夏。

千内高校は、東西に伸びる横長のコンクリート建築である。

その三階西端に位置する放送室。奥行きこそ他の教室と同じだが、幅は半分ほどしかない、長方形の部屋。一見すると狭く感じるが、放送機材を置くには十分な広さであり、また生徒が多数出入りするような場所でもないため、決して狭くはない。

部屋の中央は一枚の大きな防音ガラスと桟、防音構造のドアで横に仕切られていて、そこから奥は簡素だった。正面に防音窓、使い古しの学校机を二つつなげただけの長机、パイプ椅子。そして机上には、マイク。その横にはボリューム調節用の機械と、数枚のハガキが置かれていた。

それに比べ、手前はすごい。防音ガラスの下に、一般的な高校の設備とは到底思えぬ黒塗りの大きなミキサーが、仕切りに据え付けてあった。テレビで見るようなレコーディングスタジオにあるプロ向けのそれには遠く及ばないが、それでもやはり異質なオーラを放っていることに差異はなかった。奥に続くドアはミキサーの左側に位置している。ミキサー以外にも書類棚、予備のマイクやヘッドホン(コードが絡まっていて解くのは至難)、学校机と椅子、扇風機、何故か小型冷蔵庫までもが置かれていた。

マイクがある奥はマイク側、ミキサーがある手前はミキサー側と呼ばれている。

その放送室のマイク側において、今、トラブルが発生していた。

「…やべ」

椅子に座っていた少年が、手に持った数枚の原稿を見ながら独りごちた。

純白の半袖Yシャツに灰色のサマースラックス。Yシャツの裾はズボンから出ているか、校則違反ではない。耳にはピアスなどなく、だらしのない恰好もしていない。Yシャツも第一ボタンしか外していない。ベルトだって指定の物を使用している。校則に乗っ取った模範生なのだ。

―茶髪、という点を除けば。

少年の表情からは焦燥と危機の色が見え、顔全体から汗を掻いている。冷や汗なのか熱気故かは判別できなかった。

その様子に、ミキサー側の少年が気付いた。マイク側の少年と同じ恰好をしているが肌はやや色黒で、髪は黒の短髪。わずかな垂れ目が温厚な雰囲気を醸し出している。

パイプ椅子ではなくデスクチェアから立ち上がり、奥に続く仕切りのドアを開けた。首にはヘッドフォンが掛かっている。

「どした?」

ミキサー側の少年が仕切りから怪訝な顔を出して訊く。

「…メインの原稿を…、その…」

バツ悪そうに言うマイク側の少年に、ミキサー側の少年、

「まさか、忘れましたーなんてベタベタなギャグは勘弁だぞ」

図星を突くミキサー側の少年を一瞥してマイク側、

「…忘れ…ましたー」

「はぁ!? お前、もう始まンだぞ!?」

「わかってるよ! オレがなんとかするから、間のフォロー頼む!」

ミキサー側、軽い溜め息。

「ったくしゃあねぇな、須田がいないと―」

ミキサー側の少年のボヤキは、本人によって叩きつけるように閉められたドアに遮られて聞こえなくなった。バタンという音にマイク側の少年は少しビクッとしたが、すぐに平静さを取り戻して姿勢を整える。

喉を鳴らし、アーアーと軽く発声練習。水良し喉良し天気良し、状況悪し。

こんなはずではなかった―そんなことを考える精神的余裕すらなかった。

ミキサー側の少年が防音ガラスをコンコンと叩き、右手を開いて指を五本立てた。

カウント、開始。

四本、三本、二本、一本―

時報の音と共に流れ始めたロックの洋楽のサビ部分。アーティスト名も楽曲名も不明だが、オープニングには常にこの曲を流している。持ち主は他でもない、洋楽好きのラジオ部顧問、松本である。

開始から十秒ほど、サビが終わりに近付いた辺りでBGMのボリュームが下がり、録音されたマイク側の少年のノリノリの声で、

『千内高校からワタクシ赤木悠大がお送りする青春学園ラジオ、Youth to Youth! この番組は、千内高校の全教室、そして千内町の皆様にお伝えしております!』

録音された声が切れる。赤木がボリュームを上げ、BGMがフェードアウトする。

「っとゆーわけで始まりましたYouth to Youth、猛暑も吹き飛ばす勢いで30分、よろしくぅ!」

簡単な雑談の後、本来ならば原稿通りに司会進行するわけだが―

「いや~しっかし暑いですねぇ、スタジオなんか冷房器具一切ないからまさにサウナっ、オレするめになっちゃいますよ」

進行されない。

「でもやっぱいいですよねー夏は。なんていうか、燃えますよね」

進行されない。

「夏といったら? 七夕? 海? お化け屋敷? ノンノン。夏といったら、射的に花火にべっこう飴!」

まだ進行されない。

「我らが千内高校も参加する年に一度の無礼講、千内祭! 生徒諸君、町民の皆さん、今年も全開で行きましょう!」

進行しないどころか、進行しようとすらしていない。

赤木は、高校生ながらもプロのパーソナリティと同等の能力を持っている。天性の滑舌や巧みな話術、明瞭な声質や旺盛な好奇心故の常の雑学収集を用い、明日から実践したくなる生活の知恵から笑いを誘う与太話まで、それらによって間を埋めることなど赤木にとっては朝飯前なのだ。

