返って、歩いて、玄関の前に立って、バッグから鍵を取り出して、解錠して、ドアを開
「あの」
彼が呼び止めると、彼女はゆっくりと、彼の方に目を向けた。
呼び止めてどうする。
どうせ取り返しが付かないのだ、立ち止まるな。
もしかしたら僕も、昨晩の彼女のように、どうしようもなくなってしまうかもしれない。
それでも。
言葉は稚拙かもしれない。でも、それでも、伝えたい言葉がある。
人生はプログラムでも、データベースでもないのだ。
「……もし、良かったら、」
唾を呑む、
「また今度、お食事、行きませんか」
それが、精一杯だった。
最後の最後まで男を見せられなかった、情けない自分を恨んで、頭を抱えてしゃがみ込みたい。
それでも彼は、彼女を見据えて、待った。
彼女の、返答を。
彼女は、手を掛けていたドアノブから手を離し、
身体ごと彼の方を向いて、
優しく、微笑んだ。
「うん」
――この時の彼の表情は、今度の今度こそ、変人扱いされても致し方なかった。
そうして二人は、正真正銘、本物の『彼』と『彼女』になった。