現在、ラジオ部には三名の部員が在籍している。
パーソナリティ、赤木悠大。
ミキサー担当兼部長、菊池逢介。
そして、シナリオライター兼サポーター―
「…や、やっぱりいいよっ」
「い~からい~から、なんか喋っとけって」
「う~…」
オープニングBGM、録音タイトルコールの後、こんなやりとりから始まった。
コホンと一つ咳払い、
「え~っと…。四月の自己紹介以来で、ほとんどの方には忘れられてしまってるのかな~と思うんですけど…。ラジオ部で、その、補助的なことをしたりだとか、あと、ラジオドラマの脚本なんかも書かせてもらってます、須田明です。実は、不覚にも夏風邪を引いてしまいまして、二日ほどお休みをいただいたんですが、Youthの方は色々とあったみたいで…。家で聴いてても、事故っちゃうんじゃないかともー心配で心配で、ちっとも休めませんでした。でも、二人がガンバってくれたおかげで万事滞りなく放送されて、ホッとしました。今後は二人に迷惑をかけないように、体調管理には気を付けたいと思います。―あっ、アタシばっかり喋ってちゃダメですよね。ではでは、千内町のアイドル、スター赤木にバトンタッチしますっ」
一通りのトークを終えて須田が立ち上がろうとすると、赤木が肩を押さえて制し、振り向いた須田にジェスチャーで何かを伝えた。開けた口の前で手を何度もグーパーさせ、さらにアゴでマイクを指している。しかも、物凄くやんちゃな表情で。
ジェスチャーの意味を理解した須田は再びマイクに向かい、机の上にバンと手を置いた。
「おかげさまで復活しましたっ! 今後とも、千内高校ラジオ部をよろしくお願いしますっ!」
須田が大声で言うと、赤木が煽るように拍手と歓声をあげ、さらに菊地が録音の喝采を再生して援護射撃した。
その場の勢いで言ってしまった須田は、頬を赤らめて逃げるようにマイク側を出ていった。
さりげない動作でマイク席に座る赤木。
「えー、まぁ、そういうわけでですね、復活しちゃいました、須田さん。オレ、昔夏風邪こじらせてド派手に入院しちゃって、一日中点滴打ちっぱなしで悲惨な目に遭ったブルーな思い出があるんですけど、やっぱ女性は強いですねぇ。須田の姉さんなんか、38度も熱あるのに『部活あるから』って学校行こうとしたらしいですよ? オレなんか平熱低いから、36度くらいでバタンキュー。男のくせに情けない事この上ないッス…。皆さんも、油断してエアコン付けっぱで寝ちゃうとか、汗をかいたまま着替えずにいたりとかしないよう、十分に気を付けてください。―ところで、風邪の予防にはネギがいい!ってよく聞くけど、実際どうなんですかね? 勇敢なチャレンジャーの方、レポートお待ちしております! …あっ、でも、失敗して風邪引いてもボクのせいにしないでくださいね?」
赤木がゴホンと咳払いで区切り、ミキサー側では菊池が手厳しく、須田がやさしく『バカ』と言った。
「はてさて皆さん、今日は何曜日だったかしら? ―そう、水曜日。では、水曜恒例企画といったら? もうおわかりですね。本日華麗に復帰を遂げた須田姫が、病床に伏している間もこっそり書いていたという噂もキャッチしました。そんな彼女のガンバりに、ボクも全力で応えなければなりません。それでは参りましょう! 水曜恒例企画、ラジオドラマ『千内ストーリーズ』!」
エコーのかかったタイトルコール、『ストーリーズ』の『リ』は必ず巻き舌である。
菊地の手によって、回想シーン用のゆるやかなBGMが流れ始めた。