しかし赤木も人の子、進行行程が書かれた原稿がなければ進行することができない。例え記憶力を頼りに進行させたとしても、万一放送事故が起きてしまったらラジオ部の沽券に関わってくる。パーソナリティとして、放送事故を危惧するのは当然のことだった。

「さてさて、コマーシャルの次は、リスナーの皆様からお寄せ頂いたお声にワタクシ赤木がお応えする『Listener's Voice』! 今日もたくさん集まってますよ~!」

オープニングとは別の"間"用の洋楽のサビ部分がフェードインし、五秒ほど流れた後にフェードアウト、八百屋『新鮮百菜』のローカル色濃厚なコマーシャルが始まった。

サビが終わった頃、赤木はすでにマイク側にはいなかった。

「ブチョ、つなぎ頼むよ!」

「任された」

放送室を出た赤木は、焦っていた。

全速力で階段を駆け下り、踏み外して転げ落ちそうになるが奇跡的に体勢を立て直し、廊下に出ると同時にぶつかりそうになった女子生徒に驚いた顔をされ、横切っていく教室の生徒たちにも驚かれ、果ては危険行為を諭すべき立場にある教師にも驚かれ、辿り着いたるは、赤木が在籍する2-Aの教室だった。

夏場に全力疾走するのは自殺行為である。ただでさえ暑い外気の熱に、体内から発せられる運動熱が加わるのだからひとたまりもない。50mを6.6秒で走る赤木だが、この灼熱下では何の役にも立たなかった。

力任せに引き戸を開けると同時に、クラス中の視線が一斉に赤木に向いた。そして、やはり驚かれた。

その驚きは、放送中に赤木が飛び込んできたことに対してよりも、汗まみれになった赤木の顔に対する方が大きかった。

「おお、お前、ラジオは!?」

スピーカーを指差しながら慌てる男子生徒を無視(正確には返答する余裕がない)し、廊下側の前から二番目の自分の席の横に掛かっている学校指定カバンを乱暴に掴み取り、即座に教室を出ていった。

教室にいた時間は、わずか三秒だった。

赤木の顔はすでに死んでいるが、走ることはやめなかった。

放送室のドアノブを回し、走ってきた勢いのまま肩で押し開けた。

「あと15秒!」

「了解ッ!」

ミキサー側の男子生徒、通称ブチョは、振り向きもせずドアが開いた音に反応して言った。赤木はカバンから出しておいた原稿を持ち、カバンはミキサー側に放り投げてマイク側に飛び込み、飛び乗るように椅子に座―

「ぎゃー!」

転んだ。

椅子を巻き込んで、コントのように転んだ。

腰と後頭部を押さえて痛がっている。

異変に気付いたブチョは、赤木の様子を見て慌てて立ち上がり、防音ガラスをゴンゴン叩いた。

「や、やっべ!」

赤木は焦りながら体勢と椅子を直し、迅速ながらも慎重に座して呼吸を整えた。

整うはずがなかった。

着替えたいシャワーを浴びたい水を飲みたい扇風機が欲しいエアコンが欲しいワイハに行きたい、それら押し寄せる欲望よりも、赤木の何よりも頑強な意思が勝っていた。

パーソナリティを務め上げる、その意思が。

先ほどとはまた別の"間"用の洋楽のサビが流れ、今度は録音加工された赤木の声も入り、CMと本番の区切りを明確にしている。

やがてフェードアウト、赤木がマイクのボリュームを上げ、司会進行を再開する。

「ゼェ、ゼェ…。し、CMの、間に、ハァ、ちょっ、運動を、して、ハァ、きまして、」

完全に息が切れてしまい、まともに話すこともできなかった。しかも、ひどい弁解である。

「やっぱ、ハァ、ラジオばっか、やってると、ハァ、運動が、おろそ、ハァ、かに、なります、からね、ハァ、」

こりゃダメだ、と赤木が思った。

一旦マイクのボリュームを切り、ラジオ体操のそれよりも大きな深呼吸をした。気休めにしかならないが、赤木にはこれで十分だった。

「っと、失礼しましたー。ダメですねーこれくらいで息が上がってるようじゃ、ボクもまだまだ未熟ですわ」

気管から押し寄せる二酸化炭素と、肺に酸素を取り入れようとする命令を抑え込み、赤木は必死に平静を装う。この程度の疲れは少し休めばどうということはないのだが、今はラジオの本番真っ最中。一分一秒という時間の駆け引きが必要になってくる。休むことなど許されないのだ。