「前回、憧れの先輩に告ってことごとくフラれてドン底まで凹んでいた主人公上島瑞姫は、必死に励ましてくれる幼なじみの石野克郎にほのかな想いを抱いていることに気付き、悩んでいました。しかしそこへ、親友の半田鈴子に相談を持ちかけられたことで、事態はとんでもない方向に行ってしまうのです」
『私ね…、石野くんの事が…』
「果たして、上島瑞姫の運命や如何に!? 千内ストーリーズ、はじまりますっ!」
BGMがフェードアウトし、数秒の間を置いてラジオドラマはセリフから始まった。
なお、このラジオドラマはパーソナリティによる独演である。登場人物の老若男女を問わず、全て赤木一人で声を演じなければならない。これはラジオ部の伝統でもあり、プロのパーソナリティを目指す者の登竜門といっても過言ではない。
しかしこれを、赤木は天賦の才を以って容易にこなしてしまうのだった。
パーソナリティとしての才能に限った話ではないが、赤木は幼い頃から人間の声帯模写にズバ抜けて長けていた。野太い声、ハスキーボイス、しゃがれ声、なんでもござれ。幼少の頃は保母の声マネをして友人を驚かせ、中学生の頃は欠席している生徒の声を真似、出欠確認の点呼で代わりに返事をして"代理出席"で荒稼ぎをしていたりもした。相当に聞き慣れていなければ判別することは不可能な程、赤木の声帯模写能力は優れている。ラジオドラマのような空想人物も例外ではなく、人物像をイメージし、適切な声色を表現してみせる、模写を超えた、一種の声優的な技術も持ち合わせているのだ。
故に、ラジオドラマなど朝飯前なのだった。
「―なんか、悔しいですよね」
ミキサー側にいる須田が言う。
「何が?」
「声だけ聞いてると、ホントに女の子が喋ってるみたいで、しかもすっごくかわいいし…」
「…まぁ、声だけなら否定はしないが」
「部長だったらどうします? 赤木くんだとはわからない状況で、あ~んな声で愛の告白なんかされちゃったら」
「なっ、」
そんなものは無論、と即答しようとした菊地だったが、目をつぶってしばし赤木の擬声を聞き、
「…ヤツは、危険な存在だな」
「ですよね…」
『克郎は、渡さないんだからっ!』
赤木は、最優先危険人物の称号を得た。
「―のナンバー、イイモデードさんのリクエスト、十華で、ナイトさま」
マイクのボリュームを切り、BGMがAメロに入る頃、赤木はミキサー側で扇がれていた。
「あ゛ぁ~ぢぃ~よ゛ぉ~…」
「もーすこし、も~すこし」
床にへたり込み、扇風機の強風を独占している上、須田にうちわで扇いでもらっていた。役得である。
須田が用意していたスポーツドリンクを浴びるように飲み、天井を見上げながらプハーッと息を吐いた。
「お前、なんだかんだ言って結構ノってたじゃん」
「えっ? そ、そんなことないよぉ…」
「そんなことないって人が、スター赤木にバトンタッチィ!とか言いますかね~」
「ア、アレは、そう、アドリブだよ、アドリブッ」
「アドリブかましちゃえる余裕あったんだ」
「よ、余裕ってゆうか、ほら、あの席に座ると、やっぱりね、気分が、こう、それっぽくなる、みたいな…?」
「後生故、ラジオ部を夜露死苦ぅ!! な~んて、オレには言えないなぁ」
「そ、そんなこと言ってないでしょ!」
「言った言った」
「言ってないっ!」
「あれ…、なんて言ったんだっけ?」
「…ってゆうか! アタシの事は、言わなくていいのにっ」
「あ~、38度の?」
「病床で云々、ってのもっ」
「言っちゃマズかった?」
「ん…。マズイ、ってわけじゃないけど…。なんか、恥ずかしいし…」
「いーじゃんいーじゃん、部活に対する熱意がみんなに伝わって」
「…ってゆうか! その話、なんで知ってるの!?」
「え。そりゃ、赤木ネットワークで」
「もぉ~、またそれ?」
「また、って言われても、商売道具だもんで…」
「お母さんしか知らないはずなんだけど」
「これ以上は、企業秘密ナリ~」
「ちょっ…!」
菊地は大きな大きな溜め息をつき、
「夫婦漫才もいいが、そろそろだぞ」
いじり側にいた赤木だったが、唐突の爆弾発言に度肝を抜かれ、ズギャンという効果音がしそうなほど驚いた顔で菊地の方を向いた。
「だだ、誰が夫婦だよっ!」
「マイハートに聞いてくれ。そしてマイクに戻れ」
「う~…」
赤木はげっそりと立ち上がり、とぼとぼとマイク席に戻っていった。
「さすが部長、扱いがお上手で」
「…はぁ」
いじられる方もまんざらでもなかったように見えたが、とは言えない菊地であった。
BGMがアウトロに入るとミキサーでボリュームを落とし、赤木がマイクのボリュームを上げる。
「聞くところによると、午後は33度のド夏日になるそうです!…って、言うだけでも暑くなりますよねぇ…。しかし! 暑さに負けないよう、千内魂全開でガンバりませうっ! それでは皆さん、良い午後を。See You!」
BGMとクロスフェードして洋楽のサビ部分、本日の放送が終了した。
赤木がマイク側から出ると、須田が先ほどの飲みかけのスポーツドリンクを差し出していた。
「お疲れ様」
「おつかれ~」
スポーツドリンクを受け取ると、すでに右手にスポーツドリンクを握っていた座ったままの菊地が左の手の平を差し出し、
「お疲れ」
「おつかれさんっ」
手の平を叩いた。
赤木が空いている椅子に腰掛けてドリンクを一飲みしている間、須田は冷蔵庫から冷えたゼリーを取り出し、まず菊池に数個渡し、続いて赤木に渡―さない。赤木の目前に立ち、ゼリーの入った袋に手を入れたまま、じっと赤木を睨んでいる。
「えっ…。さっきの、怒ってる?」
「違いますっ」
「…じゃ、なに?」
「飲まない?」
あぁ、そういうことかと赤木は理解した。
「まっさかぁ~、姐御の言い付けはちゃんと守ってますがなぁ~」
「昨日、飲んだでしょ」
直球ド真ん中の大図星。だが、はいそうですかと簡単に引き下がる赤木ではない。
「いやいやそんな、須田ネェの目がないとはいえ、約束は約束ですからっ」
「飲んでないっていう証拠は?」
「…じゃあ、トイレでおっきぃ方をイテイテ!?」
言い終えてもいない内に須田からビンタをもらい、部長からゼリーの剛速球を後頭部に賜った。しばし悶絶した後、
「証拠っつってもさー…。監視カメラで撮ってたわけじゃないし…」
それを聞いた須田は、とんでもなく身近にある証拠を見落としていた事に気付いた。昨日、赤木と一緒に部活動をし、赤木の行動を間近で目にしていたに違いない人物。
「部長!」
「お?」
「部長は知ってるよね!? 昨日、赤木くんが飲んだかどうか!」
「いやいや! ブチョ、オレ飲んでないよね!? バッチリその目で見たっしょ!?」
無関係だ(というか関わりたくなかった)と思っていた夫婦漫才に巻き込まれ、菊地はやれやれである。
「どうなの!?」
「飲んでないよね!?」
「「部長ッ!」」
菊地は即答した。
「飲んだ」
―しばし、沈黙が続いた。
セミの鳴き声が、夏の風景を彩っていた。
日はどこまでも暑く、空調のない放送室を照らしていた。
夏は、まだまだ続きそうだった。
菊地に向いていた須田の顔が、如何なる文言を用いても表現し兼ねる表情で赤木に向いた。
逃げよう、そう思った赤木だったが、身体が何らかの不思議な力によって封じられ、動けなかった。
背中に大量の脂汗がほとばしる。顔が引きつっている。声が出ない。助けてくれ裏切り部長。
顔だけを向けていた須田は、身体ごと完全に赤木に向けた。
イヤー! せめて、せめてオトコだけはー!