「それでは皆さんお待たせしました! ちゃっちゃと行っちゃいましょう、火曜日恒例企画、『Listener's Voice』!」

コーナー名を叫ぶと同時にブチョがミキサーでエコーをかけ、赤木の声が響いた。

「最初のおハガキ、え~、ラジオネーム―」

一方その頃、千内高校職員室。

教師一年目の新人、社会科担当の鈴木は、今日も緊張の昼休みを過ごしていた。デスクチェアに背筋を直立させて座っている。

「あ、そーだ鈴木先生、」

「えっ、あ、はいっ」

密かに思いを寄せている五年目の国語担当の吉田に声をかけられ、緊張のあまり過敏に反応してしまう鈴木。

鈴木と吉田は背中合わせの席であり、二人は椅子を回転させて向かい合っている。五年目の吉田は慣れた顔だが、一年目の鈴木は何故か肘をまっすぐ伸ばして両手は膝の上だ。

「欠席の内山は…」

「あぁ、内山でしたら、えっと、さっき電話かかってきました。なんか腹痛いらしいッス」

「あー…、また仮病ねぇ」

「え? け、仮病?」

「そ。内山はだいたい腹痛か風邪か、たまに盲腸の疑いがあるから病院に行くとか言ったりするのよ」

「す、すごいッスね…」

「クラスでも人気者なんだけど、サボリ癖が抜けなくてねぇ…。鈴木先生、何か名案ないかしら?」

「あ、いや、そんな、ここ、こっちがお伺いしたいくらいッスよ」

「あら、男性の意見も結構大切よ?」

「ぼ、僕なんて、まだまだ、その、未熟ッスから…」

「ふふ、すぐ慣れるわよ。がんばって」

「は…、はいっ!」

生徒が入り乱れる職員室内では大して目立たなかったが、鈴木は大きな声で返事をした。

『―ちゃいましょう、火曜日恒例企画、「Listener's Voice」!』

ラジオ放送は、例外なく職員室にも流れている。熱心にリスニングしている者もいれば、プカプカとタバコを吹かしている者など様々だ。ちなみに、ラジオ部顧問の松本は事務処理に集中していて全く聴いていなかった。

『え~、ラジオネーム「GTS」さん』

その名前を聞いて反応した教師は一人ではなかった。イの一番に反応した鈴木と、おぼろげながらも聞き覚えを感じた吉田の二人。

吉田は飲んでいたコーヒーカップを机に置くと、顔と身体だけで後ろを振り向いた。鈴木がスピーカーを熱心に凝視していた。両手は握り拳で机の上に置かれ、顔はほのかに赤くなっている。

吉田はすぐにピンと来た。そしてもう一つ、聞き覚えの正体に気付く。

彼女は知っていた。鈴木の机の鍵付き引き出しの奥に隠されている、大人気週刊誌連載漫画『GTS』、グレートティーチャー鈴木17巻の存在を。

『はじめまして、GTSといいます。私は人にものを教える仕事をしているのですが、まだ一年目の新人です。給料も安いし職場でも肩身狭いし家に帰っても独り暮らしなので誰もおかえりを言ってくれません。唯一の息抜きである週末の釣りも、最近は忙しくて…。暑さも加わって毎日毎日息が詰まりそうな思いです。年上の僕がこういうのはみっともないかもしれませんが、赤木さん、何かアドバイスをください。…と』

鈴木は張っていた肩の力を抜き、しかし即座に元の体勢に戻り、スピーカーを注視する。

『ん~…、難しいですねぇ。年上とか年下っていう以前に、ボク働いてませんからねぇ、バイトもしてないし。あー、でも給料が少ないってのはすんごくわかります、ウチも小遣い少なくて月末火ィ吹いてますよ。"職場で肩身が狭い"…うーん、どうなんでしょ。ボクなんかはもう自由奔放が日々のモットーなもんで、なんとな~く気持ちはわかるんですけど、なんつーか、こう、やっぱ同じ立場になってみないとわからないかなーなんて。緊張っていうんだったらちょっとは共感できるかな? 今はラジオなんかやってますけど、昔は結構アガリ性だったんですよ。クラスの発表会とかでも顔が真っ赤になって自分でもナニ言ってるかわかんなくなっちゃって、結局先生にやってもらったりして、…まぁ、GTSさんのと比べたらチッポケなもんですけどね』