「…」
すっかり怯んでしまっている赤木を見た須田は、
「もう、いい…ッ」
不機嫌そうな(文字で表現できる)顔で、呆れた風に溜め息をついた。
「…あれ?」
何だかよくわからないが、とにかく怒られないで済むみたいだ、と思ったのも束の間。
「没収ッ」
「えっ、いや、ちょちょちょ! ちょまっ、明、頼むって! オレが悪かった! もう絶対しないからっ! 金輪際! 誓って! 一切合財! だから、一個だけ…!」
「問答無用ッ」
「そんなぁ~、殺生やわぁ~…」
怒りを込めまくった動作で冷蔵庫にゼリーを放り投げ、少し古い小型冷蔵庫を破壊せんばかりの勢いでドアを閉めた。
須田が怒るのは無理もない。赤木が約束を守らなかったのは、当然ながらこれが初めてではなかった。
以前から須田の徹底的な指導と監視で飲み込みを未然に防いでいたが、ここ最近は何も言わずとも自ら進んで噛んで食べるようになっていたので、油断していた。
欠席していたのだから監視できないのは致し方ないにしても、指導の効果に慢心していた自分に腹が立った。
そして何より、赤木を信頼していた。悔しかった。
しかし。
冷蔵庫の前で膝を折って落ち込む須田の思いを知ってか知らずか、さっきから背中にビシビシと視線を送る人間がいた。しかもこの視線のタイプは、哀願である。須田は背中の感覚だけでそれを察した。
不機嫌な表情で相手を睨み飛ばす風に振り返ると、案の定、赤木がうるうるした目で須田を見つめていた。本当に顔に言いたい事が書いてありそうな、どこまでも情けない表情だった。
拍子抜けした須田はガックリと肩を落として溜め息を一つ、閉めたばかりの冷蔵庫からゼリーを一つ取り出して、赤木の目の前に差し出した。
「飲んだら、飲むからね」
それは嫌だ、と赤木は率直に思った。
恐る恐るゼリーを受け取ると、汁がこぼれないようにそっとフタを開け、ゼリー容器の底を摘まんで押し出して口に入れ、須田の熱すぎる眼差しを受けながら、しっかりと咀嚼して飲み込んだ。
「んまいっ」
その、赤木のあまりに幸せそうな表情を見て、須田は思わず微笑み、溜め息をついた。
「いい? 今度飲んだら、ホントに没収だからね?」
「はいっ、スイマセンでしたっ」
「あと、部長!」
「お?」
「見てたのなら、ちゃんと注意してください!」
「あ…、あぁ」
なんで俺が、と菊地はやれやれだった。
一通り説教をして満足した須田は、時計を見て思い出した。
「次、体育なんで、お先失礼しますっ」
「おっつ~」
「お疲れ」
須田が放送室を去り、ドアチェッカーによってドアがゆっくりと閉まると、菊地がつぶやくように言った。
「世話焼き妻」
ズギャン。
ラジオ部員は、部の創設初年度を除いて三名と決まっている。人手が必要な部活ではないため、少数精鋭での構成が望ましいからだ。何より手狭な放送室に大人数を収容できるはずもなく、夏場ともなれば暑苦しくてやっていられないだろう。当初は募集人数を定めてはいなかったが、自然と三人構成が定着し、今に至っている。
だが、三人構成が続いているのは、そんな伝統的な理由だけではなかった。
入部には、いくつかの条件をクリアせねばならないのである。
その条件とは、以下の通り。
一、千内高等学校に所属する二年次の生徒であること。
二、主に昼休みを使っての部活動を了承できること。
三、止むを得ない事情を除き、中途退部は絶対に許されない。
四、ラジオが好きであること。
他にも暗黙的な条件はあるが、原則この四条件を満たしており、募集定員に空きがあれば入部する事は可能である。
しかし、ラジオ部創設以来、定員を上回る事も下回る事もなく、不思議と毎年三名ピッタリに入部希望者が出るのだった。
下回らないのはまだしも、上回らないのは何故か。決してラジオの人気が低迷しているわけではない、むしろ逆で、歳を重ねる毎に人気は高まっている。さすれば自ずと入部希望倍率も高くなって然るべきなのだが、そうでもない。
このような状況になっている最大の要因は、条件の二にあった。
昼休みに部活動を行う、即ち"昼休みがない"ということ。
学生生活に於ける昼休みの重要度は極めて高い。昼食を摂るのはもちろんの事、友人との談笑、各種委員会等の集会、午後の授業の準備や予習、昼寝等々、決して欠かす事のできない時間なのである。
それを、丸々一年間、部活動に充てる。尋常ではなかった。
万人の憧れの的、千内高校ラジオ部員の肩書きを遠ざける理由は、まさにそこなのだった。
それだけラジオ部の活動はシビアであり、単に恰好良さや目立ちたいという生半可な理由で入部を希望し、途中で挫折してしまうという最悪の展開を防止するための厳しい条件設定でもある。
そして、その入部条件をクリアし、入部できた者には晴れて千内高校ラジオ部員の肩書きが与えられる。それぞれの役職は本人の希望や顧問を交えての話し合いで決定されるが、これもまた不思議で、毎年必ず三名がそれぞれ別々の役職を希望しており、話し合いの場を持たずとも早々に解決してしまうのだ。
また、部員を二年生に限定しているのは、一年生は入学したばかりで学校に不慣れな点が多々あるため、三年生は受験が控えているためで、消去法で二年生に限られてしまうのだ。世にも珍しい、先輩も後輩もいない部活である。
「赤木」
ZZZzzz.
「あーかーぎ」
ZZZzzz.
「起きろ茶髪ッ!」
「…んだよぉ~…」
五限目と六限目の間の十分休み。
五限目の半ばから貪っていた惰眠を妨害され、赤木は不機嫌だった。
赤木を起こしたのは、赤木の前の席の出席番号一番、青木守。どうという事はない、少し若気を有り余している普通の高校生だ。椅子に逆向きに座って赤木に話しかけている。
青木と赤木。
二人が出席番号の初めから並んでいる影響ですぐに名前と顔を覚えられ、ユニークな教師からは点呼の際に『ブルー』と『レッド』などと呼ばれる事もあった。おかげで、二人は早々に友人となった。
「このクッソ暑いのに爆睡しやがって、どんな芸当だよ」
「…心頭滅却すれば、ナンチャラカンチャラ…」
「それ、寝てて意識ないだけじゃん」
「四の五の言わずに寝ればいいのさー…」
「そうかそうか、四の五の言わずに寝…ってだからそうじゃねぇって」
「じゃあ、六の七の言わずに…」
「いよいよテスト目前、みんな必死にオベンキョしてるわけだが、そっちはどうなってるね?」
「寝るのに忙しくて…」
「今回の社会、マジでふるいにかけてくるらしいぞ。悪い事は言わない、マジメに勉強した方がいいって」
「…マジメに、寝る…」
「とか言いながら勉強してない俺も俺なんだけどな」
ハハハ、と青木は独りで笑った。
千内高校では、夏休みの直前に中間テストを催すのが定番となっている。大半の生徒は夏休みという学生生活最大のイベントに浮かれてまず勉強しない、学んだ事はほとんど忘れてしまうだろうと見越し、ならばせめてもと夏休み前に生徒を締め上げる目的でテストを行っている。教師も人間、面倒な事はさっさと済ませてしまいたいと考える者もいて当然であり、キリの良い範囲まで出題しようと明らかなオーバーペースで授業を進めて生徒から悲鳴が上がる事も多々ある。今回の社会科のテストもその傾向にあるが、教師の負の性格に起因する面もあるらしい。
「スーガクのコーシキとか、ビーカーだのカービーだの覚えたところで、MCがうまくなるわけでもないしー…」
ごもっともだが、そんな理屈が通じた日には日本の教育機関は根本から破綻してしまう。
「いいなぁ、お前には光るモンがあって」
「いや、ハゲてないから」
「…」