赤木は区切るようにやや間を空けて、

『やっぱりホラ、アレですよ、17の若造が言うのもなんですけど、新人の頃はみ~んなそういう思いをしてると思うんですよ。アナタの先輩とか上司の人たちだってもちろん新人やってきたわけです、それをガマンして苦労してガンバってガンバってガンバって、そうやって昇格したり後輩の面倒を見るようになっていくんだと思うんです。来年はきっとGTSさんにも後輩ができるだろうし、歳を重ねていく毎に立場が偉くなっていくかもしれません。今は大変な時期でしょうけど、苦労すればするほど報われるはずだ、とボクは思います。…って、なんかアドバイスになってませんね、はは。影ながら応援します、ガンバってください!』

赤木の最後の一言で緊張の糸が切れたのか、鈴木は無脊椎動物のようになって背もたれに体重を預け、ガチガチになっていた腕をだらりと垂らした。頭は天を仰ぎ、大きく息を吐いた。まるでタコである。

「鈴木センセ」

「!」

突然のお呼びに驚いた鈴木は慌てて姿勢を直すが、重心配分を間違えてチェアごと転倒しかけ、なんとか足で踏ん張って持ち堪えた。

声をかけたのは、吉田だった。

「は、はいっ!?」

「私も応援してますからね」

「…へ?」

吉田は微笑みながら鈴木の肩をポンと叩き、書類を持って職員室を出ていった。

鈴木の顔は、かつてないほど間抜けだった。

『ではでは、次のおハガキいきまっしょー。え~、ラジオネーム―』

放送開始から25分。30分番組の『Youth to Youth』は残り五分となった。

赤木がトークをしている最中、ボリュームを下げたJ-POPのイントロがフェードインで流れ始めた。

「えー、宴も酣となって参りました、ここらへんでリクエスト行きたいと思います。マドカさんのリクエスト、ワイルドエッジで、様ー々ー

赤木がマイクのボリュームを切り、BGMの音量がブチョの操作によって大きくなる。イントロからAメロに入り、一つ息を吐いた赤木がマイク側からミキサー側に出てきた。

「あ゛ぁ~ぢぃ~」

「気ィ抜くなよ、まだ終わってないんだ」

「わぁってるよぉ、ったくぅ。あ~ノードーかーわーいーたー」

フラフラだらだら千鳥足の赤木は、壁際に寄せられていた学校机の下に置かれている小型の冷蔵庫を開けた。中にはミネラルウォーターやスポーツドリンクが大半で、何故かひとくちゼリーの袋まで入っていた。スポーツドリンクを一本取り出し、床にドカリとあぐらをかいてガブガブと飲んだ。

「っくぁー! 生き返るぅ!」

赤木はブチョに向いていたスタンド扇風機を自分に向け、強さを強にした。足で操作していた。

「いいよなーブチョーは扇風機当たれてさー」

ブチョ改めブチョーは、チェアを回転させて赤木の方を向いた。

「バカ言うな、マイクが風拾っちまうだろ」

「わかってるけどさぁ、空調くらい入れて欲しいよなぁ、CMで儲けてるくせにさぁ」

「町内のローカルCMなんて高が知れてる、学校側としちゃあ雑益の内だろうな。それに、こんな場違いなミキサーあんのウチくらいだぞ? あんま贅沢すっと、」

赤木はブチョーに向かって手をヘラヘラさせて、

「あーはいはいわかったわかった。あんま贅沢すっと嫁が来ないぞ、っと」

ブチョーは一つ鼻で笑って、

「なんだ、わかってるじゃん」

「耳にタコができたよ」

スポーツドリンクを一飲み、余った分をブチョーに渡してブチョーも一飲み。

無言のまま、BGMだけが流れ続ける。

赤木、

「いいなぁこの曲。あとでコピっといてくんない?」

「…気乗りしないな」

「なんだよ~頼むよ~。あとでROM代払うからさ」

「金の問題じゃなくてだな、…そうか、手間賃…いやしかし…」

ブチョーは、法律と商売の間で葛藤していた。

「っていうかお前、先週三つもコピーしてやったろ。たまには自分で買うなり借りるなりしなさい」

「しょうがないだろー、小遣い少ないんだから」

「ケータイの使い過ぎだ、自業自得」

「…うぅ…」

リスナーからのリクエストで流す楽曲は、レンタルCDショップで調達している。一週間分のリクエストの中から数曲をピックアップし、週末にまとめてレンタルしているのだ。その際、前回レンタルしたCDも返却しているので効率が良い。ただし、この方法には欠点がある。七泊八日の旧作CDしかレンタルできないのだ。レンタル期間が短い新譜を扱えないのは大きなマイナスであるが、そこはリスナーに了承してもらう他なかった。その都度貸借すれば新作でも問題はないが、手間や労力を考えると実現は難しかった。