赤木の成績は下の上。パーソナリティを務める上で必要な知識や無意識の情報収集による蓄積で多少はこなせているが、上のような信念、それに伴い性格上勉学を嫌い、よほど"ヤバイ"状況に陥らない限りは自ら教科書を開くような事はしない。いわゆる『やればできる』タイプなのだが、本人曰く『勉強するヒマがあったらAM聴きながらFMを聴く』らしい。ただ、学ぶ事自体を無駄だと考えるのではなく、実用性を考慮し、自分が目指すものに有用かどうかを判断して取捨している。実際、英語のヒアリングは常に高得点をマークしているし、英語そのものの科目も平均以上の成績である。プロのパーソナリティを目指すのであれば英語は必須の能力だと考えているからであり、実際に行動できている。総合的には不可だが、やはり青木の言うように一つでも『光るモン』があれば、それだけを伸ばそうという生き方も一興ではないだろうか。
「じゃ~青木、こうしよう」
「あん?」
「赤点を取った方が、カラオケをおごる」
「…両方取ったら?」
「割り勘」
「乗った」
すでに勝負は決まっているも同然だった。
放課後。
須田は、昨日赤木が通った道を、自宅に向けて自転車を漕いでいた。
十字路が赤信号のため停車していたところ、
「おーぅ明チャン! ひっさしぶりぃ!」
聞き覚えのある声に振り向くと、右方から白いランニングを着た色黒のたくましい男が歩いてきた。
「あっ、原さん! おひさしぶりですっ!」
「いっや~、ちょっと見ない内にまた色っぽくなったぁねぇ」
「そそ、そんな、滅相もございませんっ」
「明チャンさえ良けりゃ、ぜひウチのせがれの嫁に来て欲しいもんだ! ―17才と四才、13才差のカップル、ってか?」
なっはっは、と原が笑った。須田も苦笑混じりに微笑む。
「そうそう、聴いたよラジオ~! ウチの連中、みんなして『忘れるわけなかっぺ~』って言ってたわ!」
「いや~、表舞台の方は赤木くんに任せっきりなもんですから…」
「もったいない! ホンットにもったいない! 俺さ、前から思ってたんだども、ラジオドラマ、赤木の坊主と一緒にやってみたらどうだい?」
「う~ん、それは難しいかも…」
ってゆうか、そんな事したらアタシ浮きまくり?と明は嘆いた。
「そうかぁ、名案だと思ったんだがなぁ…。いや! 明チャンはちゃんと、脚本家っつー形で大活躍してんだから、それでいんだわな!」
「まだまだ未熟ですけどね」
照れ隠しにポリポリと頬を掻きつつ、
「アタシなんかの作品で良ければ、来週もまた聴いてくださいっ」
「おぅよ! 言われなくとも、スピーカーに耳当てて聴いちゃうっ!」
お互いに笑ったところで信号が青になった。
「おっと、あんまり引き止めちゃ悪いね。そんじゃ、またどっかぶっ壊れたら相談してちょうだいな! 明チャンならサービスしとくよ♪」
「はいっ、よろしくお願いします♪」
軽い挨拶をしてから原は直進していき、須田も自転車のペダルに体重を乗せた。
原は、千内工務店に勤める大工である。
三十代後半、元ワル。四年前にいわゆる"できちゃった"結婚をし、まだまだ手のかかる四才の息子と嫁と、幸せに暮らしている。
須田と原との関わりは、十年以上前、須田家施工の頃まで遡る。
元々は千内町の北方でアパート暮らしをしていた須田家が、父の一念発起で一軒家の建造を計画。色々と調べた結果、最近郊外に拓かれた住宅地にまだギリギリ空きがある事がわかり、ここで躊躇ったら一生後悔する、そう信じてトントン拍子に話を進めていった。
その際に家の施工を依頼されたのが、千内工務店である。