実際にCDをレンタルしに行っているのは、ここにはいないもう一人の部員である。週末にレンタルしたCDを月曜日にブチョーに渡し、金曜日に返却のためブチョーから渡される。レンタル費用は顧問の松本経由で学校から経費として支払われる。松本からは楽曲の複製はせぬよう"一応の"注意は受けており、CDの管理をブチョーに一任しているのもそのためだが、あくまで世界は自由なのだ。素晴らしい役得だった。

なお、リクエストの選曲は部会議で行われ、新譜を除いた中からランダムに選出している。…というのは無論建て前でしかなく、言わずもがな、実際には部員の好みが入っている。どこまでも素晴らしい役得だった。

「赤木、そろそろだ」

「りょーかい」

赤木はあぐらからよっこいしょと立ち上がり、本日最後の締めくくりのため、両頬をパンと叩いて気合を入れ、マイクの前に戻った。

アウトロに入ってすぐにBGMのボリュームはイントロと同じ程度に下がり、それに合わせて赤木がマイクのボリュームを上げる。

「皆さん、いかがでしたか? じつはボクもこの曲が好きで好きでいつか買おうと思ってて、でもなっかなか、懐の事情もありまして…。どなたか心優しい方、お貸しいただけないでしょうか? なんつって」

ブチョーが小声でバカと言った。

「えー、本日もー、放送終了の時間がー、近付いて参りましたー。また明日ー、ワタクシが無事であるならばー、またお会いしましょー。それでは皆さん良い午後を。See you!」

マイクのボリュームを切り、先に流れていたリクエスト曲のアウトロとクロスフェードしてやはり洋楽のサビ部分が流れ、五秒ほどでフェードアウトし、本日の放送は終了した。

赤木がマイク側を出ると、ブチョーが手の平を差し出して、

「お疲れ」

赤木は笑顔で、

「おつかれさんっ」

手の平を叩いた。

そこらに置かれていた学校の椅子を適当な所に引いて腰掛け、たかと思うと今度は小型冷蔵庫からひとくちゼリーを取り出して椅子に戻り、数個をブチョーに投げ渡した。

「いやぁ~、やっぱ仕事あとのゼリーはうまいわぁ~」

「学生の仕事はこれからだぞ」

「もぉブチョー、幸せな気分の時にそーゆーこと言わないでくださいよー」

「はは、悪い悪い」

夏場に冷えたゼリーを食べるのは確かにおいしい。しかし、赤木の食べ方は変わっていた。冷えたゼリーを、喉越しが良いという理由でほとんど噛まなかったり、あまつさえそのまま飲み込むこともある。ブチョーはすでに呆れて何も言わなくなっていた。万が一ゼリーが喉に詰まって呼吸ができなくなったら、大笑いした後に背中にカカトを落とそうと考えていた。

「つなぎ助かったよ、どもね」

「いや、普通の枠で間に合った」

「…マジ?」

「マジ」

「ンだよー、ひーこらひーこら走った意味なかったじゃんかー」

「意味ないとはなんだ意味ないとは。お前が走ってなかったらCM延ばすことになって、その分放送時間も短くなるしお前のトークを楽しみにしてる人に失礼だろ?」

「…へぃ、確かに」

「そもそも原稿忘れたのはお前だ、やっぱ自業自得」

「あぁ~もー、がいればなぁ」

「そろそろ出てくるだろ。二日も休めば」

「夏風邪も結構侮れないし、しゃあないか…」

憂鬱な気分をゼリー丸飲みで払拭、また幸せな気分に―

「やべっ、次体育じゃん!」

「ん。後はやっとく」

「任したよ! じゃな!」

放送室を出た赤木は、2-Aに向かって走り出した。

体育の時間、腹痛を理由に見学したことは言うまでもない。

「じゃーな赤木」

「おぅ、じゃな」

6限目終了の礼の後、帰宅部組に混じって教室を出ようとした赤木は、クラスメイトの挨拶に軽く返事をして教室を出た。

二年生の赤木のクラスは二階に位置し、その上は一年、下は三年である。つまり、一階から三年、二年、一年の順だ。一般的には逆かもしれないが、千内高校では新入生の足腰を鍛えるという意味合いで、一年生の教室を三階としている。

だが、校長代々の口伝によると、一年のそれは単なる建て前で、実際は三年生の怠惰による出席率低下を防ぐための対策だという。これもあくまで噂ではあるが。

千内高校昇降口の下駄箱にフタはなく、出し入れするだけのシンプルな物。各々が上履き用と外履き用の二段構造になっている。

軽快なテンポで昇降口に着いた赤木は、手慣れた風に上履きを脱ぎ、下駄箱もろくに見ずに適当に押し込んだ。

クシャ。

「…ん?」

押し込んだ際、上履きを伝って手に感じた、紙を押し曲げたような感触。不審に思った赤木は、まだ手離していなかった上履きを引き、怪訝な顔で中を覗いた。

そこには、白い封筒があった。

「げっ」

赤木は思わず声を漏らした。

それは縦長の封筒ではなく、洋式横長の、いわゆるレタータイプだった。

赤木は周囲に誰もいないことを確認すると、目にも止まらぬ速さで封筒を掴み取ってカバンに押し込んだ。そして、50m6.6秒の俊足を活かし、校庭西にある体育館脇の、体育倉庫の裏の暗がりに滑り込んだ。体育倉庫の外壁にもたれかかり、構わず土上であぐらをかいた。枯葉のおかげで直接的に汚れはしない。

赤木の中のあらぬ想像がひとりでに膨らんでゆく。心臓の鼓動の大半はまだ全力疾走したものによるものだが、赤木の想像から来る精神的な影響も少なくはなかった。

表裏を舐めるように見るが、差出人の名前はない。たった一つ、裏面のフタを留めるために張られた、ハートマークのシールだけ。

赤木の鼓動はさらに高まる。

ついに、来る時が来ちまったか―!

赤木は合掌した手の間に封筒を挟み、まだまだ日の沈まない青空に向かって拝んだ。

恐る恐るシールを剥がし、フタを開け、中の手紙を取り出す。内容物は手紙一枚のみ。

年上だろうか、年下だろうか、あるいは同い年か、よもや校外の人間かもしれない、かわいいだろうか、太っていないだろうか、髪はストレートだろうか、メガネはしているだろうか、ご飯粒は残さず食べるだろうか、そして、ラジオは好きだろうか。

様々な期待と不安を込め、赤木はいざ、二つ折りにされていた手紙を開けた。

…。

ゴン。

全身の力が抜け、緊張のせいで無意識にもたげていた頭が体育倉庫の壁にぶつかった。後頭部を強打して痛がる赤木だが、それよりもショックなのは、手紙の内容だった。

先輩からの、ちょっとしたイタズラを兼ねたお便りだった。

年度初めの部員交代の際、必ず一度は送られてくる新人パーソナリティに対する洗礼として有名であり、赤木も先代のパーソナリティから忠告を受けていたので難なく回避はできた。が、この時期になって再度仕掛けられるとは全く予見しておらず、完全な不意打ちだったため、見事にトラップに引っかかってしまったのだ。

後悔の念に苛まれ、自分の未熟さを悔やみ、赤木は一つ溜め息を吐いた。

しばらく黙考した後、ゆっくりと立ち上がって尻に付いた枯葉を叩き落し、おぼつかない足取りで校庭南の駐輪場へ向かった。

赤木は地元の人間である。全校生徒六百人の約90%は電車通学で、残りの10%の生徒は徒歩か自転車、いわゆるチャリ通なのだ。地元とはいえ徒歩では30分以上かかる距離のため、自転車通学の許可を得ている。

中学校入学時に祖父に買ってもらった、どこにでもある普通の黒い通学用自転車。カゴあり荷台ありライト正常、自転車の車検があったとしても余裕でクリアできる。

一つ欠点を挙げるなら、屋根のない駐輪場で雨ざらしになってできた各所のサビ。防ごうと思えば防げるのだが、面倒なので赤木はやらない。

校庭内での自転車の走行は原則禁止だが、どうせ南門は目と鼻の先だからと、この南駐輪場に駐輪している生徒の大半は転がさずに騎乗したまま門を出ている。

無論、赤木もその内のひとり。

停めてあった自転車の鍵を開錠してサドルにまたがり、スタンドを蹴上げてそのまま発車。他の生徒もいるので徐行し、門を出て赤木はスピードを上げた。

千内町。人口約一万人の、都会でも田舎でもない、中間の町。否、どちらかといえば田舎寄り。

山岳地帯の合間に広がる平野部を陣取る、大規模な区画である。

小さな農民が集まった農村を礎とするこの町は、約六十年前に千内高校が創立して以来、様々な発展を遂げてきた。

そもそも、当時の千内町の様子を見る限りでは、高校が建つことなど奇跡に近かった。だが、近隣町村と比較すると、五十歩百歩ではあるが千内町が最も人口が多く、また敷地面積も広大であったため、当町への建設が決定したのだ。