まだ幼かった須田は、狭いアパートから解放されて大きな家に住める事に猛烈な夢と期待を抱いていた。それはもう、とんでもない勢いでワクワクしていた。誰しも新築となれば自然と胸躍るものだが、住宅ローンだの何だのと、建築主にとっては悩ましい事柄ばかりである。が、そんなものを気にする必要のない子供の須田にとって、手放しで喜べる事はとても幸せな事だった。自分専用の部屋ができる、部屋のレイアウトはもうイメージできてる、ココにはポスターを貼って―。
待ち切れない思いの余り、須田はほぼ毎日、小学校からの帰りに大きく遠回りをして建築中の我が家を見に行っていた。見に行って、ただボーッと眺めていたら、工務店の人たちに話しかけられ、次第に仲良しになっていった。お菓子をもらったり、工事の簡単な箇所を手伝ったり、色々な話をしたり聞いたり、須田が来ない日は皆心配になって作業が鈍ってしまうほどになっていた。
その中でも、当時一番若かった原が特に面倒を見てくれて、須田家竣工後もこうして何らかの交流をするほどの仲になったのだった。
しかし、それも十年以上も前。
老けたなぁ、としみじみ感じる須田であった。
「ただいま~」
須田の声に、返事はなかった。両親は共働きで、帰宅時間は前後する事が多々あり、普段は早い母親も今日は遅くなっているらしかった。
シャワーを浴びて汗を流し、部屋着に着替えてそそくさと向かったのは、二階にある自分の部屋の勉強机だった。
須田の成績は平均以上。勉強はテスト前にするくらいで、熱心に勉強をするタイプではない。勉強は嫌いではなく、どちらかといえば好き。だが、勉強の何倍も、須田には好きな事があった。
椅子に座り、引き出しから自由帳とペンを取り出し、黙々と、時折楽しげに、執筆を始めた。
まだまだ漠然としているが、将来は作家になりたい、と須田は考えていた。
売れなくてもいい、自分の作品をおもしろいと思ってくれる人が一人でもいれば、それだけで幸せ。
中学三年生の時、クラス替えで仲良くなった友人に小説を書いてみないかと誘われたのがキッカケだった。
小説なんて教科書に出てくるトップクラスの著作しか読んだ事のなかった須田は、無論執筆に回った事など一度もなかった。最初こそ躊躇していた須田だったが、友人の書いた小説を読ませてもらい、何の制約もない、自分だけの世界を創る楽しさ、捻じ曲げるドキドキ、想像が創造に変わる喜び、何もかもが衝撃的だった。全てにおいて、心動かされたのだ。
それから須田は、とにかく書いた。書き方など全く知らなかったため、無地の自由帳にそれらしく縦書きにして書き、以降そのスタイルが定着した。見よう見まね、手探りで完成させた処女作を友人に見せたところ、初めてとは思えない出来だと賞賛された。単純に嬉しかった。その感想に多少なり感情や世辞が入っているとわかっていても、おもしろい、また読みたい、そう言われる事の快感に偽りはないのだから。
最初、友人と二人で作品を見せ合うだけで十分だったのだが、須田が小説を書いているという話が他の友人に広まり、キャー見ないでーと言いながら堂々と差し出し、読まれ、やはり絶賛された。嬉しかった。この嬉しさは、もう忘れる事はできないだろうと須田は思った。続きを読みたい、その言葉が執筆の原動力となった。
そして、今に至る。
ラジオ部にシナリオライター兼サポーターとして入部するまでの紆余曲折もあるが、それはまた別の話。
「ん~」
目線を上にやり、顎にシャープペンを当て、展開について考えあぐねていた。
たまに軽いスランプに陥り、パタッと進まなくなってしまう事がある。そんな時、須田を助ける魔法のアイテムがあった。
「あっ」
思い出した須田は、一階に降りて冷蔵庫を開け、取り出した。
イチゴホッキー。
昨日、赤木が購入したものだ。
ルンルンと軽くスキップしながら部屋に戻り、いそいそとイチゴホッキーを開封し、一本取り出してかじった。
「んまいっ」
左手にホッキー、右手にシャープペン。
もはや、須田に敵はいなかった。