もちろん、建設にあたっては町民の反対が相次いだ。不遜な連中を懸念する声、それに伴う治安の悪化を懸念する声など、圧倒的に反対派が多数を占めた。

しかし、当時の町長は強行派として知られ、町の繁栄を主題に掲げて高校の建設を独断で認可。町民から猛抗議を浴びた町長は数ヵ月後、不正が発覚し逮捕、辞任した。

一度認められた工事を止める術はなく、やがて落成した、初代千内高校校舎。今のような鉄筋コンクリートではなく、完全な木造だった。

始業当初、反対派の町民は生徒たちを敬遠していた。特に反対していた数名の町民は、自らが営む店の店頭に『千内高校生徒の立ち入りを禁ず』と書かれた紙を掲示するなど、過激な行為が行われた。

だが、そんな町民と生徒の間のわだかまりは、次第に薄まっていった。

反対派が懸念していた治安の悪化は無に等しく、むしろその逆だった。学校側がイメージ改善のために生徒総出で献身的に行った町への奉仕。町の清掃美化、小学生の登校時の交通指導、休日には老人宅に出向き介護を行うなど、様々なボランティアを行ったのだ。

その結果、反対派とも和解し、今のような和平を築くことができたのだった。

学校を出て三分。赤木は商店街へ向けて走っていた。

両側にやや古ぼけた家々が立ち並び、それに挟まれてまっすぐ延びる幅広の二車線道路。

千内町で最も栄えている"商店街"に続く道のため、進むほどに住宅が減り、商店が増えていく。

信号機付き十字路に差しかかったところで赤木は止まった。信号が赤だったからではなく、十字路角にあるポストに用があったからだ。

ポストといっても、郵政公社が設置した赤ポストではない。千内高校が設置した、ラジオ部専用の緑ポストである。

リスナーからの便りが多数届くラジオ部は、さらに幅広くリスナーからの声を聞きたいという理由で、町の数ヶ所に緑ポストを設置。専用のハガキなどは必要なく、紙(できれば便箋)にラジオネームと投稿するコーナー、投稿内容を書いて投函するだけで、専属の収集員が回収、ラジオ部に届く仕組みになっている。

たまにボケたご年配がうっかり官製ハガキを投函してしまうこともあるが、発見し次第赤ポストに投函し直してあげるのも収集員の仕事である。

赤木は、先ほど面を食らった原因であるトラップの手紙を、自転車に乗ったまま乱暴に緑ポストに投函した。

それと同時に、

「あら~、悠大クンじゃないのぉ」

名前を呼ばれ、赤木は声のする方を見た。前方の歩道から歩いてくる、ふくよかな体格をエプロンで包んだ婦人だった。

「あ、ども、こんちは」

「こんにちは。お昼聴いてたわよ、大丈夫だった?」

最初のCM開けの呼吸の乱れの件を心配しているようだった。

「あ、あぁ、大丈夫ですよ。最近運動不足だったもんで、CMの間に軽く動いてたら、その、夢中になっちゃって」

まさか、原稿を忘れて取りに行っていた、などと校外の人間に言えるわけがなかった。

「それはそれは、殊勝なことですわねぇ。でも、本番中にやらなくてもよかったんじゃなくて?」

「あー…、それは、その、ハハハ、き、気分、ですかね、気分」

「へぇー、若いのねぇ。あんまり無理しちゃダメよ?」

「あ、はいっ、気を付けます」

返答を聞いた婦人は微笑み、一礼をして去っていった。

赤木は疲れたように溜め息を一つ、再度自転車を漕ぎ始めた。

赤木と婦人は、別段知り合いというわけでもなければ血縁でもなんでもない、赤の他人である。ただ、婦人もYouthのリスナーのひとりで、町で会うと軽く話をする程度。物腰の良い婦人ではあるが、赤木はどうもこういう人と接するのが苦手で、毎回どのように受け答えしたらいいものかと苦労してしまうのだった。特に今日は。

この町に住む人間で、赤木の顔ないし声を知らない者は、ラジオ聴取環境のない家庭ぐらいだ。ない家庭ですら、他からの口コミで多少は心得ている。赤木は千内町では一、二を争う有名人なのだ。

それはもちろん、赤木が千内町全域に放送しているラジオ番組のパーソナリティだからである。

故に、先代のパーソナリティの顔も有名であることは当然だった。

やがて赤木は、商店街周辺の一角にある、昨年まで『町内唯一』付けで呼ばれていたコンビニにやってきた。

町民や学生の熱望により三年前にようやく開店した24時間営業のコンビニだが、やや縦長な輪郭の千内町の、千内高校がある南方寄りにあるため北方の町民は不便し、ついに昨年、北方地域をカバーする二号店が完成した。

赤木が入店すると、ブックコーナーで立ち読みしていた、一年の時に同じクラスだった地元の男子生徒二人と目が合った。軽く手で挨拶する。

他の商品には一切目もくれず、菓子コーナーに向かい何かを探していた。目的の商品を見つけて手に取り、同じく何も物色せずにそのままレジへ向かった。本人曰く、コンビニは金食い虫の温床だからウロウロしない、とのこと。

カウンターに商品を置き、女子大生と思しきアルバイターがバーコードリーダーでバーコードを読み取り、レジスターを打って137円ですと言った。自分の意思で購入したにもかかわらず、赤木は渋々財布から200円を出し、お釣りを受け取った。

アルバイターがビニール袋に商品を入れるのを待っていた赤木は、ぼんやりとカウンターに並ぶソフトクリームの機械や唐揚げを見ていた。

「あの~…」

ボーっとしていた赤木は、不意な問いかけに驚き、ビクッとなった。

赤木に声をかけたのは、今まさに目の前にいるアルバイターだった。

「えっ、あ、はい?」

「赤木悠大さん…ですよね?」

「はぁ、そうですけど…」

「先輩から噂を聞いて、今日初めてラジオ聴いたんですけど、すっごくおもしろかったです! あれ、毎日やってるんですよね?」

「えぇと、月曜から金曜まで毎日、はい」

「すごいですよね、毎日欠かさずなんて。明日も聴きますから、がんばってくださいね」

商品が入った袋を差し出しながら、アルバイターは言った。

「は、はぁ、がんばります」

やや照れ気味に赤木は袋を受け取り、ありがとうございましたーの言葉に軽い会釈で返して店を出た。

赤木が購入したのは、棒状のプレッツェルをイチゴ味のチョコでコーティングした『イチゴホッキー』。

すでに学生カバンが入れられた自転車カゴの脇に袋ごと突っ込み、自転車を発進させた。

ちなみに、アルバイターが何故赤木の顔を知っていたか。答えはじつに明快、単に赤木が有名人で、地方広報誌などで露出する機会が多々あるから。

数分後、赤木が到着したのは、郊外にある住宅街のとある一軒の家。どこにでもある二階建ての、普通の一戸建て。

門の脇に自転車を置き、小さな洋風の門扉を開け、玄関の前に立つ。

呼吸を整え、いざ、インターホンのボタンを押した。

ピンポーン。

わずかな間の後、インターホン機器のスピーカーから声が発せられた。

「はい、どちら様ですか?」

声を聞いた赤木は、あれ、と思った。

「えと、赤木、ですけど…」

「―え? 赤木くん?」

やっぱり、と思った。

「明?」

「ちょ、ちょっと待っててッ」

スピーカーからかすかにプツッとノイズ音が聞こえ、間もなく玄関のドアが開錠の音とともに開いた。

現れたのは、髪をポニーテールに結った、パジャマにカーディガンを羽織った女子だった。

「オス」

「お…、おすっ」

双方とも、やや落ち着かない挨拶だった。

「母上は?」

「お母さんは、仕事だけど…」

「あー、そっか」

「えっ、お母さんに用事?」

「ま、まっさかぁ」

本人に直接会うのは気恥ずかしさがあるため、母親に伝言を頼んで済ませてしまおうと考えていた赤木である。

「まぁ、ようするに、アレだ。元気してるかなぁ、とかさ…」

「…もしかして、お見舞い?」

赤木は後頭部をポリポリ掻きながら小さくうなずいた。

「わぁ~嬉し~。赤木くんがお見舞い来てくれるなんて♪」

明は胸の前で手を合わせ、微笑みながら言った。

「そりゃあ、その、同じ部活の部員として、部長代行として…」

「…そっか。言い訳付きじゃないと、来たくないんだ…?」

一気にトーンを落とした明の声に、赤木は大いに焦った。

「あ、いや、そういうアレじゃなくて! だから、なんだ、えーっと、」

慌てふためく赤木を見て、明はくすっと笑った。

「もぉー、すぐ引っかかるんだから」

「あっ、ひでぇ」

「あはは、ごめんごめん」

ものの見事に引っかかった手前、赤木はからかう明を怒れず、照れてしまった。

「ってか、寝てなくていいの?」

「うん、もう平気」

「そっか。熱ぶり返さないように、安静にしてろよ?」

「はいはい、わかってますって」

「ん。じゃあ、これでも食ってぐっすり寝てくださいな」

赤木は持っていた袋を明に手渡した。

「えっ、なになに?」

ワクワクしながら袋から取り出したるは、先ほどコンビニで購入したイチゴホッキー。明の表情は、たちまち満面の笑みに変わった。

「今ちょうど食べたかったんだ、ありがとっ♪」

予想以上の感謝と明の笑顔に、赤木は反応してしまった。

「…あ、明日な!」

「はーい」

赤木は振り返り様に言い、自転車に乗って逃げるように去っていった。

明に赤面を気付かれないために。

余談だが、明のベッドの枕元には一つ、母親が買っておいた未開封のイチゴホッキーが置かれている。